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暁の彼方〜番外編 暁闇〜




  エリザが王都で暴漢に襲われたのは、引退した庭師の家を訪ねた帰り道、人気のない住宅街の片隅に差し掛かった時のことだった。
 宰相家の使用人ともなれば、王宮務めの使用人の中でも最上位の地位ではあるが、エリザの風貌は一見、品のよい中流階級の老女にしか見えない。そんな、さして金があるようにも見えない老女を路地裏に引きこんで殴る蹴るの暴行を働いた暴漢は、騒ぎを聞きつけた近所の人間の通報を受けた衛士が駆けつけた時、既に辺りから消え去っていた。



 命からがら、王宮内にある宰相官邸にたどり着いたエリザの口から子細を聞いた途端、テラは顔を蒼くした。白い頬から血の気が引いて行く、その音が聞こえてくるかのようだった。
 幸い、命に別状のあるような傷はなく、骨も筋も無事だった。宰相官邸までわざわざ出向いてくれた医者も、まだ四十代だと言っても通る身体だと笑っていたくらいだ。
 白い晒を額に巻いた顔で、エリザは女主人にあたる娘の顔を仰ぎみる。春先は活発に人と荷が動く季節であり、迂闊に人気のいない路地裏にたどり着いた自分にも油断があった。この身体ではしばらく侍女の仕事は難しいだろうが、エリザには王都に、既に嫁いだ娘がある。傷が治るまでは娘の家に滞在して、孫の守でもして過ごすつもりだった――のだが。
「テラ様……?」
 使用人部屋まで駆けつけて、息をつめて医師の診察を見守っていたテラの瞳は張り詰めていた。矢を放つ直前、ぴん、と張った弦を見るような美しさがある。
 ――この娘がこんな顔をしているところを、過去にどれほど見てきたことだろう。
 ルーカスを母を殺した仇と思いつめ、しかしその若者に思いを寄せて苦しんでいた時、テラはいつもこんな、迂闊に触れれば手を切られるような、張り詰めた刃のような瞳をしていた。その瞳で無残に口の端を持ち上げて無理やりに笑おうとしている顔など、哀れで滑稽で――痛ましかった。
 成長を見届けられなかった娘が誰かを想い、その想う相手と暮らして行けるなら、安堵して息を吐き出しこそすれ、疎ましく思う親はいないだろう。ましてやその相手が少々――いや、かなり不器用で感情表現が下手ではあるが、誠実で真面目な青年であるならば、なおさらだ。自分を殺したとかたかだがその程度の理由で、冥界にいるテラの母親がわが子の幸せを喜べないのであれば、そんなものは親とは呼ばれない。テラだって、ルーカスとの間に子が授かればきっとすぐにわかるはずなのだ。
 名を呼びかけたまま、何と言葉を紡いでよいかわからなくなってしまったエリザの様子に気がついたのだろう。われに返ったテラは無理をして口の端を持ち上げた。その笑い方は、ルーカスが王家の森で行方知らずになった時、露台の上で浮かべていたものとまったく同じだった。
 痛ましさより悲しさを感じさせる顔で微笑んで、ゆっくり休んでください、と言い残して部屋を出て行こうとする。後ろ手に扉を閉じようとした瞬間目が合って、聞こえるか聞こえないかのささやかな声で囁いた。小さな声ではあったが、喉奥を掻き毟ってでもいるかのような悲痛な声音で。
「……ごめんなさい」
 何故、彼女が謝罪したのか。エリザにはその理由が、わからなかった。



 まだ昼前だと思っていたのに、窓の外に見える太陽は既に中天に差し掛かっている。
 膝の上に広げていた繕いものの手を休めて、テリーゼは慌てて、窓辺に垂れ下がっていた布地を押し上げた。柔らかな春の陽射しを浴びて、真っ白な洗濯物が庭先をはためいている。春先に生まれた赤子のむつきだった。今テリーゼが縫っていたのも、もう少し大きくなった時着せる為の肌着だ。これから、グリジアには短くとも暑い夏がくる。肌着のたぐいは、いくらあってもありすぎる、ということはない。
 しかし針仕事に熱中して、随分と時間を忘れていたようだ。よくぞまあ、お腹を空かせて泣き出さなかったものである。邸の居間から、日当たりのよい隣室の小部屋を覗き込んで、エリザは頬を緩めた。真っ白な産着に包まって、赤子は安らかな寝息をたてている――ように見えた。
「ごめんなさいね。お母様、すっかり夢中になってしまって。お腹が空いた――」
 ゆりかごを揺らして中の赤子を抱き上げようとして、テリーゼは小さく悲鳴を上げた。触れた掌に感じる感触は冷たかった。あれほど柔らかく乳の臭いをさせていた身体が、凍りついたかのように固い。
 悲鳴をあげた、つもりであったのに、実際にはただ息を吸い込み続けていただけだったのかもしれない。いつの間に開いたのか、小部屋を出た時には確かにしまっていたはずの窓が半分近く開いており、そこから風が吹き込んでいる。揺れるゆりかごから、ひらりと布が舞い落ちた。それは、豪奢な銀の糸で龍の刺繍が施された、テリーゼが見たこともないものだった。



 ――お前を黒宰相にくれてはやらない、と男は言った。
 戦闘者のギルドは東に向う。その旗印にギルドには<戦乙女>が必要だ。
 あたしは<戦乙女>の娘であって<戦乙女>ではないし、その代わりを務めるつもりも毛頭ない。そう言いきったテラに向かい、父親によく似た双眸を、鋭く歪めて見せた。
 お前がそのつもりなら、仕方ない。お前の周囲にいる人間を、片端から殺してやろう――。






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