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月の宝珠
第二章 囚われの姫君〜


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 青く澄んだ空を、カモメの群れが飛び交っている。海は降り注ぐ陽射しを受けて燦々と輝き、水平線の彼方に浮かぶ入道雲が夏の訪れを告げている。
 市では冷たい飲み物や氷菓が売られ、旅人や町人が日陰で汗を拭う姿も、珍しくはなくなった。
 周囲を堀で囲まれた屋敷の一角で、フィリエは借り物の剣を振るっていた。
 自分の剣は捕らわれた時に奪われてしまったので、今手にしているのは、刃を潰した練習用の模造剣だ。腕を鈍らせない為に、本来なら誰かと手合わせ願いたいところだが、一週間近く交渉して、許されたのはこれが限度だった。
 大きく息を吸いながら、一人稽古用の型を取る。振り上げた剣先が空を切り、脚が地面を踏み締める。目には見えない相手の切っ先を刃で弾く。弾いた衝撃を受け流し、素早く繰り出した一撃で、仮想の敵は姿を消した。
 肩で息をして額を袖で拭った時、背後で地面を踏み締める音がした。この捕らわれの生活の中で、フィリエが屋敷の外に出るのは3日に1度だけ、それも必ず、剣を持った兵士の護衛がつく。護衛といったところで、この屋敷の敷地内に危険などあろうはずもない。護衛ではなく監視――模造とは言え剣を持ったフィリエが逃げ出さないように見張る為の人員だ。
 案の定、現れた若い兵士は腰に剣を下げていた。模造剣などとは違う、正真正銘の実践用の剣だ。
 ――あの剣さえ、奪うことができたなら。
 最初うちは正面突破を試みてことごとく失敗し、下働きの侍女に成りすます案も、数日前に呆気なく露呈した。
 ここ最近は大人しくしていた所為か、今ここにいる兵は一人しかいない。よし……と胸の内で拳を握り締め、唐突にその場に膝を突く。「痛い、痛い」と大げさに呻いてみせると、若い兵士の顔色が変わった。
「おい!どうした?!」
 我ながら、猿芝居にも程があると思ったのだが、若い兵士はあっさりとフィリエの演技に引っかかった。自分が監視を任されている相手に万が一の事があれば、叱責は免れない。その意識が一瞬、完全に自身の剣から離れる。彼とて先ほどまでのフィリエの鍛錬を見ていただろうに――甘すぎる。
 近づいてきた相手の剣の柄を握り締め、そのまま勢い良く引き抜く。使い込まれた真剣の感触は、女の腕にはやや重いが、それでもフィリエの掌にはとてもよく馴染んだ。
 剣を奪われ、地面に倒れこんだ男の鳩尾に柄を突きこんだ時、屋敷の影から衛兵達がわらわらと駆け出してくる。
 兄に雇われている人間に恨みはないが、倒さなければ外に出られないのなら、何が何でも倒してみせる。フィリエを若い娘と思い、油断した数人の足の腱を断ち、さらに数人と打ち合った瞬間――
「まったく、物騒なお姫様もいたもんだなぁ。しかし、この小娘――いや、お嬢様に護衛なんかいるんですかね?」
 どこか間の抜けた声と共に現れた人物の姿に、思わず剣を取り落としそうになった。巨漢と呼んで差し支えない立派な体躯に人好きのする微笑、燃えるような深紅の髪を結わえた男の姿は、彼女にとって馴染みのものだ。
 ――どうして、彼がここに。
「余計なことは詮索するな。お前の役割はただ、この娘を留め置くことだけだ」
 カイジャンの背後から現れたエルモンドは、露骨に渋い顔をしていた。昔から、兄はフィリエが剣を振り回すことを快く思っていなかった。幼い妹を剣術場に連れて行き、たった数年で、あっけなく追い抜かれたのだから無理もないだろう。
「ええ、まあ、こっちも仕事なんでね。言われたことは果たしますよ」
 エルモンドの言葉に、赤毛の男の目が光る。いきなり三日月の刀を抜いて切りかかってきたカイジャンの一撃を、フィリエは剣の切っ先で応酬した。斬撃の衝撃で髪の一筋がそぎとられ、周囲に栗色の髪が舞い散る。
 次いで頬の近くを掠めた白刃に、カイジャンの本気の度合いを悟る。何を思って兄と共に登場して――フィリエ相手に刀を抜いたか知れないが、彼は今、こちらを傷つけることに何ら躊躇いを持ってはいないということだけはわかる。
 ――ならば、戦うまでだ。
 男の力、実戦経験。どこを取っても敵うはずのない相手だが、純粋に技術だけならほぼ互角だろう。誰かと手合わせしたいは思ったが、実力の拮抗した相手と真剣で打ち合いたいと思ったわけでは断じてない。技術が互角ならば、女の腕で、男を倒すことなど不可能に近い。躊躇っていれば確実にやられる――
 この一撃を防がなければ、死ぬ。感覚が認識をそぎ落とし、ただ今を生き延びること以外何も考えられなくなる。二人の気迫に押されたように、エルモンドが半歩、その場を後ずさった。もしかしたら、カイジャンの狙いはこれかと――万が一にも彼が彼女の知己であると知られない為の芝居を打ったのかと気づいたのは、刀の峰に右手を打たれ、剣を取り落とした後のことだった。
 剣を取ろうと伸ばした腕を、逆手に掴んで捻られる。自由になる脚を振り上げ、相手の向う脛を蹴り上げようとした瞬間、固められた男の拳が、フィリエの鳩尾に入った――ように見えたことだろう。実際には寸前で拳を止めたカイジャンは、フィリエの耳元にそっと口を寄せていた。
「夜、君の部屋に行くからさ」
「……」
「寝ないでまっていてよ、フィリエちゃん」
 軽薄な軟派男のそのものの台詞を、どう捕えたものかわからず、フィリエは、気絶した振りをすることにした。
 


 言葉通り、深夜になって、カイジャンはフィリエの部屋に忍んできた。鉄格子の向こうに浮かぶ月はもうほとんど満月と変わりなく、灯火がなくとも、足元には困らない。もっとも、夜陰に紛れて行動するには明るすぎてふさわしくないかもしれないが。
 フィリエが監禁されているのは尖塔の最上階の二間で、部屋の内側から鍵は開かない。あっさりとその鍵を開いて入って来た男は悪ぶれもせず、手の中の鍵を月明かりに照らして見せた。
「いやぁ、助かったよ、君の兄上が俺と君の関係を知らなくて」
 ラドルフとカイジャンは共に死線を潜った傭兵仲間、その繋がりで、彼はシルヴィアの王宮にフィリエを訪ねてきたことがある。しかしエルモンドがカイジャンを雇ったところを見ると、そこまで深くは素性を探らなかったらしい。
「その鍵、どうしたんですか?」
「最近、君の世話をしに来ている侍女頭がいるだろう?――彼女と、ちょっとね」
 寝台脇の椅子にどすんと腰を下ろし、悪戯げに笑う赤毛の男に、開いた口が塞がらない。一度、フィリエが若い侍女の服を取り替えてなりすまそうとした所為で、最近この部屋に来るのは、四十過ぎの痩せぎすで、目つきの鋭い女だけとなっていた。その女と、一体、何をどうしたというのだろう。――ラドルフから話は聞いていたが、「蜜蜂」の底力は本物らしい。
 もっとも、屋敷の周囲は夜番の衛兵で警護され、カイジャン一人の力で、フィリエを逃すことは不可能だという。もっとも、フィリエとてさすがにそこまでは期待していない。危険を冒してまで、こうして会いに来てくれただけで、どれだけ感謝しても足りないことくらいわかっている。――が。
 ……怖い。
 こうしてカイジャンが部屋に忍んで来てくれたというのに、フィリエはどうしても肝心なことが聞き出せないでいた。エルモンドの口からいくら聞いたところで、信じずにいられた。だが今もしカイジャンの口から聞かされてしまえば、それは真実になる。
 ――ラドルフは今、どこでどうしているのか。
「フィリエちゃん?」
「あ、あの……」
「え……と、もしかして、警戒した?いや、さすがに君に手は出さないから安心してよ。――そんなことをしたら、俺がラドルフに殺される」
 声をひそめて紡がれた最後の台詞に、思わずまじまじと男を見る。深夜の他には誰もいない室内に、男女が二人きりで向き合っている。傍から見れば密通を疑われて不思議はないが、既に死んでいる人間が誰かを殺すことは、どうあったってありえない。
「――生きてるぜ」
「カイジャンさん?」
「ラドルフは生きてる。君の一番の気がかりはそこだろう?」
 落ち方が良かったのか、はたまた単なる偶然か、落下の衝撃で傷は負ったが命は落とさなかった。それに加え、満月の夜であったことも幸いした。満月の夜ごとに苦痛が再現されるラドルフの呪いは、考え方を変えれば、満月の夜に負った傷の回復力が尋常でなく高いということでもある。
「まあ、正直、最初に見つけた時は、俺もこれは駄目かと思ったけどね。……とりあえず、安心していいよ。ラドルフは生きている」
 まったく、どこまでも悪運の強い男だ。苦笑とともに吐き出された言葉が途中で途切れるまで、フィリエは自分が泣いていることに気づかなかった。嗚咽が漏れないよう口を塞いだ手の甲を伝って、涙の滴が後から後から、絨毯の中に染みこんで行く。
「……神様」
 月が満ちる夜ごと、ラドルフを苛む運命を呪ったことはあっても、まさか感謝する日が来るなどとは思ってもみなかった。だけど今、彼を生かしてくれたものが何であれ、感謝せずにはいられない。ラドルフは生きている。生きてさえいれば、必ずまた会える。
 しばし無言でフィリエを泣き続けるフィリエを見つめた後、カイジャンはゆっくりと口を開いた。軽薄な軟派男の趣が消え、声音に真摯な色が混ざる。
「ラドルフのところに帰りたい?」
「ええ、それはもちろん――」
「命は助かったけど、今はまだ動けるような状態にないからな。あいつは今、おれ達のアジトで匿っている。帰らせてあげてもいいよ。――君に覚悟があるのなら」
「カイジャンさん?」
 見知った男の言葉に、不穏な気配を感じて思わずまじまじとその顔を見る。
 フィリエは一時期、カイジャンと二人で旅をしたことがある。マゼンダの街で拘束されたラドルフの後を追って、ローデシア選王国に向かった時のことだ。いつも朗らかで鷹揚で面倒見が良くて、一定の距離は置きながら、いつだって、旅慣れないフィリエを気遣ってくれた。しかし今、フィリエと向かい合ったカイジャンの表情は、これまでに彼が見せてきたどんな顔とも違った。
「君は兄上が君を今後どうするつもりでいるか、知っている?」
 帰るところはシルヴィアのみだと言いながら、監禁するだけでシルヴィアに連れ帰る気配はない。正直に言うなら、未だにフィリエには兄の意図が読めずにいる。
 大体、いくら諸国漫遊がシルヴィア王家の伝統とはいえ、フィリエとは違い、正当な王位継承者であるエルモンドがそう長々と国を空けていてよいはすもない。いい加減、国に帰らなくてもいいのだろうか。いっそシルヴィアに連れ帰ってくれたなら、直接父に直談判もできるのに。
 そんなフィリエの思考を読んだかのように、カイジャンが口を開く。
「君の兄上には、君をシルヴィアに連れ帰るつもりはない。俺たちが雇われたのは、君をこの国の――ロルカの王宮に護送する為だ」
「カイジャンさん、それって……まさか」
 遠ざかって久しいけれど、フィリエも王宮で育った人間だ。王女として身内として、兄の考えそうなことはわかる。
「そう、君の兄上は一度流れた縁談をやり直すつもりなんだ。シルヴィア王女を再び、ロルカ王に嫁がせる気でいる」





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