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月の宝珠
章 鍵を探して〜


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  不意に、誰かに名を呼ばれたような気がして目が覚めた。
 瞼を開けても周囲には闇が垂れ込め、手も足も指先が千里の彼方にあるかのように重い。自然の眠りではあり得ない重さ――どうやら、夕食のスープの中に何か混ぜられていたらしい。
「カイジャンの奴……何を考えているんだ」
 思うように動かない身体を引きずるようにして、寝台の端に身を起こす。途端、身体を駆け巡った鋭い痛みに、ラドルフは顔を歪ませた。
 ――正直なところ、今回は本当に死を覚悟したのだ。
 ろくに受身も取れずに水面に落下し、それでも無意識に少しは泳いだらしい。堀の縁に引っかかっていたところを、カイジャンの手下である双子に発見されて回収された時には、既に意識はなかった。それでも命があっただけで奇跡のようなもので、肋骨と鎖骨が折れていた上に全身打撲で、しばらくは身動きさえままならなかったが、折れたのが背骨や首の骨だった場合には、一生、身体が動かなくなる可能性すらあった。
 赤毛の知己に対し、またしても重たい借りを背負ってしまったラドルフではあるが、訳もわからないままに眠り薬か何かを飲まされて、心穏やかではいられるわけもない。包帯だらけの身体を何とか起こしかけたとき、暗闇の片隅で小さな光が揺らめいた。
 手燭の周囲を何かで囲って、できるだけ眩さを抑えた小さな灯火を持って近づいてくる人間がいる。音をたてないよう、細心の注意を払って剣を引き抜き、ラドルフは息を潜める。足音を殺して近寄ってきた人間の足先が見えるくらいの距離になった瞬間、一気に起き上がって、その首もとに剣の切っ先を突きつけた。
「う、うわっ!え、ちょっと待った、殺さないで」
「お前は……」
 その人物が持っていた手燭の囲いを取り外し、光に照らされた顔をまじまじと見る。年の頃なら14、5歳の少年は、カイジャンがいつも連れ歩いている双子の片割れである。
「ロキシスを離してやって下さい。今ここで彼を殺したところで、貴方には何の益もないはずだ」
 淡々とした声に背後を振り返ると、今まさに剣を突きつけられているのと同じ顔をした別の人間が、部屋の中に入って来たところだった
「イキシス……益とか益じゃないとかの問題かよ!っていうか、助けろよ!」
 喉許に抜き身の剣を押し当てられた少年が、片割れに向かって声を張り上げる。
 会話の流れから推測するに、今部屋に入って来たのがイキシス、剣を突きつけられている方がロキシスなのだろう。見た目で見分けはつかないが、口を開けば口調でわかりそうな気がする。
 身体が本調子であろうとなかろうと、それなりに見知った相手を意味もなく殺すほど血に飢えているわけではない。剣を鞘に戻すと、少年の一人は飛び跳ねるようにして、片割れの許へ駆け出した。自分と同じ顔をした人間の後ろに逃げ込むようにして、恐る恐るこちらをうかがっている。
「失礼をお詫びします。まさかまだ、貴方がまだこの宿にいるとは思わなかったもので」
「何の話だ?」
 彼らがいまある部屋は、ラドルフとフィリエが滞在していた宿屋の一室である。この宿の女主人が、駆け落ち夫婦に好意的で助かった。カイジャンと双子に連れられ、意識不明で戻ってきたラドルフを匿ってくれていたのだ。
 まだこの宿に居るも何も、人に薬をもって、動けないようにしてくれたのは彼らの兄貴分――カイジャンである。一体それはどういう意味かと問いかけようとした時、激しく廊下の軋む音がして、当のカイジャンがずかずかと部屋の中に踏み込んできた。
「おい、ラドルフ、フィリエちゃんはどうした?やっぱりここに来ていないのか?」
「――フィリエが?」
 生ぬるい風が吹き荒れる夕暮れ時、離れ離れになってしまった栗毛の姫君。
 彼女がどこでどうしているか、気にならなかったといえば嘘になる。だが今のフィリエの側には、シルヴィア王国の王太子が――血を分けた兄がついているのだ。万が一にも彼女の身に危険が及ぶことはないだろうと、つとめて考えないようにしていた。
「どうなったんですか、兄貴?馬車は足止めしたはずでしょう」
「シルヴィアの王女は馬車に乗っていなかった。別な方法で王宮に向かっていると――王太子の奴が言って寄越してきやがった。馬車の襲撃を止められなかったことで、おれはクビだ。畜生、また別な手を考えなけりゃならなくなった」
 カイジャンの作戦では、シルヴィア王女の乗った馬車を襲撃してフィリエを開放し、ラドルフと合流させて夜の間にロルカ国から出国させる手はずだった。途中までは順調に事が運び、馬車の襲撃と王女の逃亡までは成し遂げたが――エルモンド王太子は、妹姫が無事にロルカ王宮に向かったと言って来た。どういうわけかはわからないが、ここにラドルフがいることが、作戦の失敗を明確に指し示している。
 無事にシルヴィア王女に王宮に入られてしまえば、手出しが格段に難しくなる。どう考えても、警備も護衛もこの街の屋敷の比ではないだろう。
「ちょっと待て、どういう意味だ、カイジャン。――フィリエが、どうしてここに来るんだ?」
 一体、どうしたものか……思考の渦の割って入ったラドルフの発言に、カイジャンは劇画の一コマのように、その場にすっ転びそうになった。どうしたもこうしたもない。カイジャンは、シルヴィア王女にロルカ王に嫁がれると都合が悪いから手を貸したわけだが、フィリエはただただこの男に会いたい一心で、夜の中を駆け出して行ったというのに。
 ――……神様。
 カイジャンがラドルフの無事を伝えたあの夜、フィリエは自分が泣いていることにさえ気づいていなかった。よくも悪くも、女という生き物は強かだ。己の髪の一筋、涙の一滴さえも武器に使う。そうと知っていてもなお、あの涙の滴は美しかった。その涙が誰の為のものであるかを知らなければ、うっかり惚れてしまいそうになる程に。
 しかし、彼女にそれだけ想われている当の相手はといえば、本気で訳がわからないようで、訝しげに眉間に皺を刻んでいる。ラドルフがフィリエに惚れていないとは言わない。だがどうやら何かが微妙にすれ違っている。
 もっとも、それは重傷の友人に仔細を明かしてこなかったカイジャンにも責任の一端があるかもしれない。古くからの友人に向き直り、カイジャンは男の名を呼んだ。
「ラドルフ、お前に話がある」
 カイジャンがラドルフに初めて会ったのは、ラドルフがまだローデシア選王国にいた頃のこと、傭兵の手柄など横取りするのが当然の正規軍の中にあって、ラドルフは傭兵と正規兵と変わらぬ扱いをする世にも稀な指揮官だった。その後も何度か一緒に戦って、この男の力量なら良く知っている。この男の力は重要だ。特にこれから、何かを成し遂げようとする時には。
「お前にとっても損のある話じゃない。――お前の力を貸して欲しい」
 わずかに開いた窓の向こうで、半分に割れた月が煌いている。そうしてカイジャンは自らの目的をラドルフに語った。






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