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月の宝珠
第二章 囚われの姫君〜


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 海が荒れている。
 夕暮れ時から強くなった風が海上で渦を巻き、巻き上げられた水泡が、海辺の家々の屋根や壁にぶつかっては散って行く。
 その日、軟禁されていた尖塔を出されたフィリエは黒塗りの馬車に押し込められ、海沿いにある街道をひた走っていた。馬車は外装だけでなく内装までもが真っ黒で、ただ窓だけが、ほんのわずかばかり開く。
 周囲は馬に乗った屈強な男で囲まれており、ためしに内側から押してみても、出入り口は釘でも打ちつけたかのように動かなかった。もしかしたら、本当に板を渡して釘を打ったのかもしれない。
 ほとんど罪人と変わりない扱いを受けながら、馬車の椅子に背を持たれ、斜め後ろから追いかけてくる半月を見やる。
 ラドルフと共にこの街にやって来る前、二人で地図を開いて街の地理は大方把握している。ウェルガの街から西に向かう道は一本道で、整備された街道がロルカ国の王都――グラノスにまで続いている。
 濃紫の墨を流したような空を、分厚い雲が流れ動く。街道を進む馬車が停まったのは、その時のことだった。
 がたん、と車輪が何かを弾く衝撃がして、体が前方に投げ出されそうになった。一体何が起きたのか。四方を黒塗りの壁に囲まれて、外の状況は想像するしかできないが、複数の人間が地面を踏み荒らす音と鋼の音が聞こえる。剣は拘束された時に取り上げられている為、今のフィリエに身を守るべき術は何もない。
 しばらくそうして息を殺していると、わずかだけ開くことのできる窓から知った顔が見えた。今夜、フィリエを護送する役割を担っていた男――カイジャンである。
「フィリエちゃん、大丈夫?怪我してない?」
「カイジャンさん」
 打ち付けてあった板を乱暴に引き剥がし、傾いた馬車から引き摺り下ろされる。思わず声を上げそうになった口は、大きな手で乱暴に押し塞がれた。大方想像はついていたのだが――街道脇から現れた覆面姿の男が十数人、馬車を守る護衛達と剣を交えている。
 ――今、シルヴィアの王女にロルカ王に嫁がれると、おれはおれの目的を果たせない。
 カイジャンはそう言って、フィリエがラドルフの許に戻る為、手を貸すことを請け負ってくれた。しかし、シルヴィア王女がロルカ王に嫁いで果たせない目的とは一体何なのだろう。この気のいい大男は、一体どんな深みに足を踏み入れてしまっているのか。
「フィリエちゃん、これ」
 そう言って押し付けられたのは、フィリエが拘束される時、取り上げられた剣だった。女性用の軽量化された、だが刃を潰した練習用のものではない、正真正銘、実践用の真剣だ。
「君とラドルフが泊まっていた宿だ。道はわかるね?」
「カイジャンさん……」
「ラドルフはそこにいる。ついてこられても邪魔なだけだから、一服もってきたんで、君が迎えに行ってやってくれ」
 カイジャンの果たすべき目的が何なのかは知れない。だが今、彼がフィリエと共に行くつもりがないのだということは、明確にわかる。
 ラドルフとカイジャンは友人であり、フィリエにとってカイジャンは恩人だ。過去にラドルフが最も辛かった時に側にいたのは、他でもない彼であっただろうから。
 躊躇う背をそっと押され、フィリエは思わずカイジャンを振り仰いだ。
「フィリエちゃん、――お幸せに」
 それは以前、戦場に向かう直前、ラドルフが浮かべていたのとそっくり同じ表情だった。よく見知った男の瞳に浮かんだ深い色合いに、我を忘れて叫び出したくなる。かろうじてこらえた口の端から乾いた呼吸の音が零れ落ちる。幸い、戦闘中の他の男達は、まだ王女が馬車を抜け出したことに気づいていない。今を逃せば逃げられない。育ててくれた父と兄を捨て、恩人を危険の中に置き去りにして――例え世界を敵に回しても、傍に行きたくてたまらない。
 ――君とラドルフが泊まっていた宿だ。ラドルフはそこにいる。
 取り戻した剣を握り締め、フィリエは夜の中へと駆け出していた。



 息が切れてもなお走り続けて、ようやく宿屋街が立ち並ぶ界隈にまでたどり着いた時、あたりはしんと静まり返っていた。
 周囲を建物で囲まれた界隈では、潮風も先ほどまでのように強くは吹き付けてこない。もうすぐ日付も変わろうかという頃合、酒場の客も多くが家路に着き――夜通し遊ぶ客達はこことは別の娼館のある界隈に移ってしまった後だ。ラドルフとフィリエが滞在していた宿は、この宿屋街の外れに位置している。剣を片手に最初の路地を曲がった時、そこにいた人間の身体に鼻先をぶつけ、フィリエは地面の上に尻餅を突きそうになった。
「お前は……まさか、こんなところで会うとはな」
 フィリエを認めて、目を眇めた人物。それはあの屋敷で、フィリエが剣を奪った若い衛兵だった。さらにその背後から現れた顔にも見覚えがある。フィリエが彼から剣を奪い取ったあの日――フィリエの手で地面に打ち倒された雇われの護衛達だ。
「――お前のおかげで、おれ達は仕事をクビになった。今、この街で仕事を見つけるのがどれだけ大変か知っているか。何日も何ヶ月もかけて、ようやく見つけた破格の報酬の仕事だったんだ」
 誰もいない街の片隅で、剣を抜いた男達が複数でフィリエを取り囲む。フィリエが剣を引き抜くより早く、男の一人の放った斬撃が彼女の腕を切り裂いた。鮮血が辺りに飛び散り、真剣が音を立てて地面に転がり落ちる。
 あの時は不意を突かれてフィリエに打ち負かされはしたが、シルヴィア王太子が金を出して雇うだけの技量がある男達だ。まともに打ち当って勝てる相手ではない。剣を捨て、駆け出そうとした背を乱暴に掴んで引き寄せられた。口を塞ごうとした手に、思い切り歯を立てて噛み付いてやる。いくら寝静まっていてもここは宿屋街のど真ん中だ。誰かが集団で女を襲う男に気づいてくれないかと願ったが、不幸にも、通りかかる人間はいなかった。
「この女、ふざけやがって――」
 手負いの獣の思わず反撃に逆上したらしい。右手から血を流した男に力任せに頬をぶたれ、フィリエの身体は地面の上にあっけなく倒れ込んだ。起き上がる間もなく今度は別の腕で抱え上げられて、天と地が真っ逆さまになる感覚を味合う。屈強な男の肩に担ぎ上げられたのだとわかったのは、首の後ろで結わえた自分の栗毛が、地面に向かって垂れ下がった後だった。
「王太子殿下のところに連れて行くんだ。今度はおれ達が、あの赤毛を追い払ってやる番だ」
「いや、離して!」
 どうして誰も彼もが、よって集って邪魔ばかりするのだろう。それほど大それた望みだというのだろうか。フィリエはただ、たった一人この人だけと誓った人のもとに、帰りたいだけなのに。
 男の背を拳で叩いたところで、フィリエを抱える腕はびくともしない。それでも必死で壁に爪を立て、力の限り叫んだ声が、誰も居ない夜の狭間に木霊した。
「――ラドルフさん!」
 この壁の向こうに、あの人がいるのに。






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