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暁の彼方〜番外編 暁闇〜




 ――宰相家の若夫婦が、ついに夫婦別れをするらしい。
 そんな噂が、グリジア王国王宮内に流れ始めたのは、長い冬を終え、春の気配が近づき始めたころだった。
 宰相家とは黒宰相ルーカス・グリジアが王籍を離れて新たに起こしたグラディス家のことで、その初代当主であるルーカスの妻は、かつて王宮舞姫を勤めた踊り子だった。若い踊り子が宰相を篭絡した、あるいは宰相が権によって美貌の踊り子を我が物にした、などなど、結婚当初からこの夫婦は王宮内の格好の噂の的となっていた。それでも結婚から二年近くが経過し、そろそろ人々の好奇心も他所へ移りかけていた――のだが。
 ――まったく、誰がそんな噂をしているのかしらね。
 王宮内に品物を卸している農家から売れ残りの野菜を分けてもらっての帰り道、宰相官邸へと続く道を歩きながら、エリザはふと、足を止めた。
 今は春もたけなわ、柔らかな陽射しの下を色とりどりの花々が咲き乱れ、王国が最も華やぐ季節である。エリザが思わず足を止めたのも、路壁をこえて道に張り出した庭木の枝先で、薄紅色の花弁が綻び始めているのを見つけた為だ。
 エリザは宰相家のただ一人の住み込みの使用人であり、かの夫婦の日常を誰よりも近くで見知っている。彼らの仲が、巷で噂されているようなものではないことは、重々承知していた。仲がよい、などという話ではない。何気ない仕草や見交わす視線に、あてられてしまって部屋から逃げ出したことも、一度や二度の話ではないのだ。
 今はまだ下々の使用人仲間の内で流れている噂なので、当の本人達はそんな噂が流れていることなど、知らないのだろう。しかしいつもなら笑い流してしまう噂話にエリザがふと不安に思ったのは、そこに今までとは違う、別の話が付け加えられていた所為だ。
 ――黒宰相は妻と別れ、別の女性を邸に迎えようとしている。その女性とは、この春から近衛隊副隊長を拝命した女性騎士、カリナ・エディウスであると。



「手なんか、こんなに小さくて。指を出すと握るのよ。――可愛かったわ」
 寝台の脇の卓上で、手燭の炎が揺れている。年度代わりの人事異動と、難しい案件を抱えていた関係もあって、久しぶりに帰ってきたルーカスに、テラは日中起こった出来事を話していた。テラの話題は先頃、恩人であるテリーゼの許に誕生した赤子のことだ。結婚して十数年、あらゆる薬草や民間医療を試しても授からず、ほとんど諦めかけていた頃に生まれた子供とあって、周囲の人間の喜びは大きかった。大柄で無骨な武人であるテリーゼの夫など、赤子を見る度に、目といわず鼻や口まで蕩けそうになっていた。
 正式な夫婦となって二年、実質的な結婚生活は一年半ほどだが、恐らく共に過ごした時間は、新婚三ヵ月の夫婦より少ない。今日の帰宅だってほぼ一ヶ月ぶりだ。おまけにテラは慣れない環境に馴染むのに必死で、夫婦として当然の語らいも、おろそかになりがちだった。
「――欲しのいか、子供」
 寝台にうつぶせに寝そべって、何やら難しい書物を読んでいたルーカスが顔を上げる。まだ夜具には入らず、髪を梳っていたテラは、思わずまじまじとその顔を見つめてしまった。
 こちらを向いた夫の顔は、ひどく真剣な表情をしている。――まるで、何か言い出しにくいことを言い出す時のように。
「子供が出来たら、困る……?」
「……ああ、困るな」
「……」
「いったん案件にかかったら数ヶ月も帰れないでいるのに、その間に子供ができたなんて言われてみろ。俺の立場はどうな――」
 途中で言葉が途切れたのは、テラが思い切り枕を投げつけた所為だ。
「誰と誰の子供の話をしてると思ってるのよ!」
 世の中には言ってもいい冗談と悪い冗談がある。そして、これはもっともよくない性質の戯言だ。もっとも怒りは長くは続かなかった。投げつけた枕ごと、ルーカスがテラを抱き寄せたからだ。
 ちょうど額の上あたりから、悪い、悪い、と笑う声がする。掌は背筋を這い上がって、指先が後首に触れた途端、正直すぎるほど正直に、身体が震えた。
「ちょ、ちょっと!あたしは怒って――」
「……欲しいんだろ?子供」
 ぞくりとするような低音が、耳朶を撫で上げる。
 はじめに会った時、歌でも歌わせてみたくなるような佳い声をしている、と思った。だがこんな時に限っては、この声は反則だと、テラは思う。こんな風に至近距離で――瞳と瞳を見つめあったまま囁かれたなら、どのような無体でも甘んじて受け入れてくなってしまう、そんな声なのだ。
 薄い夜着一枚では、触れる指先や吐息の感触を隔てることなどできはしない。瞼に慈しむような口付けを落とされ、抗う間もなく仰向けに横たえられ――テラは思わず笑い出して、黒い髪の中に指先を埋めた。
 春の陽射しの下で、抱き上げた赤子の身体は柔らかかった。柔らかくて熱く、太陽とむせかえるような乳の匂いをさせていて――女なら誰だって、考えずにはいられない。自分と想う男との間に授かる命は、どれほど、愛しく、尊いものであろうか、と。
 ――そう、テラは確かに望んでいるのだ。他でもない、この男との間に授かる命を。
 蝋燭の炎を吹き消した男が、身体の上に覆いかぶさってくる。慣らされた重みと熱を、広い背に腕を回すことで受け止めて、テラはこんな時いつも微かに感じる胸の痛みから、意識して視線を逸らした。
 ――母さん、ごねんね。でもあたし、今が一番幸せよ。
 この幸せは続くものだと、この時、テラはまだ信じていた。





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