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月の宝珠
第四章 王女奪回〜


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「――劇場の地下には、怪人が住んでいるんです」
 最初の夜こそ最高級の部屋を借り受けたが、さすがにいつまでも迎賓殿にいるのは気が引ける。西大陸に滞在していた頃、ラドルフとフィリエは景国王宮内の小さな館を一つ借りて、まるまる一冬をその館で過ごした。
 若き景国王はラドルフが身につけた異大陸の剣術や兵法に興味を持ち、自国の兵への教えを請うた。フィリエは王妃の護衛件世話役として、裁縫を教えたり剣術を教えたりしていたらしい。夜になると互いに同じ館に戻って、その日起こったことを話したり、埒もないことを語り合いながら時を過ごした。
 そんな日々の中で、時折、フィリエが彼に語ってくれたのが、幼い頃、彼女が母親から寝物語に聞いたという物語だった。どこかで聞いたことのあるような話から、どう考えても創作だろう、と言いたくなるような突拍子もないものまで多々あったが、ある夜、彼女が語って聞かせたストーリーだけは、妙に心の奥底に残った。
 この世に生まれ落ちた時から途方もなく醜い外見を持ち、それ故に劇場の地下に住みつくしかなかった怪人の男が、ある日、舞台上の歌姫に恋をする。彼女を劇場一の歌姫にする為、怪人が行った血塗れの所業の数々は、とても年端もいかな子供に母親が語って聞かせる内容ではない。それを語る方もどうかと思うが、目を輝かして聞いていた子供もどうかしている。
「それで?怪人と歌姫はその後どうなったんだ?」
 指の間を零れ落ちる絹糸のような感触を楽しみながら、問いかけたラドルフの胸に、フィリエは笑って頬を摺り寄せた。
「歌姫は怪人の手を取って、二人は劇場を逃げ出すんです。二人でとても遠くまで逃げて――そこでずっと、幸せに暮らしました」
 ――その物語の本当の結末を知ったのは、大分後になってからのことだ。
 本当の結末は、彼女が語った内容とはまったく違う。歌姫は怪人とはまるで違う、心にも身体にも傷一つない恋人の手を取って、怪人はただ一人、地獄の業火に身を焼かれて死んで行くのだ。
 今になって、時々、あの夜のことを思い出す。フィリエは本当は、あの物語の結末を知っていたのか。知っていて、あえてラドルフに違った結末を語って聞かせたのか。
 確かめてみることが、ずっと出来ずにいる。



「――本当にあれが、シルヴィア王国の姫君なのか?」
 半分に月の割れた夜、女を一人抱えて戻ってきたカイジャンに、屋敷の主である貴族の男が問いかけた。密かにカイジャン達叛組織に手を貸している、ロルカ国の反王政派の中心的人物である。
 自国よりはるかに強大な国の王女に対して「あれ」呼ばわりもないものだが、実際そうとしか見えないのだから仕方ない。その小娘――フィリエは、今、この屋敷の一室で静かに横たわっている。最初に見つけた時には一瞬、死んでいるのかとさえ思ったが、よく診れば呼吸も脈も安定している。しかし、意識だけはどうやっても取り戻さない。
 かつては辻占いで生計を立て、彼らの中では最も呪術に詳しい双子達の観立てによると、フィリエに施されたのは傀儡の術――ローデシア選王国の一部で、意志なき兵士を作り上げる時につかう禁断の術の一種であるらしい。人間を人形へと造り変える恐るべき呪術だ。
 カイジャンの計画では、シルヴィア王国の王女を取り戻した後は、彼女と夫と共に隣国へ出立させるつもりだった。しかし、無事に王女を取り返したところまでは良かったが、その彼女があの状態ではその先に進めないというのが、正直な感想である。
 カイジャン以上に、この事態の当事者であるはずの男――ラドルフはと言えば、フィリエを見つけて以来、一言も発することもなければ、何らかの意志を表示することもなかった。よくやく取り戻した妻が人形と化していたことで、思考回路が処理不能を起こして飽和してしまったらしい。端的に言うなら、呆けている。
 気持ちはわからなくもないが、こんな時だからこそ、奴にはしっかりと善後策を講じて欲しいものだ。うっかりするとぶん殴ってしまいそうなので、少なくとも何か言葉くらい発してもらいたい。
「あの娘がシルヴィアの王女なのは間違いない。とにかく、当座の目的は果たしたんだ。今日はこれでお開きにしようぜ。――おっさん」
 たかだか傭兵風情に「おっさん」呼ばわりをされ、貴族の男が露骨に渋い顔をする。同一の目的の為、手を貸し合っている仲とはいえ、彼らも決して一枚岩ではない。
 渋い顔をしたまま、部屋を出て行ったパトロンの背を見送って、カイジャンは手近の長椅子に腰を沈めた。
「……さて、これからどうするか」
 闇に沈んだ窓の外からは、夏虫の声だけが盛大に鳴り響いている。



 ロルカ王都の反体制派のアジトとなっている貴族の屋敷の一室で、ラドルフは寝台に横たわったフィリエの姿を見つめていた。
 質素な寝巻きに着替えさせ、化粧を落とすと、そこにはラドルフのよく知るフィリエの顔があった。呪いの知識も技能もないが、生まれた国でそれなりに呪術に親しんできたラドルフには、フィリエにかけられたのが傀儡の術であることがすぐにわかった。そして少なくともラドルフはこれまでに、傀儡の術から開放されて己を取り戻した人間に出会ったことがない。
 わずかに開いた窓の向こうで空が翳り、橙色に輝く半月が雲の合間に隠れようとしている。生ぬるい風が吹き抜けると同時に、栗色の髪がふわりと揺れる。
 頬に張り付いた髪をはらってやろうと、思わず伸ばした掌の下で、伏せた瞼はぴくりとも動かない。見付けた時には見開かれたままだった瞳を、このままでは眼球が乾いてしまいそうな気がして、ラドルフが閉ざしてやったのだ。しかし一度伏せた瞼が、彼女自身の意志で持ち上がることは一度もなかった。
 ――ラドルフさん、駄目!
 最後に聞いた彼女の声を思い出す。実の兄に短刀を突きつけられながら、それでもフィリエは必死で、ラドルフの元に駆け出そうとしていた。必死さが滲んだ声音を、見開かれた瞳に浮かんだ強い色合いを昨日のことのように思い出し、思わず拳を握り締める。
 当たり前のように側にいて、手を伸ばせばいつだって触れることが出来た。それだけで満足すればよかったのに、彼女と共に生きていたいと呪いを解くことを望んで、その結果がこれだ。
「フィリエ……お前、どこにいるんだ?」
 そっと頬に手を添えても、傀儡と化した妻は一言も答えない。これがほんの少し前ならば、頬を染めて見返してくるか――あるいは不意打ちは卑怯だと、拳を握り締めて怒り出したりしていたものを。
 あの花の褥で彼女を見付けた時、ラドルフは一瞬、フィリエをフィリエとして認識できなかった。恐らく、フィリエという娘は、生きて、喋って、そこに何らかの感情を宿してはじめて色づく花なのだ。だから今、ここにいるのはフィリエであってフィリエではない。いわばフィリエの抜け殻だ。ならば彼女の本質は何処にいるのだろう。傀儡の術によって人体から自我を切りはなすことが可能だというのなら、彼女の心は現身を離れ、どこか遠くの世界をさ迷ってでもいるのか。
 もしもその世界に行けば、彼女と再び出会えるのであれば。
「……頼む。俺もそこに連れて行ってくれ」
 眠り続ける妻の額に己の額を押し当て、生まれてはじめて、ラドルフは祈った。聞き遂げる神などないと、心の奥底で知りながら。







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