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暁の彼方〜番外編 暁闇〜



 6
 テラが王宮を出て、十日あまりが過ぎた。その間に春の花はすべて散り去って、枝の青葉は濃い色の緑に色を変えた。陽射しはまだ柔らかな春の光だが、これが射(い)るように射し込む、夏の太陽になるのも、もう間もなくだろう。今年は、夏の訪れが例年より幾分早い。この分では秋には豊作になると、気の早い商人達は、早くも穀物の値下がりを心配している。
「もう少し食べてくださいましな。ルーカス様」
 その日の明け方近く、官邸に帰ってきたルーカスを、エリザは半ば無理やり、朝食の席に引きずり出していた。ご本人はこっそり着替えだけ取って、再び王城に戻るつもりであったらしいが、あいにく、老人の眠りは若者には想像もつかないほど浅いのだ。エリザの傷が治るまでの約束で雇い入れた小女の作った朝食を、ほとんど能面のような顔で口に運んでいる。その横顔が、確実に、少し痩せた。
 ――どうして、探そうとなさらないのですか。
 空いた皿に黙々と次の食事を給仕して、エリザは主である若者に、心の内で問いかけた。
 王宮内では、彼の妻であるかつての王宮舞姫は、官邸に新しく雇われた庭師と手に手を取って駆け落ちしたと言われている。彼女と庭師が、庭先で人目もはばからずに密着していた姿を、目にしたものもいるそうだ。しかしまさか黒宰相ともあろう男が、そんな無責任な噂を信じているわけではないだろう。姿を消す直前、テラが何らかの問題を抱えていたのは明らかだった。それを承知ならば何故、宰相の権力を使ってでも、探し出そうとしない。
「ルーカス様、あの、テラ様のことは――」
「――ご馳走様でした。これ以上は簡便して下さい。朝議に遅刻する」
 窓の外では、庭師が去った為に手入れされなくなった庭木の枝が、濃緑の葉を目いっぱいに生い茂らせている。その緑の陽炎の向こうに、痩せて背ばかり高かった少年の幻が、一瞬、遠ざかって見えた。



 夢を見ていた。
 あれは去年の夏、王都近在に在住する貴族の結婚式に、二人で招かれた時のことだ。
 王都に帰るよりルーカスの領地の方が幾分近かった為、二人で数日、彼の領地の館に滞在したのだ。結婚してからはじめての遠出にテラの心は弾んだし、それはまた、ルーカスも同様であっただろう。まるでありきたりの恋人同士のように、夏祭りを二人で見物して、館に戻って彼を慕う領地の人々と食事をして、夜には一つの敷布に包まって眠った。
 振り返れば懐かしく、涙が出るほど切ないのは何故なのだろう。あの時からまだ、ほんの一年ばかりしかたっていないというのに――。
 


 薄闇の中で、テラは目を開いた。
 どこか遠くで、喧騒が聞こえる。もう街外れの酒場で、灯りが点されはじめる時刻なのか。ほんの少し横たわって休むつもりが、幸福な夢の名残に捕らわれて、思いの他、深く眠ってしまっていたらしい。
 多少寝汗をかいたらしく、衣が肌に張り付いて気持ち悪い。敷布から抜け出そうとして、テラの背筋が粟立った。夕闇時の薄暗さに紛れて気がつかなかったが、部屋の中に、誰か、いる。
「……誰?!」
「黙れ」
 振り返った瞬間、腕を掴まれ寝台に引き戻された。放たれた声音は、彼女を王宮から連れ出し利用しようとした、戦闘者のギルドの若き頭領のものだ。
 王宮を出て十日あまりの月日を、テラは王都の外れの安宿からほとんど出ることなく過ごした。宰相官邸を抜け出した直後から体調を崩し、身動きを取る事ができなくなってしまった為だ。
 ギルドを立て直す為、<戦乙女>の名を利用するつもりの男にとっては、さぞ不本意だったことだろう。さすがに、まるで食事を受け付けず、それどころか食べ物の匂いを嗅いだだけで嘔吐する女を連れて強引に旅立つことはできなかったらしいが、その苛立ちを、彼は別の手段で解消することにしたらしい。
「何を考えて……い、嫌っ!」
 ほんの少し身動きできずにいた間に、無骨な指先が衣の内側に入り込んだ。わずかに緩んだ襟元の隙間は瞬く間に広げられ、素肌に直接、男の息がかかる。
「――放して!」
 指に指を絡めて、褥の上に押し付けられた。
 通常の状態ならば、いくら腕力に差があっても、ここまで呆気なく陥落したりしなかったろう。ここ数日の不調が、身体から想像以上に活動力を奪っている。
 だけどこんなのは絶対に嫌だ。こんな風に触れてもよいのは、触れて欲しいと願ったのは、世界中でたった一人だけだ。
 そんなテラの、祈りにも似た切実な願いが通じたらしい。必死で伸ばした指先が、寝台脇の卓上に触れた。その上には、王宮の女達が自衛の為にもつ短剣がのっている。
 勢いに任せて振り回した切っ先が、男の頬を斬りつけた。拘束が緩んだ隙を見て寝台を抜け出し、部屋の入り口の扉を目指す。その場所にたどり着く直前に、起き上がった男の腕に捕らえられ、したたかに壁に背中をおしつけられた。
「そんな短剣で、ましてやお前の腕で、俺が殺れるものか」
「わかってるわよ」
 だから……と薄く笑って、テラは短剣の先端を己が喉に押し当てる。
「これ以上、近づいたら、喉を突く。あたしは本気よ」
「……」
「<戦乙女>の名前が欲しいのなら、いくらでも使えばいい。だけど、<あたし>はあんたなんかにくれてやらない」
 ――本心だった。
 これ以上、この男に自分自身を好きにされるくらいなら、いっそここで喉をついて果てた方が、よほどましだ。
 冷えた刃の切っ先が肌を伝って、細い傷から赤い雫が滴った。その光景を、どこか奇妙なものを見る目で、カイザックが見る。父親によく似た風貌を持つ青年だが、そんな表情は、テラがクラネットの中には見つけたことのないものだ。
「――つまらんな」
「カイザック……?」
「一人の男に操を誓って、命を絶つような、ただの女に興味はない」
 拘束が解けた瞬間、全身の力が抜け落ちて、テラはその場に膝をついた。ぱたり、と何かが閉じる音がして、男の気配が遠ざかって行く。
 部屋の中に夕闇がおちかけた。誰もいない薄暗い部屋の片隅で肩を抱いて、王宮を出てからはじめて、テラはほんの少し、泣いた。





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