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暁の彼方〜番外編 暁闇〜



10
 その日は旅芸人の一座に泊めてもらって、テラが王都の異変を知ったのは、翌日になってからのことだった。
 朝になって街に出たテラを待っていたのは、ものものしく門を閉ざし、人々の通交を監視している兵士の姿だった。この門が閉ざされたのが八年ぶりなら、王都で暮らす住人達がざわめきたち、恐ろしいものでも見る目で王宮を見やっているのも、八年前以来のことだ。
 ――どうして。
 二年前の王宮炎上事件によって時の近衛騎士隊長が辞任して以来、近衛軍、防衛軍、辺境軍含めグリジア王国におけるすべての軍は、宰相ルーカスの手の内にあった。彼の意を汲まない軍事行動など起こりようもない。それが起こるとしたら、ルーカスが死んだ時か、十年近く自室に篭ったままのシリウス3世が、公の場に姿を現した時だけだろう。
「――テラ」
「オウカさん、あたし」
「送って行く。乗りなさい」
 顔色を失くしたテラの肩を、蛇使いの男が掴んで荷馬車の上に押し上げた。すぐに嘶く声がして、四本の蹄が石畳を蹴り上げる。
 ――何が、あったの。
 ルーカスの身に何が起こったのか。それが何より案じられてならない事柄ではあったが、テラはむしろ、何も起こっていない時の方が恐ろしかった。自分がしていることの重みなら、誰よりもよく知っている男だ。同情も哀れみも必要とはしない。それでも時折、耐え切れなくなることがあるのだろう。そんな夜、ルーカスは子供のようにテラの身体にしがみついてきた。
 真実救ってやることも、癒してやることもできたとは思えない。姿のない影のようなものに囚われ、逃げられずに苦しむ姿を、歯噛みしながら見守っているしかなかった。
 ――また、あんな夜を一人で過ごすの。
 宰相の妻であるテラは、本来なら王宮の正門を通れる。だが今、混乱の最中にある王都において、黒宰相夫人を名乗ったところで混乱を増すだけだろう。今のテラに近づくことができるのは――
 王宮炎上事件で三分の一近くを焼失してもなお、鬱蒼とその存在を示している、王家の森だけだった。



 刃と刃をぶつけあうたびに、耳障りな音が辺りに響いた。枝で羽を休めていた鳥達が、一斉に空へ旅立って行く。
 明らかに技量の違う相手の攻撃をかろうじてやりすごし、ルーカスは幹の影で呼吸を整えた。今でも時折剣術場に足を運んでいるとはいえ、彼の剣はあくまで護身の術、大体、そもそもの鍛え方が違う。
 ざり、と地を踏みしめる音がして、背後の枝が半ばで裂けた。濃緑の葉が幾枚も幾枚も頭上に振り落ちてくる。
「――戦乙女はどこにいる。応えろ、黒宰相」
 知ったことか。胸底で蠢く嘲笑は、返す刀、ルーカスの胸を切り裂いた。そもそも、彼の許にあった娘を連れ去ったのは、この男ではないか。彼女が、自分よりもこの男を選んだとは思っていない。だがお前が知らないものを、どうして俺が知っていると思う。
「……あれが、俺の手の内に大人しく収まっているような女か」
 この女は自分のものだ、と思わなかったと言えば嘘になる。決して放さない、誰にもやらない、と、細かな傷が無数に残る肌に口付けて、半ば祈るように願い続けた。
 ――お前が、あの肌に触れるのか。
 あの髪に指を絡め、あの声がこの男の名を呼ぶのか。
 それはルーカスが今までに感じたことのない、どす黒く激しい感情だった。これまで防戦一方だった間合いが詰まって、剣の切っ先が男の喉許に触れる。
「……その程度の腕で、俺が倒せるか」
 そもそも技量が違ううえに、冷静さを欠いては敵うものも敵いはしない。がら空きになった懐を、龍を刻んだ刀でなぎ払われた。寸前のところでかわしはしたものの、足先に少なからぬ量の血が滴り落ちる。
「くっ」
 かろうじて踏みとどまった肩口に、また新たな刃が落ちた。一思いに止めは刺さずに、なぶり殺しにするつもりなのか。にやりと口の端を持ち上げた姿に既知感があった。いや、既知感、などと言った生易しいものではない。これはまさしく既知の――過去に経験したことのある光景ではないか。
 生きていたい、と願ったのはそこに彼女がいたからだ。命をくれてやる相手は決まっている。だが身体は、凍りついたように動かない。
 この切っ先は防げない。今度こそ本当に殺(や)られる。悟って瞼を落とす瞬間、ルーカスの視界を横切ったのは、彼が焦がれてやまない、燃えるように鮮やかな深紅だった。



 ――間に合った。
 白刃を弾いた短刀が、濃褐色の木立に突き刺さる。テラが投げた短刀に弾かれた刀が、ルーカスとカイザックの中間の地面に突き刺さる。その刀を掴んで投げ捨てた。王家の森の崖から、白刃は弧を描いて落ち消えて行く。
「テラ、お前――」
 息をつく暇もなく、たった今武器を捨てた手を掴んでねじ上げられた。油断したわけではない。油断したわけでははないが――テラの目には、ルーカスしか入っていなかったのだ。
 ――痩せた。
 政務に追われると自身の身にはまるで構わなくなる彼を捕まえて、少しでも栄養のあるものを摂らせようと心配るのは苦ではなかった。彼が帰って来た時少しでも休まるよう、官邸の居室を整えていた時、テラは確かに幸せだった。
 ほんの一瞬触れ合った眼差しは、すぐに離れて宙空をさ迷った。かつて目にしたことのないほど険しいルーカスの眼差しが、テラを捕らえたままの男を見る。
「その女を連れて、サイファに行って、何を目指す気だ。波乱と戦乱で満ちた国か」
「あの国はここと違って、乱しがいがありそうだからな。為政者や金持ちに使われる立場ではない。血で血を洗う戦乱の世を、俺達がこの手で作り上げるんだ」
「――冗談じゃない。嫌よ、あたしはそんなものになんか絶対手を貸さない」
 カウラ、クラネット、ルーカスの母やテリーゼの赤子。一体これまでどれだけの命が、意味もなく奪われてきただろう。平和な国ではギルドが存在できないというのなら、そんなものはなくしてしまえばいいのだ。現に戦いの場を離れ、新たな道を歩み始めた仲間だって大勢いる。
 振り払おうとした腕を、さらにきつく掴んで引き寄せられた。離れることで大切な人を守れるなど、どうして考えたのだろう。戦闘者のギルドに戻るということは、戦いの場に身を置くことだと、テラは知っていたはずではなかったのか。
「放してよ!」
 激昂したテラとは反対に、ルーカスはくつり、と喉奥を振るわせた。先ほどの険しさの欠片もない、何を投げ込んでも、小波ひとつたてない、凍てついた氷のような目だ。
「嫌がる女を無理やり、か。誇り高き戦闘者のギルドも落ちたものだな」
「これは俺達がお前を殺す為に送り込んだ刺客だ。任務をしくじった女には相応しい制裁だろう」
「……なるほど」
 乾いた吐息が喉から漏れる。きっと宰相官邸の門をくぐる寸前までは、いつもこんな顔をしているのだろう。だてに二年近くも夫婦をやっていたわけではない。この男がテラに向ってこんな顔をするのは、ろくでもないことを言い出すときだと、相場は決まっている。
 ならば、とテラの夫である男は笑った。
「今ここで、この女が俺を殺せば、この女を解放するか」





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