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月の宝珠
外伝 月影〜


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「――フィリエ様は、お幸せのようね」
 過去の出来事に思いを馳せていた所為で、言われた言葉の意味を悟るのが遅れた。湯気をあげる茶器を囲んで、かつての妻が蒼穹と同じ色をした瞳に穏やかな色を浮かべている。
 まだ夫婦であったころ、彼女は実の妹のようにフィリエを可愛がっていた。だからなのだろう。いつもなら非常に苛立つ妹の話題が、エミリナの口から出るとさほど神経を逆なでしない。
「エリトリア共和国の町で、宿屋を手伝いながら、夫君は隊商の護衛をしているそうよ。一つの町に落ち着いて、今は穏やかに暮らしているらしいわ」
「――どうして、君がそんなことを知っているんだ?」
「たまに手紙が来るのよ。住所も町の名前も書いてないけど……、ご夫君のことも色々書いてあって、幸せだということはわかるわ」
 確かに実の姉妹のように仲がよい義姉妹ではあったが、実の兄に死んだものと思えと言い放っておきながら、元の義姉にだけ近況報告をするというのはいかがなものだろう。
 一瞬、その手紙から居場所を探し出して捕えてやろうかと思ったが、あの妹は向こう見ずではあるが、愚かではない。住処からはるかに離れた町に出向いて手紙を送るくらいのことはやっているだろう。
 2人目の妻であったナヴァル公女とは、結局、半年あまりで離縁した。今となっては気の毒なことをしたと思う。最終的に、ほとんど精神を病むようにして国に帰って行ったので、今でもナヴァル公王とシルヴィア王太子の仲はたいそう気まずい。
 その後はしばらく再婚しなかったが、それでも一国の王太子が独身を通すわけにもいかず、三度目の結婚に及んだのが2年前、今回の結婚でもやはり子供には恵まれず、夫婦仲は完全に冷え切っている。
 父と兄の手を振り切った妹は、見ず知らずの町で傭兵と暮らし、幸せでいるという。ろくに夫と顔も合わせていない今の妻が幸せかどうかはわからないが、嫁いで半年で国に帰った二番目の妻は確実に不幸だっただろう。そして今、最初の妻であった目の前の女性に、どうしても聞いてみたくなった。
「……君はどうだった?私と暮らしていた間、君は少しは幸せだっただろうか?」
 わずかに目を見開いて、かつての妻は小さく微笑む。弟を慈しむような眼差しは、彼女が彼の妻であった頃からまったく変わっていない。
「離縁の時には、ずいぶん貴方を恨んだものだったけれど。母が倒れて、実家に戻ったと思ったら、顔も合わせることなくすぐに離縁でしょう。父なんて本気で、王家に離反しようとして大変だったのよ」
 当時、不祥事により宰相の任を辞したアルベール・エドマは1年ほどで国政に復帰し、その後すぐに宰相の地位に返り咲いた。あの頃、本気でアルベールが王から離反していたならば、相応の動乱は覚悟しなければならなかっただろう。
 なのに今、そんなことは些細なことだと思えるのは、どうしてなのか。
「だけど、貴方と暮らしていた時間自体は、そう悪いものではなかったと思うわ。――そう思えるようになったのは、最近のことだけど」
 紅などささずとも桜色の唇で笑って、少し冷めた茶を口に含んでいる。そういえば彼女は猫舌で、晩さん会のスープも肉料理も、冷めてからでないと口に入れられずにいた。
「あの方に出会ってからよ。あの方は父の友人で、ずいぶんと前からよくこの邸に来ていたのよ。わたくしもよくお茶を淹れたり、お話に加わったりしていたのだけど……妻として、家に来てほしいと言われた時には本当に驚いたわ。元王太子妃を妻に迎えるなんで、あの方の立場が悪くなりかねないもの」
 そう言って断るエミリナを、ユスティニア伯は根気強く説得しつづけたと言う。彼女が首を縦に振るまで、一年近くこの邸に通い詰めたというのだから、恐れ入る。
「幸せになるわ。今度こそ。だから貴方も幸せになって、エルモンド。わたくしは貴方を幸せにしてはあげられなかったけれど」
 穏やかに微笑むかつての妻の眼差しの先に自分がいないことを感じて、エルモンドはひそかに目を押し伏せた。かつては自分一人のものだったこの微笑を、遠ざけ拒んだのは外でもない彼自身だ。それが外の誰かのものになると知って、今更、心を騒がせたところで、何もかもすべてが遅すぎる。
 不意に、あの日、寒風が吹き寄せる大聖堂で出会った男のことを思い出す。一度は身の程をわきまえて出ていったというのに、再び現れて異国の王女をさらって行くなど、不届き極まりないとは今でも思うが、少なくともあの男は知っていたのだろ。本当に大切なものが何であるのかを。そして一度手にしたならば、それを決して手放してならないということを。
「私はあの頃……、君のことを愛していたのだな」
 思わず口から零れた本音に、冷めた茶を飲み込もうとしていた女が、盛大に噴出した。上流階級の婦人としてあるまじきことに、目に涙までためて笑っている。
「今更気づいたの?わたくしは気づいていたわ。――あなたがわたくしを愛してくれていたということくらい」


 王太子宮が東宮と呼ばれるのは、国王が暮らす王城の東側に位置するという理由のほかに、太陽が東から昇るという自然の摂理を意味しているらしい。東から昇った太陽が王城で輝き、西の大地に沈んで行く。事実、王宮の西のはずれには、代々の国王の墓がある。
 遠くで鐘の鳴る音がする。沈みかけた陽射しに茜色が混ざり、東の空はすでに墨を流したように暗くなっている。
「まあ、殿下、どうされたのですか?本日お帰りになるなんてお話は一言も――」
 夕暮れ時に自邸に戻ってきたエルモンドを見て、若い妻は目を丸くした。
 彼女は隣国ロルカの王族の血を引く娘であり、年齢はこれまでの妻の誰よりも若い。褐色の髪を肩の上で結わえ、両頬の雀斑の散った地味な娘が、現在のシルヴィア王国王太子妃である。
 正直に言って王太子妃など誰でもいいと思っていたので、こんな風に彼女とまともに顔を合わせるのは、本当に久しぶりのことだ。大した美人ではないが、とりあえず善良そうではある……と胸の内でつぶやいた時、胸の前で手を合わせた女が不思議そうにつぶやいた。
「王太子殿下?どうかされましたか?」
「先ほどの言い方はなんだ。自分の宮に帰るのに、先触れの使者が必要なのか」
 切って捨てるような言葉に、華奢な肩がびくりと震える。この言い方が良くないことはわかっているのだが、わかっていてもそうそう性格は変えられるものではない。泣き出しそうな黒い双眸を前に、おもわず頭を抱えたくなる。
 とりあえず邸に足を踏み入れたエルモンドの背後を、若い妻がしょぼくれた犬のようについてくる。以前ならばそんな姿に苛立って暴言の一つも吐き捨てたくなったところだが、ふと、彼女に問うてみたくなった。
「君はどうして、私のところに嫁ぐ気になったんだ?」
 シルヴィア王国の王太子という立場は確かに魅力的だろうが、これまでに2度も離縁し、その理由が理由である。周囲がいくらお膳だてしても、3度目の縁談は中々まとまらなかった。女から見て、自分は決して望ましい夫ではないからだろう。
 結婚してほとんどはじめてと言ってもいい夫からの質問に、妻はおどおどと顔を上げる。
「以前、父と共にシルヴィアを訪れた時に、偶然、殿下のお姿を垣間見たのです。あの頃はまだ最初の王太子妃様がいらした時で、まさか私に縁談が舞い込むなど思ってもいませんでしたが……、こんな素敵な方の妻になれたならさぞかし幸せだろうと思っておりました」
 あまりにも純粋な好意の発露に、返す言葉もなくなる。ただほんの少し遠くから姿を見たところで、どうして好意など抱けるのか。何しろ、こちらはそのはじめての出会いとやらさえ、まったく記憶に残っていないのというのに。
「申し訳ございません。こんなお話……ご迷惑でしたよね」
 そう言ってうなだれた首筋が妙に心細く感じ、思わず口を開いていた。
「いや、そんなことはないが。――たまにはどうだ。共に夕餉を取らないか」
 ぱっと顔を上げ、花開いたように笑った顔は、見ている者の胸の内まで、暖かくなるような笑顔だった。決して美人ではないが、暗がりで見つけた灯火のように、奇妙に気が惹かれて目が離せない。
 この女はこんな顔をして笑うのか。ほんの少し目をむければいつだってそこにあったのに、ずっと気づかないままでいた。
 もしかしたら、まだ間に合うかもしれない。母も妹も、愛してくれていた最初の妻も失くしたが、エルモンドが気づいて手を伸ばしさえすれば、この笑顔だけは失わずにいられるかもしれない。
「殿下とお食事できるなんて、嬉しいです!すぐに厨房に用意をさせます。何を召し上がりますか?」
「メニューは任せるが……、そうだな。まずは話をしよう。君の好きなものや苦手なものを教えてくれないか」
「はい!」
 嬉しそうに駆け出した妻の向こう、茜色に輝く稜線の彼方から、白い月が昇りはじめている。







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