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暁の彼方〜番外編 暁闇〜




 ぱちん、と音をたてて乾いた枝が地面に落ちた。
 青葉を茂らせた庭木の枝が、次々と地面に落下して行く。周囲には干草をまいたような、どこか懐かしい匂いが満ちていた。内に太陽の恵みを宿した、草木特有の香だ。今はまだ春の花が咲き誇ってはいるけれど、季節は着実に、花の季節から緑と太陽の季節に移り変わろうとしている。
 宰相官邸の庭先で、淡々とその作業をこなしていた男が、弾かれたように振り返った。振り向きざまに使っていた枝斬りバサミを振り上げて、飛んできた石の礫を斜めに弾き落とす。次の瞬間、鋭い音が晴れた空の下を響き渡った。振り上げられたテラの掌が、男の頬を打った音だった。
「――どうして?!」
「……」
「あたしが憎いなら、あたしを殺せばいいでしょう?!エリザさんやあの子に何の関係があるの?!」
 踊り子として鍛え上げたテラの腕力は、並みの女より強い。不意を打った一撃に、カイザックは身体の均衡を崩して、身体を壁に押し当てた。上背のある男の襟首を掴みとって、さらなる一撃を繰り出そうとした細い腕を、無骨な指が掴んで取る。
「何の話をしている」
「とぼけるつもりなの?!」
「俺は最初に言った筈だ。お前の返答次第で、周囲の人間を殺す、と」
「……」
「それをただの脅しだと思ったのか?<戦乙女>の娘ともあろう女が」
 淡々とした声音に、振り上げた手が、中空で止まる。
 エリザを襲った暴漢は戦闘者のギルド、この男に地位を譲った庭師は、そのすぐ後に死んでいた。そしてテリーゼの赤子は――銀の龍を刺繍した布地に鼻と口を覆われ、息が出来ずに死んだ。
 <戦乙女>の娘を憎むこの男なら、ただテラを苦しめるためだけに、罪もない人間の命を奪いかねない。心の底では、わかっていた筈だった。だがテラはその認識から目を逸らした。――心の底で脅しでないと悟りながら、心の底から、脅しであってくれと願って。
「お前の存在は、周囲に毒を撒き散らす」
 掴んだ手を軸にして、身体を壁に押し当てられる。強い力で肩を壁に縫いとめられ、首筋に、男の唇が落ちた。
「嫌っ、放し……」
「母親を殺した男と、幸せに生きて行くか?罪と咎ない人間の命を奪いながら?」
 首筋の窪みを、男の舌が辿る。ルーカス以外の男にこんな触れられ方をするのは嫌でたまらないのに、心が萎えてしまったかのようで、腕に力が入らない。
「次は誰を殺されたい。こないだ失敗したあの婆か。それともお前を慕っているあの小女か」
 ――あたしが殺した?あの人も?あの人も?
 首を辿った唇が、耳朶を食む。睦言を囁くかのごとく、甘い声音で。
「……あの赤ん坊を殺したのは、お前なんだよ、テラ」



 夜になって帰ってきたルーカスは、酷く疲れた顔をしていた。最近はそれほど重要な案件もない筈なので、恐らく、精神的なものだろう。彼とテリーゼの付き合いはテラよりかなり長い。別人のようにやつれたかつての親友の姉を見るのは、彼にとっても辛い出来事であったに違いない。
「シルーズには早馬をやったよ」
「……」
「……これほど、やりきれない報せはないな」
 数ヶ月前、第一子誕生を国境にいるテリーゼの夫に伝えたのは、ルーカスだった。職権乱用を承知で、宰相の権を使って、最重要事項として早馬を飛ばしたのだ。その同じ報せが、今度は死を知らせることとなった。
 襟元を緩めながら寝台の上に腰を下ろして、水差しを口に含む。飲みきれずに溢れた水が、顎の先を伝って滴う。それを拭おうとルーカスが持ち上げた拳よりも早く、テラは透明な雫の行く先を舌で拭った。
「――おい」
「……黙って」
 首筋をなぞる水滴が鎖骨の窪みに滴って、肌蹴た胸板を辿った。月の明るい夜なのか、窓辺の布地から空ける明かりに照らされて、さながら、銀の糸を捲いたかのように見える。テラの手を掴んだルーカスが眉根を寄せて身震いしたのを見て、背筋にぞくり、と震えが走った。
 ――男に誘いをかけたことなら、何遍もある。
 クラネットがテラに――カウラに執着していたために、誘いをかけて寝台に連れ込んでも、その先を行わずに済んだ。幸運だった、と今では思う。好きでもない男と褥を共にして、暗殺や情報集を請け負うギルドの女の定めから一人だけ逃れていることに、後ろめたさはあったけれど、おかげであの雪嵐の夜、好いた男の腕に素直に身を任せることができた。
 もっとも15、6の年齢でかなりの場数を踏んで、男など寝てしまえば皆同じと嘯いていたテラと同じ年頃の少女とて、真実心の底からそう思っていたのかどうか。心寄せた男に抱かれてその子を宿したい。街娘であれ娼婦であれ、女はやはり誰も皆、多かれ少なかれそんな願いを抱くものなのではないか。
 何度も何度も呼気を絡め合って、テラの肩を掴んだルーカスの掌は熱かった。真意を見定めようとでもいうのか。まっすぐと見すえられた澄んだ黒い水面に、今の自分の感情が映ってしまっていないことを、切実に、テラは願った。
「……どうした。珍しいな、お前の方から」
「思い出したの」
「何をだ」
「大事なものって、本当はすぐに消えてしまうんだってこと」
 ――ただの脅しだと思ったのか?<戦乙女>の娘ともあろう女が。
 ……だって、一緒にいたかった。
 母を殺した男への恨みや思いが、完全に消えてなくなったといえば、嘘になる。
 だけど…と思ったのだ。テラもルーカスもいずれは死ぬ。母と仲間の待つ、冥界という場所にたどり着く。ならばその時、地に頭をこすりつけてでも必死で謝ろう。――ごめんなさい。でもあたしは幸せだった、この人生を悔やんではいないと。
 だからその日が来るまでは、この人と共に生きたかった。授かるものなら子供も生んで、いずれ、同じ土に還りたかった――。
 交わりを終え、眠りに着いたルーカスの裸の肩に夜具を押し上げて、テラは黒い髪に指を絡めた。既に、王宮を出る手筈はすべて整っている。
「ごめんなさい……」
 何があっても傍にいる。かつて交わした誓いが、破られる日など、決して来ないと思っていたのに。






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