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暁の彼方〜番外編 暁闇〜



22
 ルーカスが自邸に戻ってきた時、陽はまだ高いところにあった。
 事後処理の為にカストレーデに数日滞在し、さらに数日かけて、ようやく自国に帰り着いたのだ。やらなければならないことは山のように溜まっているし、本来ならのんびり家に帰っている暇などまるでない。ところが今日に限って、クラウスはもちろん、近衛騎士隊長のエドガー、それにテリーゼの夫であり国境防衛を担当しているランヴェルトまで休暇を取っていた。これでは仕事になりはしない、と王城を退出して宰相官邸の門をくぐって、ルーカスは固まってしまった。――何だって、お前らが皆、ここにいる。
「――お帰りなさいませ、宰相閣下」
「意外とお早いお帰りでしたなぁ」
 エリザはこの邸の使用人なのでいるのが当然にしても、法務長官のクラウス、近衛騎士隊長のエドガー、将軍であるランヴェルト――国の主要な面子が揃いも揃って、宰相官邸の居間に陣取って茶などたしなんでいる。籠につまれた茶菓子はこんがりきつね色で、傍目にもほくほくと美味そうな湯気をたてていた。
「いやあ、もう数日くらいはカストレーデにおられるかと思っていたのですが、さすがは閣下、お早いお帰りでしたなあ」
「俺は次の副隊長の人選についての話をしに来て、クラウス様に捕まっただけなんですが」
「閣下のおかげで、うちの奴も随分調子がよくなりましてね。お礼を申し上げようかと」
 どうでもいいから、一人ずつ順番に話せ、と言いたくなったが、彼らの本当の目的が、そんなことではないことは承知していた。心配してくれているのだ。王宮内に流れていた風聞や、一時期、王宮から姿を消していたテラ、そして王城内で倒れたルーカスを案じて、心を配ってくれている。
 ――こういうことなのか?グレイ……。
 一つ手に取って頬張ってみた焼き菓子は、案の定、まだ熱くてたいそう美味かった。蜂蜜と、恐らく月英からの輸入品だろう。グリジアやサイファではあまりお目にかかることのない、強い香辛料の味がする。
「……そうそう、テラ様は」
 焼き菓子を平らげて、茶器に向って手を伸ばしたルーカスを見て、エリザがわざとらしく息を吐き出した。他の三人が、同時に茶碗を卓に置く。
「包帯を取り替えられると仰ってましたね」
「傷の治りが遅いと気になさってましたが」
「しかしお一人で大丈夫ですかの。確か右肩では」
「わたくしがお手伝いできればよろしいのですが。手の傷がまだ治りきってなくて」
「――わかった。様子を見てくる」
 彼らの気遣いが重くもあり、ありがたくもある。飲み干した茶の味が、やけに舌に苦かった。



 窓の布をきっちり下ろすと、室内は夕暮れ並みの暗さになった。それでも時折夏の陽射しが溢れ出してきて、灯火が必要な程ではない。
「痛っ」
 貼り薬をはがして確認すると、案の定、その下は青黒く変色していた。他にも何箇所か、細かな切り傷や擦り傷が残っている。テラは日頃、わりと傷の治りが早いのだが、味覚や感覚同様、体質も変わってしまうものらしい。
 新しい膏薬を取り出したところで、控えめに扉が鳴った。名乗る声は聞きなれた――だが随分と久しぶりと感じるものだ。
「――俺だ。入るぞ」
「え、ちょ、ちょっと待って!」
 肌蹴た衣を持ち上げたのと、扉が開いたのはほとんど同時だった。この部屋はテラだけではなくルーカスの部屋でもあって、テラの衣服が乱れていようが裸であろうが、夫である彼が躊躇う材料にはならない。部屋を横切って近づいてきたルーカスは、しかし、テラの目前で歩みを止めた。
「……お前」
「……」
「貸してみろ」
 新たな薬を貼り付けて、包帯を巻きなおしてくれる。これが重ねた月日の重みなのだろうか。肌をさらして、以前のように震えることもなくなった。一瞬、何事もなかったかと錯覚してしまいそうなほど、すべての動きが自然に思える。
「あっ」
 触れていた指が滑った瞬間、鼻にかかった吐息が漏れた。その声に吸い寄せられたかのように、生温い舌が、傷痕をたどる。伸ばされた指先は拒絶というにはあまりに弱く、その感触だけで、ルーカスもどうにかなってしまいそうだった。
「……悪い」
 だが今、この手でテラを抱くことは、許しがたい罪に思えた。
 薬の所為にする気はなかった。ここは誘いに乗ったふりをした方が得策かと、考える程度の判断力はあった。言い訳する気はない。望んだわけではないにしろ、彼女を裏切ったことは紛れもない事実だ。
 顔を逸らしたルーカスを見つめる眼差しは、怒りとも哀しみともつかぬ、複雑な色合いをしていた。次の瞬間、ぱしっと鋭い音が鳴って、左の頬に痛みが走った。女の細腕とはいえ、渾身の一撃だ。衝撃で口の端が切れたのだろう。持ち上げた拳に赤い色が浮く。
「――聞かないから」
「……テラ?」
「あの女(ひと)と何があったか、聞かないから……」
 何があったか聞かないということは、何があったか知っているということに他ならない。見開いたルーカスの足下に布地が落ちた。現れたのは無数の傷が刻まれた、懐かしく愛おしい女の肌だった。
「――帰ってきて」
 いつかの花の香を今、再び嗅いだような気がした。
 夏の強い陽光が夕焼けに変わり、名残の熾火が山の端に沈んでしまっても。その香が消えることは、決してなかった。





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