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月の宝珠
外伝 月影〜


扉へ/とっぷ

1
「兄様、お願い。兄様の妹のフィリエは死んだの。わたしはもう兄様の妹でも、お父様の娘でもない……」
 国を、地位を、家族を捨て。男の腕にすがりついた妹は、エルモンドがこれまでに見たことのない、艶やかな女の顔をしていた。
 実を言うなら、昔からエルモンドは女という生き物が苦手だ。浅ましく、愚かで、虫唾が走るほど自分本位で、そして多分、外のどんな生き物よりもしなやかに強い。
 ――やっぱり、あなたには人の心がわからないのね。
 向かい合った妹の顔に、不意に、昔見た女の顔が重なった。かつてエルモンドの妻であった女だ。父王の宰相の娘で、二つ年上の幼馴染、18の歳に結婚して、5年後に一方的に離縁した。
「国に戻るぞ」
「お、王太子殿下!」
 フィリエと彼女の顔形に、似たところはまるでない。それがどうして一瞬、まるで同じに見えたのか。初秋の夜風が吹き込む大聖堂で、この時、エルモンドにはどうしてもわからなかった。


  シルヴィア王国の王宮には、執務室が二つある。
 一つは広く臣下の出入りを認めた、いわゆる表向きの執務室である。場合によっては外国の使節の応対もここで行うので、シルヴィア王国の執務室といえば、通常の場合はここを指す。
 そしてもう一つの執務室は王宮の内奥にある。王宮の中庭に面したガラス張りの一室に出入りできるのは国王・王太子親子と宰相かそれに匹敵する大臣のみであり、シルヴィア王国の重大な決断は、すべてこの執務室で下されてきた。
 晩夏から初秋かけて、お忍びで国を空けていた王太子の元に宰相が訪れたのは、気の早い秋の太陽が、斜めに傾き始めた頃だった。
 宰相アルベール・エドマはシルヴィア王国古参の貴族の一人であり、父王の幼少期からの幼馴染でもあった。エルモンドも幼い頃、王都にあるエドマ家の邸を訪ねては、アルベールの膝の上で遊んだものだ。
「フィリエ姫のご無事がわかって、何よりでございましたな」
 王が王太子に政務を委譲するにあたり、宰相の職務もまた、アルベールの手から離れつつある。エルモンドの腹積もりとしてはこのままの流れで、宰相という地位自体を自身の治世で撤廃するつもりだ。
「……父上は何か仰っていたか」
「ほとぼりが冷めた頃にでも、顔を見せに来てくれればよいと仰っていましたよ。できればその頃には孫の顔の一つか二つでも見られればよいと。――親というのは、いつの世だって、子の幸せだけを願うものでございます」
 本当に子の幸せを願うのであれば、例え一時泣いたとしても、ふさわしくない相手からは引きはがすべきではないのか。そう言ってエルモンドと父がもめたのは、ほんの数ヶ月前の話だ。結局、エルモンドはフィリエを取り戻すことができなかった。たった一人の妹は永遠にエルモンドの手を離れ、今、地位も財も身分もない傭兵の腕の中にいる。
 今でも、あの決断が正しかったかどうかわからない。だからなのだろう。王国も家族も捨て去って行った妹のことを人に言われると、どうしようもなく、苛立つ。
 苛立ちを抑えきれずに執務室の机から立ち上がった時、初老の宰相がわざとらしく口の端を上げた。一見、どこにでもいる好々爺に見えなくもないが、この男を侮ってはいけない。5年前、身内の不祥事に連座して一時的に宰相の任を解かれたことはあったが、それでも30年以上、王と共に王国を支え続けた根からの政治家なのだ。
「本日、私が王太子殿下の元に参りましたのは、ご報告がありましてな」
「――報告だと?」
 現在、エルモンドは自身の政務において宰相を用いていない。宰相がエルモンドに報告する事項など、逆さに振ってもありはしない。――が。
「娘の再縁が決まりました」
 紡がれた言葉に、呼吸を失う程の衝撃を覚え、エルモンドはそんな自分自身に愕然とした。あの日の夜、傭兵にすがりつく妹と彼女の姿が重なったことを思い出す。あまりに驚いたので、その先に続いた言葉がすみやかに頭の奥に入ってこないほどに。
「先頃妻を亡くしたユスティニア伯家に、後添えに入ることが決まりました。お互い再婚なので、派手な披露はいたしませんが、これで親としては、肩の荷が下りた心持でおります」
 宰相アルベールの娘エミリナ・エドマは、エルモンドが最初に妻とした女性であった。


 馬を止めて地面に降り立った時、庭木の植え込みで、金木犀の花が香った。見上げる空は絵の具を溶いたように澄んでいて、ところどころに雲の切れ端が浮いている。山の木々は赤や黄に染まり、その鮮やかさが、やがて初雪の白さに取って変わられるのもそう先のことではないだろう。朝や晩の冷え込み具合は、もう冬のそれと遜色ない。
 訪いも入れずにアルベール邸を訪れたエルモンドを見て、庭先でスコップを動かしていた女が振り返って彼を見た。シルヴィア王国古参の貴族の娘であり、かつて王太子妃でもあった女は少女の頃から、庭仕事を趣味としていた。それも本職の庭師顔負けの腕前で、彼女と共に暮らしていた頃、エルモンドの周囲にはいつも季節の花々が咲き乱れていたものだった。
「あらまあ、王太子殿下が、一体、何の御用ですの?」
 たまに王宮でちらりと顔を見ることはあっても、離縁した元夫婦が、直接会って会話するのはまさに5年ぶりのことだ。だが、元妻はかすかに目を見開いただけで、わずかの動揺さえも感じさせなかった。彼女が王太子妃であった頃は、この大らかさを、確かに好ましい、と感じていた。
 シルヴィア王国の歴史を紐解けば、離縁された王妃も王太子妃も何人かいる。しかし離縁された彼女達はいずれも他国の姫君であり、自国に帰れば王女として、何不自由ない生活が約束されていた。
 一方、エルモンドの妻であったエミリナは自国の貴族の娘である。王太子に離縁された後は実家に戻り、早くに母をなくした兄の子を、実の子のように養育して過ごしてきた。夫に離縁され、実家にもてあまされて修道院に押し込められる婦人も多い中で、離縁された王太子妃が、相応の処遇を受けていると知った時には、胸を撫で下ろしたものだった。
「――再婚が決まったと聞いた」
「ええ、そうなのよ。よりにもよってわたくしがよいという殿方がいらっしゃるなんて、思ってもみなかったわ」
「そなたは本当にそれでいいのか?ユスティニア伯はそなたの父上と同じくらいの歳だぞ」
 ユスティニア伯は、王都の近くに広大な領地を持つ古参の貴族で、シルヴィア王国内での発言権も大きい。糟糠の妻を亡くした後は長く独り身を通しており、最近、成人した嫡男に家督を譲って第一線を退いた。そんな男の後妻に、よりにもよって、かつての王太子妃がなるという。
 眉根を寄せたエルモンドの顔を見て、エミリナはまともに吹き出した。今では実質この国の王である王太子と相対して吹き出すなど、本来ならば大逆罪ものだが、エルモンドに、彼女を責めるつもりはさらさらなかった。
「そんなことを言いに、王太子殿下が、わざわざいらしたの?こんなところで立ち話もないから、中にお入りなさい。――お茶を淹れるわ」






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