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月の宝珠
第五章 大聖堂の戦い〜


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 はじめて会った時から、いけ好かない相手だと思っていた。
 最初に顔を合わせたのは、ローデシア選王国での指輪騒ぎ騒動を終え、シルヴィア王国に帰りついた後のこと。妹が渡り傭兵を連れて帰ってきたと知った王太子は、ラドルフの前に金貨の入った袋を投げつけて見せた。
 次に会ったのは生ぬるい風の吹き荒れる夕暮れ時。フィリエを取り戻そうと現れたこの男は、何故かその妹の首に、剣の切っ先を突きつけていた。
 ラドルフは肉親の情を知らない。血を分けた親とは幼い頃に生き別れ、今でも居所くらいは知っているが、正直に言うなら、思い出したくもない。
 しかしフィリエと血を分けた兄であるこの男は、この男なりに妹を慈しんでいるはずだ。ならば自分と共にいるよりも、彼女にとって本当はずっと幸せではないのか。ずっと、そう思ってきた。
 剣の柄を握り締め、空いたもう片方の手をそっとフィリエの頬に添える。
「――貴様が、フィリエをこんな目に合わせたのか」
「たかだか傭兵ごときが、シルヴィアの王女を呼び捨てにするな。私はただ、嫁ぐまでの間、この娘を大人しくさせるよう命じたまでのことだ」
 この男は、こんな状態の妹を見ても、本当に何も感じないのだろうか。
 根本的に考え方が違うのだろうが、どうしても理解ができない。人形と化したフィリエを最初に見付けた時、ラドルフはしばらく衝撃で口もきけなかった。今だって、呼びかけても反応を返してくれない彼女を見ているのがとても辛い。彼女の為というより、自分の為だ。フィリエがもう一度笑いかけて名を呼んでくれるのならば、何だってする。
「……まったく、いつもこれくらい大人しければ手もかからないものを」
 吐き捨てられた台詞に、腹の底から熱いものが沸いて来る。
 フィリエは決して、男の言いなりになるタイプの娘ではない。意志が強く、頭が回って行動力もある。ラドルフでさえ時折手を焼いていたのだから、身内である父や兄はこれまで、さぞかし手を焼いてきたことだろう。
 だが、それがフィリエなのだ。絹のドレスと宝石で着飾った大人しく従順な姫君は、フィリエであってもフィリエではない。
 これまでに感じたことない程の激しい怒りに、我を忘れてしまいそうになる。ただ自分の都合のよい、話すことも動くこともない人形を作り上げて、それが愛情か。人を見る目がないのは、他でもないラドルフ自身だ。どうしてこんな男の手に、あの時、誰よりも大切な存在を託してしまったのか。
 ――どうしても駄目だ。この男だけはどうあっても許せない。
 例えそれが、八つ当たりに近い感情であると知っていても。
「――フィリエを、頼む」
「え、って、おい!ラドルフ!」
 引き抜かれた白刃が、月明りに光る。生きて行く為に人の命を奪い続けた男が、生まれてはじめて、怒りの為だけに剣を抜いた瞬間だった。
 


 身体の斜め下から切りかかってきた剣の切っ先を、自分の剣でかろうじて受け止める。このまま鍔ぜり合うのかと思った次の瞬間には、振り下ろされた刃によって脇腹をなぎ払われていた。
 シルヴィア王国の王太子であるエルモンドにも、それなりの剣のたしなみはある。剣を学び始めて数年後に、年端のいかない妹にあっさりと追い抜かれたが、それだってフィリエの上達が異常に早かったのであって、エルモンドの技量が劣っていたわけでは決してない。
 そんなエルモンドの目から見ても、ラドルフの技量が並大抵でないことは容易に感じ取れた。かわすだけ、逃げるだけが精一杯で、攻撃に移る余裕がまるでない。大体、ここ最近は他にやるべきことが多すぎて、最後に剣術場に行ったのがいつ以来か思い出せないくらいなのだ。
 ――できることなら、騒ぎを大きくせずに、フィリエを取り戻したかった。
 叛乱組織に手を貸していた貴族の一人からの密告で、フィリエの行方がわかったとき、エルモンドは途方もなく安堵した。何者かに攫われた妹が無事であったことが知れた安堵が一つ、そしてもう一つは、今ならばまだ、騒ぎを大きくせず、彼女を取り戻せると思ったからだ。
 シルヴィア王女がロルカ国王に嫁ぐことはもはや規定路線であり、無事に婚姻が成り立った時、王女が過去に異国の傭兵と夫婦同然の暮らしをしていたことは、フィリエにとって大きな傷になる。王妃となる娘が傷物同然であると知れたなら、ロルカ国の反シルヴィア派は黙ってはいまい。誰よりも可愛い妹には、一片の濁りもない、幸福な結婚をさせてやる。
 なぎ払われた脇腹から赤いものが飛び散り、濃灰色の石畳にばたばたと散って行く。護衛もつけずに外国をさ迷っても、身を守れる程度の腕はあると自負していたが、それは王宮という籠の中でだけの自負であったらしい。防戦一方の間合いに、精も魂も尽き果てかけているこちらとは違い、打ち合う相手は息さえも上がっていない。
 ――貴様が、フィリエをこんな目にあわせたのか。
 あの瞬間、エルモンドは男の目の中に、これまで感じたことのない激しい感情を見て取った。一国の王太子の背筋を凍らすほどの怒りと――むき出しの殺意。
 シルヴィア王国の王太子を手にかけて、それでただで済むはずもない。東大陸最大の国家である王国は、その威信にかけてでも、王太子殺害犯を探し出してしかるべき罰を下す。それがわからないほど愚かな男ではないだろう。だがフィリエがフィリエであることの方が、この男にとっては重要なのか。状況も計算も利害も、我が身の保身さえをも凌駕するほどに。
 何度目かに打ち合った時、限界を超えた利き腕から力が抜け、剣の柄が手から離れた。もはや指先一つ動かすことのできないエルモンドに向かい、白刃が振り下ろされる。視界の端に、赤毛の大男が声を振り上げる姿が映った。
「貴様だけは許さない。――死ね」
「よせ、ラドルフ!その男はフィリエちゃんの兄貴だ!」
 今まさに、振り下ろされようとしていた切っ先がほんの一瞬、たじろぐ。焼け爛れた顔を歪ませた男が再び刃を振り下ろそうとした次の瞬間、大聖堂の方角から鐘の音が鳴り響いた。
 グラノスの大聖堂は聖職者が常駐している教会とは異なり、王族の結婚式や葬式の時にだけ司祭を呼んで儀式を執り行う。こんな夜更けに鐘が鳴ることは通常ならばあり得ない。
 鐘の音が響いた刹那、栗色の髪がふわりと風に舞った。長らく閉ざされたままであった瞼がゆっくりと開かれる。裸足の白い足が石畳を踏み締め、傀儡の姫君がゆっくりと大聖堂の方角に歩き出そうとしている。
「フィリエ……?」
 よほど強く奥歯をかみ締めていたのか。目を見開いた男の口の端から、血の筋が滴り落ちている。ラドルフ、カイジャン、そしてエルモンドの視線の先を、白い寝間姿の娘がふわりと通り過ぎて行く。その眼差しは虚ろで、唇にも頬にも、幽霊かと思うほど精気がない。
「ラドルフ、何をやってる。追え!」
 赤毛の男の叫びに、顔の焼け爛れた男が、フィリエの向かった方角とエルモンドとを見比べた。愛する女の目と鼻の先で、その兄に止めを刺すことには躊躇いがある――だがどうしても怒りが収まらなかったのか。次の瞬間、固められた男の右の拳が、エルモンドの鳩尾に直撃した。
「――行くぞ、カイジャン!」
 駆けて行く男の靴音を、薄れ行く意識の中で聞く。
 さすがは人の命を奪うことの玄人たる傭兵というべきか。これならいっそ死んだ方がましだと思えるほどの苦痛が全身を駆け巡り、声を上げることも指先さえも動かすことができない。なすすべもなく石畳の上に転がりながら、エルモンドはどういうわけか、声を上げて笑い出したくなった。






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