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月の宝珠
第五章 大聖堂の戦い〜


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「――どうして、剣を下ろしたりしたんですか?!」
 心構えのまるでないところに、突然耳元で怒鳴られて、一瞬、何を言われているのかわからなかった。こんなことなら、ろくに聞こえていない左耳を寄せて置けばよかった。唯一まともな右耳の奥で、鼓膜がわんわんと震えている。
「剣を下ろしたって……もしかして、あの尖塔でのことか?」
 ――剣を下ろせ。この娘を傷つけたくないならな。
 あの日の夕暮れ解き、実の兄に剣を突きつけられたフィリエの目の前で、ラドルフは自らを守る刃を下ろした。それを知っているのは、あの時その場にいた人間――ラドルフとフィリエ、そしてエルモンドのみだ。
 思わず、頭のすぐ下にある顔を覗きこむ。つい先刻まで、何も映し出していなかった瞳に、顔の半分が焼け爛れた男が映し出されている。まるで血の気のなかった頬が紅潮し、桜色の唇から零れる吐息が、夜気に白く染まる。
 ――元に戻ったのか……?
 もっとも、再会の喜びに浸っていられるような状況ではまるでなかった。掴んだシャツの胸元さらにきつく引き寄せられ、呼吸がいっそう苦しくなる。このまま放っておいたら――間違いなく、絞め殺される。
「もしかしてってどういうことですか?!あの状況で、兄がわたしを殺すわけがないじゃないですか!あんなのただの脅しだって、ラドルフさんなら、それくらいわかるでしょう?!」
「いや、お前……今更、そんな前のことを言われてもだな」
 大体、こちらはその後、建物から落下して溺れて、骨折と全身打撲で死にかけていたのだ。そんな以前の些細な失敗くらい大目にみて欲しいと切に願う。
 かろうじて片方の拳を引き剥がし、絞め殺される危険だけは回避したものの、彼女の怒りは収まらない。というより、ラドルフの発言が火に油を注いだようで、さらにまくし立ててくる。
「前のことって何ですか?その後だって、俺も連れて行けだの、自分はどうなっても構わないだの。何なんですか?あの後ろ向きな発言の数々は?!――その暗さが、いらぬ不幸を呼ぶんです!!」
 確かに、改めて聞かされると我ながら情けない。聞こえていたなら答えろよ……と声にならない声を胸中で呟いた時、防戦一方のラドルフ背後から、遠慮のない笑い声が鳴り響いた。互いの身体を支え合って立っている双子の隣で、カイジャンが腹を抱えて盛大に笑っている。
「いや、お前らの夫婦関係の一端を垣間見たというのか、尻に敷かれるのも幸せっていうのか……」
 目尻に涙まで浮かべて笑う男の向こう側で、腰を抜かした一国の王が唖然としている。自分が権力保持の為に娶ろうとしていた姫君の以外な気の強さに驚いた、というだけではないだろう。かつて異母弟と王位を巡って争った王子。異母弟が凶刃に倒れて王位についた後、ディラン1世には母の一族の後ろ盾も、古くから付き従う家臣さえもいなかった。彼にとっては己の命を守る為、どうしてもシルヴィア王国の王女が必要だったのだ。
「――国王陛下」
 笑いながら腰に手をあてたカイジャンが、自国の王に掌を差し出している。王制廃止の為に動く反逆者の手が、王の手を掴んでその場に立ち上がらせる。その姿は王と反逆者というよりは、ただの人と人――人間同士の姿に見えた。
「見ればわかるだろ。あんたに、あの娘の相手は無理だ。――シルヴィアの王女はロルカ王には嫁がない」
「……貴様が、私を殺すのか」
「いや。おれにあんたを殺すつもりもないし、あんたや王族を国外に追い出すつもりもない。エリトリアは王を国外に追い出して議会を開いた。だが、王がいたまま議会を開くことだって、不可能ではないはずだ。――あんたがそれを認めるのなら、ロルカの民すべてがあんたの後ろ盾になる」
 民が己の意思で国の行く末を決め、王がその道を承認する。無論、障害は多いだろう。だが、理想が理想でなくなった時、北隣のエリトリアとも、南の大陸シルヴィア王国とも違う、ロルカ国の新たな歴史が幕を開ける。
 開け放たれた大聖堂の扉の向こうから、複数の人の声がした。人の声と足音、それに馬の蹄の音が鳴り響く。カイジャン達叛乱組織の仲間なのか、あるいはロルカ国王の身辺を守る騎士達か、もしくはその両方であるかもしれない。
 つい先ほどまで、散々に人を罵ってくれていた相手が、ラドルフの手にしがみついてくる。その手をきつく握り返して、ラドルフは剣の柄に手をかけた。――もう何があっても、手放したくない。
 しかし、予想に相反して、現れたのは栗色の髪をした王太子だった。しばらく動けないように思い切りぶん殴って来たのだが、意外と早く回復したらしい。共にいる軍服姿の男達は、王太子の護衛か親衛隊の一部だろう。
「兄様、お願い。兄様の妹のフィリエは死んだの。わたしはもう兄様の妹でも、お父様の娘でもない……」
 ラドルフの手を握り締めたまま、必死で訴える妹の言葉に、大国の王太子の眼差しが揺らいだ。どうしても価値観が相容れないだけで、この男とて、兄として妹を愛していないわけではないのだということくらいは、ラドルフとて知っている。
 血を分けた兄と妹の間で、どのような交信があったのかわからない。しばらく無言で視線を見交わした後、エルモンドは黙って踵を返した。付き従っていた軍服の男の一人が、慌てたような声を上げる。
「国に戻るぞ」
「お、王太子殿下!」
「いい加減、シルヴィアに戻らないと私が父上に殺される。その娘はシルヴィア王国の王女などではない。妹は……未だ、行方知れずのままだ」
 フィリエの瞳から一筋、涙の滴が伝って落ちる。今ならばまだ、ラドルフの手を振り払って駆け出せば兄と共に国に戻れる。だがフィリエの手は痛いほど、ラドルフの手を握り締めたままだった。
「しかし……王太子殿下」
 王太子直属の親衛隊ならば、妹姫の顔を見知っていても不思議はない。言い募ろうとした男の声を遮るように、声を張り上げた王太子の言葉が、天井の高い大聖堂の建物の中に木霊した。
「そんな娘のことなど知らぬ。どこへなりとも勝手に行けばいい!」
 フィリエの頬を伝って落ちた滴が、大聖堂の床に落下して散った。





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