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暁の彼方〜番外編 暁闇〜



23
 目を開けた時、寝室には夕闇が落ちかけていた。
 夏の陽は沈むまでの時間が長いから、今はもう、夜と言っても過言ではない時刻だろう。客人が来ている官邸で、主人とその妻が寝室にこもりきりなど笑い話にもならないが、今日の客人に限って言えば、ルーカスが戻って来ない方がかえって安心しそうな気がする。第一、彼自身が今しばらくはこの場所を離れたくなかった。視線の先では、柔らかな闇に包まれて、テラが静かな寝息をたてている。彼女の頭はルーカスの腕に乗せられていて、指を交互に、掌と掌はぴったりと重ね合わされていた。
 ――この手を取ってしまって、本当によかったのだろうか。
 そっと引き上げた夜具の下、鳩尾と肩の合間に、青黒い皮下出血の痕があった。他にも幾筋か、彼の知らない新たな傷痕がある。この傷はすべて、ルーカスがテラに刻んだものだ。――そして多分、心にもきっと。
 幸せにしたいと思う。彼女には常に、前をむいて笑っていて欲しいと願う。正直に言うなら、ルーカスだってぎりぎりのところにいたのだ。もしもあれ以上、彼女の身に危険が差し迫ったなら、国も策略も彼女自身の意思もすべて無視して、テラを攫って逃げ出していたかもしれない。
 目が覚めて、彼女がいないことに気づいたあの日。温もりの消えた寝台で、ルーカスは自分の本心に気がついて愕然とした。
 テラが笑っていられるなら、それが自分の隣でなくとも構わない。そう思えていたのは、一体いつまでのことだったろう。王家の森で一人の男と打ち合って、おぼろげな予感は確信に変わった。――他の誰かの隣で笑っている姿を見るくらいなら、どれほど傷つけて泣かせても、自分の側に留め置いておきたかった。
「ん……」
 ぴくり、と絡んだ指先が跳ねた。腕に預けられていた身体が離れて、それだけで急激に寒くなった気がする。
「目が覚めたか?」
「ルーカス……」
 起き上がって向き合った碧の眼差しは、柔らかく微笑んでいた。よく見知っているはずのその場所に、見たことのない――遠い昔、どこかで見たことがあるような気もするのだが――光が宿っていることに気がついて、純粋にルーカスは訝んだ。
「どうした?」
「あたし、あなたに、言わなくちゃならないことがあるの」
「……?」
 いったん放した掌に白い手を重ね、ゆっくりと導いて行く。――薄い夜着一枚を隔てだだけの自身の下腹部に向け。
「ルーカス、あたしね――」



「……ったく、何やってんだよ、あの馬鹿は」
 窓の外に広がるのは目が覚める程の青、しかし陽光は、真夏のようにぎらぎらと照り返しては来ない。浮かぶ雲は千切れた綿のような秋雲だった。今もまだ、日中はうだるような暑さが続いているが、朝晩やそれなりに冷え込むようになった。グリジアの短い夏が、終わろうとしている。
 王都から馬を使って数日程の位置にある、クレスタ家の領地の館で、グレイは王城から届いた書簡に目を通していた。差出人は現在の近衛騎士隊長であるエドガー・コンフォードである。国王直轄軍を指揮する大役を、ほとんど何の心構えもなく引き継ぐことになってしまった若者は、就任直後から、こうしてグレイに便りを送って、密かに指示を仰いできた。今では彼も職務に慣れて、慣例や儀式の細かな規則を尋ねてくることもなくなったのだが、手紙のやりとりだけは、相変わらず続いている。
 届いたばかりの手紙の束に目をやって、グレイは嘆息する。今回の便りの内容は、先頃王宮内で起こった出来事――<血の十日間>と呼ばれる粛清と、カストレーデ離宮での動乱のあらましだ。宰相自らが間諜となって反乱組織と内通して、しかもその内容を隣国に売りつけるなど、はっきり言って前代未聞、ルーカスの行動に付き合わされたかつての部下達はたまったものではなかったろうと、心の底から同情する。
 それに大体――
 ――ルーカスお前、どこまで勝算があると思ってやった。
 今回恩義を売りつけたことで、この先、ミリウム2世はグリジアに無理難題を押し付け難くなったに違いない。しかし、結果的にうまくいったからよいものの、グレイの目から見て、それは薄氷の上を荷を抱いて歩むような、危うい賭けだった。一歩過(あやま)てばこの国もろ共、奈落の底に落ちていても不思議はなかったのだ。
 まさか惚れた女に自ら去られた衝撃で、自棄(やけ)になっていたわけじゃないだろうな。苦笑交じりに呟いた瞬間、扉が鳴った。近衛騎士隊長はクビになったが、これでも一応、クレスタ家の家長である。領主として領地と領民を守る責任が、彼にはあった。
「――グレイ様。隣街の街長が謁見を申し出ておりますが」
「……わかった。今行く」
 手紙を机に置いて立ち上がった瞬間、開け放たれた窓から風が駆け抜けた。はらはらと紙が舞って、最後の一枚だけが机上に残る。散った紙を拾い集めて、グレイは思わず頬を緩めた。読んでいると肩が凝ってくるほど長い書簡の最後の一行は、国とも政治とも係わりない一文で結ばれてあった。


 ――宰相閣下におかれましては、来年には初めてのお子が生まれるそうで、今お帰りになれば、庭師のいなくなった官邸の庭を、奥方がつまづいて転ばぬよう、鍬を持って掘り起こしている閣下の姿が見られます――。





暁の彼方番外編 暁闇 完結

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