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月の宝珠
第二章 囚われの姫君〜


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 護衛されるべき対象が、護衛に向かって剣を抜いて襲いかかる。そんなあってはならない騒動が巻き起こった翌日、エルモンドを待っていたのは、崩れ落ちた天井の残骸だった。
 最初に聞いた時には、何かの比喩か冗談かと思ったが、扉を開けて部屋に入って、本当に崩れている天井を見つけて、目を見張る。寝台上の一角の天井がごっそりと抜け落ちて、ちょうど人が一人通れそうなくらいの空間が空いている。天井裏を走る通気口だった。内装で誤魔化していても、この屋敷はそう新しくない、衣服を止める為の金具の先と、ブリキの皿とを使ってこの一月近く、毎日地道に天井を破壊していたらしい。
「まったく、お前という娘は……」
 もはや、頭痛を通り越して脳が痛い。努力を実らせ、天井裏から通気口に進入し、厨房の暖炉に転がり落ちて掴ったフィリエは顔も髪も煤で黒く汚れている。1年近くも男と寝起きを共にして、まさか未だに生娘ということもなかろうが、兄の眼からみても胸や腰の膨らみに欠けるフィリエがそんな姿をしていると、まるで少年のように見える。少なくとも、王女にだけは絶対に見えない。
 大体、何だってこうまでして逃げ出そうとするのか。彼女が東大陸に戻ってきたのは、再び、彼の庇護を受ける為ではなかったのか。
 いかにやることが突拍子なかろうとも、フィリエは王宮育ちの王女である。1年近くも外の世界を見て回れば、いい加減現実に気づいてもよさそうなものだ。
 妹が雇われの傭兵と恋仲になった後、エルモンドは手のものにラドルフの素性を洗わせた。ローデシア選王国の第七王家の生まれという出身は悪くないが、そこで事件を起こして国を逃げ出しているのだから論外だ。しかも傭兵になった後は、人には言えないような後ろ暗いことにも手を染めていた気配がある。
 一度は父に止められ、追っ手をかけられなかったエルモンドだが、だからこそ、フィリエが帰ってきた時にはすぐにわかるようにと、シルヴィア中の港を手の者に見晴らせておいた。お前の行動を怒ってはいない。現実に気づいて帰ってきたなら、受け入れてやる。妹が東大陸に上陸したと聞いて、自ら向かえに出向いたのは、エルモンドなりの愛情の示し方だったのだ。
「兄様……もうこんなことはやめにしましょう」
 椅子に座ったフィリエに口を開かれ、物思いから現実に引き戻される。身体つきは変わったようには見えないが、こうして向き合った妹の顔からは、これまでにはなかった艶やかな色合いが感じられた。昨日までとまるで違う。身体の奥底から湧き出す色香で艶やかに塗り替えられた、女の顔。
「兄様が何と言っても、わたしは兄様の思う通りにはならない。――わたしは今までもこれからもずっと、ラドルフさんの妻よ」
 実際のところ、彼らが持っていた婚姻証明書は無効なもので、フィリエとあの男の間の婚姻は成立していない。仮に成立していようがぶち壊すつもりではいたが、何にせよ、形をというものは大切だ。だからこの世でただ一人、血を分けた実の妹には、誰にも文句のつけようのない、最高の形を整えてやる。例え、当の本人がそれを望んでいなくとも。
「フィリエ、お前には、シルヴィア王国の後継者を生んでもらわねばならない。前にもそう言ったはずだ」
 18の歳に最初の妻を娶り、その後3度妻を取り替えても、エルモンドは未だに子供に恵まれない。妻だけではない。彼が一夜を共にしたすべての女が、ただの一度たりとも身篭らなかった以上、さすがに現実を認めなければならない。エルモンドには、父祖が受け継いできたもものを後世に残す能力がないのだと。
 だからこそ――
「来月、お前とロルカ新王の婚儀が執り行われる。子供を生め、フィリエ。俺がその子供をシルヴィア王国の後継者として育ててやる」
 既にあの男の種を孕んでいると厄介なので、1ヶ月少々時間を置いたが、侍女の報告によれば、どうやらそれも杞憂に終わったらしい。ならば目的は果たせる。――他には何もいらない。
 鳶色の目をわずかに見開いて、フィリエは何も答えなかった。その眼差しに得も知れぬ色合いが浮かぶ。哀しむような、蔑むような、憐れむような。幼い頃は彼が顔を見せるたびに大喜びで後をついてきたというのに、いつの頃からか――ちょうどエルモンドが最初の妻を離縁した頃から――フィリエは兄に対して、こんな表情を浮かべることが多くなった。
「わたしも義姉様も道具じゃない。誰の子どもを産むかは自分で決めるわ。大体、今更婚姻をやり直そうとして、ロルカがそんな結婚認めるの?今のロルカ王――ディラン1世は前の戦争でシルヴィアと戦ったのよ」
「――それなら問題ない。そもそも今回の婚礼は向こうから言い出したことだ」
 ここ最近、ロルカ国内では現在の政治体制――王政に対する不満が渦を巻いている。隣国のエリトリアが共和政となって以来、安定した発展を遂げているのだからなおさらだ。王位継承争いを繰り返す王家に見切りをつけた一部の人間が組織となって、王政打倒のために動きはじめている。
 元々政治的基盤の弱いディラン1世にその動きを止める力はない。シルヴィア王女を娶ってシルヴィアの後ろ盾を得ることを唯一の対抗策と考えるのも無理はないし、万が一にもロルカ国で王政が覆るようなことになれば、同じ流れがシルヴィア王国に流れ込まないとも限らない。こちらがどれほどの思いで守り抜いてきたかも知らず、目先の利益ばかり追い求めて浅はかに王政打倒を訴える組織などシルヴィアに入れるわけには行かない。その為に必要とあらば、敵とだって手を結ぶ。
 エルモンドの言葉に、フィリエは訝しげ首を傾げた。でも……と控えめな口調で問うて来る。
「王政をやめて、共和政に移行する……それの何がいけないの?」
「……!」
「王政であっても共和政であっても、すべてが上手く行くことなんてあり得ない。でもそれを決めるのはその国で暮らす民でしょう?」
「フィリエ!お前は!!」
 代々受け継がれた血統を、守ることだけがすべてのエルモンドにとって、それは絶対に許しがたい暴言だった。思わず妹の頬を張ろうとして、振り上げた掌が途中で止まる。避ける気配も、まばたき一つしないまま、フィリエはエルモンドを見つめている。その瞳に宿ったはっきりとわかる憐れみの眼差しに、いたたまれなくなって席を立ったのは、結局、エルモンドの側だった。



 ――正直に言うなら、後悔している。
 あの日、エルモンドと共にこの建物にやってきてから、ずっと後悔し続けてきた。どうして離れてしまったのだろう。カイジャンはラドルフが生きていると言ったけれど、結局、彼の今の状況を詳細に教えてはくれなかった。傷は深いのだろうか。食事は摂れているのか。夜はきちんと寝ているだろうか。側にいることさえできれば、こんな胸が塞がれる思いをすることもなかったのに。
 エルモンドが去った後、天井の一角が崩れ落ちた部屋の片隅でフィリエは唇をかみ締める。
 兄と再会した時には、ただ懐かしさしか感じなかった。いつだって愛してくれて、守ってくれて、決して過つことのない確かな道を指し示してくれる人。だけど絶対に聞いてはくれない。ただの一度たりとも――お前はどうしたいのか、とは。
 本当はわかっている。変わってしまったのはエルモンドではなく、フィリエの側なのだ。
 エルモンドがフィリエの価値を王女であることにしか見出さないのは、彼が自身の価値を王太子であることでしかはからないからだ。人が人を好きになることに理由や意味を求めることは間違いだけれど、少なくとも、ラドルフがフィリエを必要としてくれたのは、彼女が王女だからではない。王女ではない、ただほんの少し剣を扱うことができるだけの娘を求めてくれたから、だから今のフィリエは兄のことを哀れに思う。どんな形でもいい。フィリエにとってのラドルフに等しい存在に、彼はめぐり合ったことがないのだろうか。
 開け放った窓の下、鉄格子の隙間に鮮やかな赤が見え隠れしている。フィリエの護衛役としてエルモンドに雇われたカイジャンが、他の人間達と警備の打ち合わせをしているらしい。
 不意に、顔を上げたカイジャンと目があった。
 ――ラドルフのところに帰りたい?帰らせてあげてもいいよ。君に覚悟があるのなら。
 昨夜、フィリエの部屋に忍んで来た男はそう言って、人懐こい目に底光りする光を浮かべて見せた。
 ――おれはラドルフじゃないから、君の心情を思いやるつもりはない。正直に言うなら、邪魔なんだ。今、シルヴィアの王女にロルカ王に嫁がれると、おれはおれの目的を果たせない。
 カイジャンの言う『目的』が何を意味しているかはわからないが、彼が言う『覚悟』の意味ならばフィリエにもわかる。
 今再び、王女としての職務と責務を放置して逃げ出せば、今度こそ兄はフィリエを許さないだろう。この先、子供が生まれても、父や兄に会わせることはできない。ラドルフに万が一のことがあって一人きりになったとしても、国に帰ることはかなわない。
 青く晴れ渡った空をカモメの群れが飛び去って行く。水平線の向こうには陽炎が立ち昇り、大海原に漕ぎ出す船が発する汽笛の音が、フィリエが今ある場所にまで響いてくる。
 籠の鳥が大空に憧れることはあるだろう。だが、大空を舞う鳥が、籠の庇護に焦がれることなどあるだろうか。
 窓を塞ぐ鉄格子は、太陽の熱を帯びて燃えるように熱い。掌を焼く熱をきつく握り締め、フィリエは小さく頷いた。
 わざわざ問われるまでもない。
 ――覚悟など、とうにできている。






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