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月の宝珠
第二章 海辺の街〜


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 満月の夜から二日間は晴天が続き、その後は丸一日雨が降り続いた。フィリエに事情を明かして、遠慮なく身体を休めることに専念したラドルフとフィリエにシルヴィア行きの船の出港予定が届いたのは、満月の夜から数えて四日目の朝のことだった。
「――いくら保存がきくとは言っても、いくらなんでも、それは買い込み過ぎだろう」
「だって、このパン美味しいんですもん。味を覚えて、王宮の料理人に同じものを作って貰おうとおもって」
 待ちに待った出港ともなれば、水や食料や着替えの準備――旅の支度をしなければならない。宿を出て、フィリエが最初に求めたのが、先日港街の食堂で頬張っていた胚芽入りのパンだった。固焼きで水分を飛ばしているので確かに日持ちはするが、パンばかり三袋も持ってどうするつもりだろう。
「お前は王宮で、いつもいいものを食ってるんだろうが」
「王宮のパンは白いばかりで味気がなくて、わたし、こういうの食べてみたかったんです。王都は内陸だから、魚も塩漬けか干物しかなくて。……カイジャンさんお勧めのお刺身も食べてみたかったなぁ」
 本気で残念そうな王女を前に、思わず微笑が漏れる。ひょんなことから随分と長い道中となったが、シルヴィアに帰り着きさえすれば彼女と二人きりの時間も終わりだ。正直気苦労も多かったが、そう悪い時間も過ごし方でもなかった。腕を伸ばして胚芽パン三袋分の荷物を受け持つと、綺麗な鳶色の瞳が瞬いた。
「ほら、持ってやるよ」
「ラドルフさん……体調は大丈夫ですか?」
「ああ、もうほとんど問題ない」
 マゼンタの土地には標高が高いところと低いところがあって、街や家屋は標高の高い丘の上に集中している。海辺にあるのは港と宿屋のみだ。その昔、大津波で何万という死者を出した名残であるとかで、宿で寝泊りする旅人も、何かあった時にはすぐに高台に逃げるようにと指導される。堤防や防波堤も街の住人が独自に築いたものであるそうだ。
「いいところですよね。マゼンダって」
 眼下の海を仰いだフィリエが、前髪を押さえながら呟く。海辺の宿屋と露天の並ぶ商店街は石畳の階段で繋がっていて、そこを昇り降りすれば割合すぐに行き来することができる。王女としては少々規格外の姫君だが、国に戻ってしまえば、再びこうして外国の海を眺めることなどないだろう。世界を見たいという言葉は、彼女にとって決して容易い言葉ではなかったはずだ。
「そういえば、ラドルフさんの出身ってどちらなんですか?黒い髪ってどちらかといえば、北の方に多いって聞きますけど」
「ああ、俺は――」
 目の前には青く輝く海原が、ちらりと見やった背後には軒の低い露天が並ぶ細い道が見える。宿に戻るための階段を降りようとして、ラドルフは立ち止まった。見上げた空には袋につめて縁日の屋台で売ってみたくなるような入道雲、木陰も背の高い建物もない空間に――影が落ちている。
「フィリエ、伏せろ!」
 胚芽パンの入った包みを投げ捨て剣を引き抜くと、ラドルフの言葉通り、フィリエは素直に身を屈めていた。一跳びで石畳を横切り、目ではなく勘だけで敵の姿を追う。隠れる場所など何もない空間から、黒いものが飛び出してきたのは、その時のことだった。
「ラドルフさん!」
 ラドルフと同様に愛剣を引き抜いたフィリエが目にしたのは、何もないはずの空間から黒い皮紐のようなものが幾本も延びてきて、その先端がラドルフの剣に巻きついている光景だった。フィリエが駆け寄って叩き切ると、弓矢の弦のようにしなって、地面に落下する。
 まだ身体が完全に本調子ではないのかもしれない。飛びずさって後退したラドルフの息が上がっている。肩で息をする男と背中合わせに剣を構えて、フィリエは背後の男を振り仰いだ。
「大丈夫ですか?ラドルフさん」
「ああ、助かった。――油断するな。来るぞ」
言葉の通り、一分の隙もない戦闘体制を取って現れたのは、フィリエが見たこともないような風貌の男達だった。いや、風貌自体は金髪碧眼で、マゼンダにおいてはそう珍しくもない人相なのだが、その顔の皮膚一面に奇怪な文様が刻まれている。赤や紫の鮮やかな色で顔に文様を描いた男達の手には、騎士が馬を操る時に使う、鞭のような武器が握られていた。
「何なんですか……この人達」
 びゅんと空を切る音がして、男が振り下ろした鞭の先端が足許の地面を打った。はじめの一撃をかろうじて交わし、振り向きざまに襲い掛かってきたそれを剣の切っ先で叩き落す。剣と剣でのやりとりなら、慣れてはいる。だが相手が飛び道具では、相手の間合いに入ることができない。
 鞭は普通、馬の調教に使うものであって、こんな風に人間相手に使うところなど、少なくともフィリエは見たことが無い。顔面に刺青を施す風習も、異国の一地方で行われていると耳にしたことはあるが、シルヴィアやロルカではお目にかかることはないだろう。
 ――この人達は……。
 何度か切り結んで両断してやったお陰で、武器の届く半径が短くなった。これならかろうじて、剣が届く。踏み出したフィリエの攻撃を、刺青の男達は受け流して四方に散った。その行動に確信を持つ。この男達の目的はフィリエでは――シルヴィアの王女ではない。彼らの目的は――
「ぐあっ……」
 金属が石にぶつかる鋭い音がして、フィリエよりはるかに優れた技量を持つはずの男の手から、得物が転がり落ちた。石畳の階段をラドルフの愛剣が激しく跳ね上がりながら落下して行く。剣を手放したラドルフの首筋には、黒い皮の紐が幾重にも巻きついていた。
「ラドルフさん!」
 何人もの繰り手に一気に鞭を引かれ、ラドルフの身体が一瞬、弓なりになって宙に浮いた。そのまま受身も取れずに地面に落下して、周囲に土埃が上がる。
 駆け寄ろうとしたフィリエの行く先を、顔面に橙の刺青を施した男が遮った。奇怪な武器にばかり気を取られて、油断があったのかもしれない。男が手にした剣の柄が、フィリエの鳩尾に食い込む。
 くらりと目の前が歪んで、身体を保っていることが難しくなる。完全に地面に倒れこむ直前、フィリエの視界の端に、投げ捨て、踏み荒らされた胚芽パンの残骸が映った。



「――ラドルフがさらわれた?!」
 教えられた刺身の旨い居酒屋で、赤毛の男はタコの唐揚げを頬張っていた。どうやら刺身が売りではなく、タコが売りの店らしく、店内に備えられたいけすで、八本足の軟体動物がぬめぬめと蠢いている。客の注文が入ってから、捌いて調理するらしいが、生きている姿をしげしげ眺めていると、食欲を失くすような風体である。
「あの戦馬鹿、剣術馬鹿をかっさらうとは、どれほど恐ろしい呪術師か、あるいはどっかの国が大軍を仕向けてきたか……」
「ふざけないで下さい!」
 フィリエが力一杯テーブルを叩きつけると、生けすの中で、タコの足がびくびくと震えた。
「ラドルフさんは今、身体が本調子じゃないんですよ。それをあんな……」
 眼裏に意識を失う直前に見た、ラドルフの姿が蘇る。首や腕を黒い鞭で捕えられ、ものでも運ぶように引きずられていった。地面には、人の足跡の他に、あきらかにそうとわかる轍の跡が刻まれていたのだ。
「って、フィリエちゃん、君、もしかして知ってるの?ラドルフの身体のこと」
「呪いなんですよね。……ラドルフさんが倒した敵がかけた」
 満月の夜毎に、傷を負った時の痛みと苦しみが再現されるのだと聞いた。実際に痛むのは満月の夜だけだとしても、常に月の満ち欠けを気にしていては、精神は休まる時はないのではないか。
 拳を握り締めたままうな垂れたフィリエを見て、赤毛の男――カイジャンは残ったタコの唐揚げを頬張った。一皿分丸々平らげて、水差しの水を一気に空にする。
「そうか。君に呪いのことを話したのか。……ラドルフは随分、君の事を信頼していたんだな」
「え?」
「だってそうだろう?女でもあるまいし、月の数日は戦えない事情があるなんて、俺たち傭兵にとっては、死活問題だ。何しろ、どこで恨みをかっているかわからない商売だからな」
 ――お前には二度も見られてしまったしな。願わくば、2、3日、騒ぎは起こさないでおいてくれ。こうなると、数日は思うように身体が動かん。
 あの言葉は、彼にとって、決して生半可な気持ちで発した言葉ではなかった。彼は彼なりに――フィリエを信じていてくれていた。
「カイジャンさん。あの人達は、最初からラドルフさんを狙っていました。何か心当たりはありませんか?」
 顔を上げたフィリエをしげしげと眺めて、カイジャンは持っていた杯をテーブルに置いた。眼差しがふざけた軟派男のそれではなく、剣を取って戦場を駆ける傭兵のそれになる。
「もう一度聞くけど、その刺青の連中は、君には――シルヴィアの王女には目もくれなかったんだね?」
「――ええ」
 杯をテーブルに置いた男がその場に立ち上がる。彼が何を見ているのかはすぐにわかった。開け放たれた窓の向こうに、イカ釣り漁に使う漁船の無数の篝火が輝いている。
「どこで恨みをかっているかわからない商売ではあるけどな。わざわざそんな手を使ってまで、ラドルフをさらうなんて酔狂な奴の心当たりは、一つしかない」
 その時になってはじめて、カイジャンが見ている海の方向に気がついた。男の目はただ一直線に北の方角向けられている。
「ラドルフの故国――ローデシア選王国だ」




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