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月の宝珠
外伝 月影〜


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「――エミリナ義姉様を離縁するって、本当なの?!兄様?!」
 王太子夫婦の離縁が内々に決まったその日、14歳になる妹が執務室に駆け込んできた。フィリエ・シルヴィアは国王の一人娘であり、エルモンドにとってはただ一人、血を分けた妹である。もうすぐ年頃を迎えようという妹姫は、ドレスの裾を盛大に乱し、肩で息をしていた。
 エルモンドが今ある部屋は、王宮の内奥にある執務室であり、国王・王太子の他には限られた人間しか出入りを認められていない。シルヴィア王国では過去に国政に携わった王女がおり、現国王の王女であるフィリエに出入りする権利はもちろんあるが、彼女がこの部屋に足を踏み入れるのは、正真正銘、これがはじめてのことだ。
「まったく、お前という娘は……どこでその話を聞いたんだ、フィリエ?」
 ため息とともに書類から顔をあげ、エルモンドは年の離れた妹を見る。
 王家の宰相――王太子妃の実家であるアルベール家で不祥事があったのは、3か月ほど前のことだった。宰相の妻の年齢の離れた弟が、法律で禁止された「決闘」で人を殺め、自らもその命を絶ったのだ。血の気の多い若い男同士が、酒場の女を巡って争ったというのが真相らしいが、エルモンドにとっては、正直、事件の真相などどうだっていい。問題は自らの妻の後ろ盾であるアルベール家に、多大な汚点がついたということの方だ。
 事件の後、心労で床についた母親を見舞うため、実家に戻った妃を、いつまでたっても、エルモンドは王宮に呼び戻さなかった。結婚して5年、いまだに子供に恵まれないこともあって、周囲はひそかに、王太子の新たな妃探しに動きはじめている。
「どこでって……、侍女や女官がみんな噂してるわ。王太子宮の義姉さまの荷物が運び出されてるって。どういうこと?」
「その侍女やら女官には口止めしておけ。まだ、表ざたにはできない話だ」
 エルモンドの言葉に、フィリエは大きく目を見開いて彼を見た。この妹は、父よりもすでに亡くなった母によく似ている。王都の大商人の娘から、周囲の大反対を押し切って王妃にまで昇りつめ、不慮の事故で命をなくしたかつての王妃。
 結婚してすぐに生まれたエルモンドは、父母の手から引き離され、祖父母の手で徹底的に帝王教育を叩き込まれた。実の母に会うのは週に一度、それも儀礼的な挨拶を交わすだけだったので、正直、母親という生き物に対する馴染みは浅い。
「……本気で言っているの?兄様」
「仕方なかろう。今回の事件で、アルベール家の凋落は避けられん。5年もたって、子どもも生まれないからな。妃の代わりなら、外にも――」
 そもそも、エミリアを妻としたのは彼女が王国にとって欠くことのできない宰相の娘であったからだ。宰相に価値がなくなれば、彼女の価値もまた消え失せる。
 そこまで口に出して言うことができなかったのは、年若い妹の眼光がエルモンドを射抜いていたからだ。一見、華奢で、ひ弱で世間知らずの王女は、剣を握らせるとエルモンドを容易に打ち伏せる。剣術場で叩きのめされた回数は、一度や二度のことではない。
「――見損なったわ、最低よ、兄様」
 捨て台詞を残した妹が、執務室を去って行く。エルモンドはたが無言で、絹のドレスに包まれた華奢な背を見送っていた。


 風が荒れている。
 夕暮れごろから強くなり始めた風が中空で渦を巻き、巻き上げられた小石や砂が、建物の壁にぶつかっては散って行く。
 王宮の中庭に面した執務室の壁では、庭木の枝の影が、奇怪な化け物のように蠢いている。たまった書類仕事を片付けているうちに自宮に帰り損ねたエルモンドはこの日、執務室で過去の判例集に目を通していた。父王が初老の域に達し、政務は少しずつエルモンドに移管されつつある。王太子として必要な知識と教育を受けてきたという自負はあるが、実際に携わると自身の未熟さを実感し、今は寝る間も惜しいというのが正直な心境だった。
「やっぱり、ここにいたのね」
 日暮れ前に夕食を終え、人払いを終えた執務室に近づく人間はいないはずであったのに、人の声がする。燭台の明りを手に立ち上がったエルモンドは、そこに一人の女の姿を――今はまだ彼の妻である女の姿を見つけ、思わず息を飲み込んだ。
 もしかしたら自分で馬に乗ってきたのかもしれない。王妃のいないシルヴィア王国において、現在もっとも高貴な立場にある女性、エミリナ・エドマは男装していた。元々、彼女は非の打ちどころのない美女だが、吹き荒れる風に乱れた髪も、化粧気のない顔も、正装して微笑んでいる時の彼女よりはるかに美しく見えた。
「エミリナ、君がどうしてここに……」
 執務室に立ち入りできる人間は限られているが、王太子妃であるエミリナにはその権利がある。しかし今のこの微妙な状況で、彼女をこの場所に通した警備の衛兵は後で罰さなければならない……と心の中で思う。
「お話をしましょう。――エルモンド」
 そんな夫の心中を知ってか知らずか、吹き荒れる風に髪を乱したエミリナがまっすぐに見返してくる。2歳年上の幼馴染である彼女は、エルモンドを名前で呼び捨てにする数少ない人間の一人だった。さすがに人前でははばかるものの、二人きりで話す時には、エルモンドも特にとがめだてはしなかった。
「何の話をする必要がある」
 今更、後は別れるだけの夫婦だというのに。
 離縁が表ざたになった後、実家に帰ったエミリナからは何度も手紙が届いていたが、すべて読まずに破り捨てていた。そこに何が書いてあるかなど読みたくもない。恨み言など聞く気はないし、それ以外の言葉ならばもっと知りたくもないからだ。
「わたくしたちの離縁のことよ。わたくしたちが意思を確かめ合わなくてどうするの?」
「どうして、君の意思を確かめる必要があるんだ?」
 エルモンドの発言に、今はまだ王太子妃である女がくしゃくしゃに顔を歪ませた。実を言うなら、自分のこの手の発言が、フィリエに「最低」呼ばわりする一因であることは、エルモンドもうすうす気づいてはいる。だがどうしても、思考回路は変えられない。結婚とは家のため、国のため、よりよい跡継ぎを得るためのもの。そこに個人の意思が介在する余地はない。――それがエミリナのものであっても、エルモンド自身のものであったとしても。
「やっぱり、あなたには人の心がわからないのね」
 自分よりは一回りも体の小さい女に、見下ろされているような心持になる。気のせいではないだろう。自身に非はないにも関わらず、夫から一歩的に離縁を言い渡された妻は、この時、心の底から夫を憐れんでいた。
「あなたは昔から……そんな風にしか物事を考えられない人だったから。わたくしが変えていってあげたかったのだけど」
 歪んだ顔が泣き笑いの表情になる。それはかつて、エルモンドが母の中に見てきた表情だった。生まれてすぐに親から引き離され、週に1度しか顔を合わせることのない息子と対面する時、母はいつもこんな表情を浮かべていたものだった。
 それが誰であれ、自分と近しい女のこんな顔は二度と見たくないと思っていたのに、今、どうしても体が動かない。腕も足も喉も口も、何かしなければならないはずなのに、何をなすべきなのかがわからない。
 しばらく無言でエルモンドを見やった後、エミリナは黙って踵を返した。執務室の扉を出る瞬間、振り返ってつぶやいた彼女の一言だけが、この後もずっと、エルモンドの脳裏に残り続けることになる。
「……やっぱり、わたくしでは駄目だったのね」
 エミリナ・エドマとエルモンド・シルヴィアが正式に離縁したのは、それから間もなくのことだった。





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