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月の宝珠
第二章 囚われの姫君〜


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 目を開けると、薄汚れた天井が見えた。
 薄い壁は風に軋み、壁と壁の隙間から外の風が直接吹き込んでくる。床は土間の上に板を渡しただけの簡素なもので、寝台の塗装はあちこちが剥げ落ちていた。
 凛都から大陸横断船が出港する光州半島に向かう途中に立ち寄った街で、たまたま上宿が満室で泊まれなかった。かろうじて空いていたのは一般庶民のうちでも最も貧しい労働者が泊まるような簡易な宿――これでも、床に直接雑魚寝するような宿屋よりははるかにましらしい。
 こんな宿しか取ることができなかったことを、ラドルフは心苦しいような顔をしていたが、フィリエにとって、隙間風が吹き込む部屋も固くて狭い寝台も決して苦痛ではない。さすがにそれが毎日だと嫌になるかもしれないが、たまに泊まるくらいなら否やはない。普段は恥ずかしくてできないことを――自分から彼の寝床にもぐりこむなんてことを、正々堂々行なう為のよい言い訳になるから。
「……よかった」
 フィリエのすぐ目の前で、ラドルフは静かな寝息を立てている。その吐息を感じているうちに、先ほどまでの悪夢の残滓が消えて行く。とても嫌な夢を見た。故郷の兄と再会して、結婚が無効だと言われ――彼が目の前から突然消えてしまった、とんでもない悪夢。
 薄っぺらの夜具から手を伸ばし、熟睡しているラドルフの頬や顎に触れてみる。そのまま指を滑らせて首筋を辿ると、薄皮一枚隔てた向こうに、規則正しく脈打つ箇所がある。人の肉体の急所の一つ――血潮の集まる箇所を切り裂かれて、助かる人間はまずいない。
 さすがに不穏な気配を感じたのか、わずかに眉を寄せて息を吐き出しながら、それでもラドルフは目を覚まさない。多分、フィリエが今、短剣を取り出してこの箇所を切り裂いたとしても、切り裂かれるその瞬間まで、彼は何も気づかないだろう。命の源を無防備に相手にさらして眠りに着くことのできる――全幅の信頼。
 決して人には懐かぬ猛獣を飼いならしたかのような奇妙な満足感に浸りながら、眠り続ける男の胸に頬を押し当てた時、身体に馴染んだ感覚が唐突に消えた。いつだって、フィリエを守ってくれていた腕が消え落ち、狭くて固い寝台の上にたった一人で取り残される。
「ラドルフさん……?」
 咄嗟に身体を起こしたフィリエの目の前で、大切な人の影が消えて行く。生ぬるい風が吹き荒れて、目の前に黒い羽が無数に飛び交う。必死で腕を伸ばして指を掻いても、黒い羽が邪魔をして、ラドルフには届かない。
 この人はわたしのものだ。同じ夜を過ごすようになって以来、時折、祈るようにそう思った。この人はわたしのもので――わたしはこの人のものだ。決して離れたりはしないし、何者にも引き離されたりしない。
 だけど今、フィリエの伸ばした指先はラドルフにとどかない。何もできないまま、目の前で彼の姿が揺らいで、広い肩が、大好きな手が、何もない真っ暗な暗闇に呑み込まれて行く――



「……!」
 目を開けても、そこにはまだ夢の続きが広がっていた。
 広々と豪奢な寝台。敷布は細かな刺繍で彩られ、身につけている夜着から肌着にいたるまで、すべてが絹だ。
 フィリエが生まれ育った世界では、すべてがそれで当たり前だった。しかし、今のフィリエにはあの世界の常識がわからない。身を飾る必要のあるドレスならともかく、夜着や肌着など木綿が一番着心地がよいに決まっている。
「――お目覚めですか」
 目を開けても動き出す気になれず、寝台に横たわったままのフィリエに、無機質な声が降りかかる。朝食の盆を持った若い女が、部屋に入ってきたところだった。白くてふわふわのパンと、丹念に灰汁抜きをして、黄金色に輝く澄んだスープ。柑橘系の果物はあらかじめ食べやすいように小さく切ってある。
 噛めば噛むほど味が出る、胚芽入りのパンが食べたい。シルヴィアの王宮で暮らしていた頃、王宮の料理長にそう頼んだ時、とんでもないと目を剥いて叱られた。そんな貧民の食べるものなど、卑しくも王宮の料理人が作れるかと言いたかったらしい。
「朝食をお持ちしました」
 そう言って近づいてきた女の年恰好は、フィリエとほぼ等しかった。さほど小柄でなければ大柄でもなく、太ってもなければ痩せこけてもいない女など大勢いそうなものだが、あまりにも年齢が違うとさすがに雰囲気でばれるだろう。しばらく息を殺して時を稼ぎ、女が寝台脇の小卓に盆を置いたと同時に、素早く起き上がって片腕をその首に巻きつける。
 下働きの娘に武芸の心得などあるはずもない。驚いて振り返った後ろ首に手刀を落とすと、娘は呆気なく意識を失って崩れ落ちた。ごめんなさい……無体の侘びを心の中で呟きながら、衣服を剥ぎ取って、手早く着替える。動きやすい下働き用の衣服に身を包んで、意気揚々と部屋から出て行こうとした瞬間――
「――何をやっている。フィリエ」
 扉の外に、兄が――エルモンド・シルヴィアが立っていた。



 ラドルフと引き離された満月の夜より半月あまり、フィリエはエルモンドの手によって、完全に拘束されていた。与えられた部屋は最上階の2間のみ、そこから出る時は常に監視がつく。逃げ出そうにも窓には鉄格子、剣も武器になりそうなものも一切取り上げられては、さすがに身動きが取れない。
 よって、考え付く最善の方法――下働きの人間に成りすまして屋敷を抜け出す手を考え出したわけだが、それもエルモンドの出現によって水泡に帰した。これでこの先、フィリエの元に年恰好の似た女がやってくることはないだろうから、また別な手段を考えなければならない。
「――まったく、お前という娘は!お前の行動が元で、あの侍女が罰せられるとは考えないのか!?王女としての自覚と責任がなさ過ぎる。まったく、父上と母上がお前を甘やかしすぎたのだ」
 フィリエの父と母は王族には珍しい恋愛結婚で、祖父母にはいたく反対されたと聞いている。それ故に、母は兄を手もとで育てられてなかった。自分が祖父母の元で育てられたので、エルモンドはフィリエを説教するとき、よくこういう言い方をする。
 実際問題として、フィリエ相手に不覚を取ったくらいで、あの哀れな侍女が罰されることも仕事を失うこともないだろう。それくらいはわかっていて行動を起こしたフィリエではあるが、兄の説教は延々と終わらない。行儀よく椅子に腰掛け、浴びせられる説教をひたすら聞き流していたフィリエは、恒例となった説教の結びの一句によってきつく唇をかみ締めた。
「――あの男は死んだ。もう忘れるんだ」
 兄の言葉に、即座にあの日の光景が思い起こされる。生ぬるい風の吹く夕暮れ時。崩れた建物と一緒に、ラドルフはフィリエの前から姿を消した。
 屋敷の周囲には敵襲に備えた堀が巡らされており、あの後、我に返って下を覗き込んだフィリエの目には映ったのは薄暗い水面だけだった。下が水面ということは、地面に落ちるよりは多少はましかもしれないが――しかし、あの高さから落ちれば通常、水面は鋼鉄と同じ固さになって肉体を打ち砕くはずだ。
 だからあの日以来、エルモンドは毎日のようにフィリエに言って聞かせる。あの男は死んだのだと、まるで呪いのように。
 武器になりそうなもの――剣は勿論、鋏も針も、髪飾りでさえ一切を取り上げたのも、そんなものを持たせるとフィリエが何をやらかすかわらかないから、という理由ともう一つ、自害を警戒してのことらしい。
 ――そんなことなんて、しない。
 太ももの上で拳をつくり、きつく握り締める。
 そんなにもエルモンドがフィリエにラドルフの死を信じさせたいのなら、彼の遺体を目の前に連れてくればいい。冷たく、物言わず、彼女を抱きしめてくれることもない屍を目の当たりすれば、フィリエの希望など簡単に打ち砕かれる。
 しかし今に至るまで、エルモンドがフィリエに口でラドルフの死を告げるだけで、実際の行動に移さないのは、そうできないだけの事情があるからだ。どういうわけかはわからないが、あの後、屋上から駆け出して行った多くの衛兵達は、ラドルフを見つけられなかったのだ。敵襲を防ぐため、相応の深さがある堀の底に沈んでいる――という可能性もなくはないが、それだって本気で底をさらったら、もう見つかっていても不思議はないはずだ。
 ――すぐ戻る。待っていてくれ。
 あの日の朝、ラドルフはフィリエの目を見てそう言った。
 わざわざ口に出して確かめずにいられないのは、心の底で、そうあることを信じていないからだ。
 本当はずっと気がついていた。どれほど互いの距離が縮まっても、ラドルフは心の底からは、フィリエの気持ちを信じていない。何があってもフィリエのところに帰ろうとすると誓ってくれたのに、フィリエの帰る場所がラドルフの側だとは今でも信じていない。
 認めるにはあまりに悲しい真実、だけど、いくら言葉を尽くしたところで伝わらないのなら、後はもう時間を重ねて行くしかないと思っていた。同じものを見て同じものを食べて、時に意見が合わずに喧嘩をして、それでも仲直りをして一緒にいる。積み重ねた月日の果てにいつか、彼に信じてもらえる日が来るかもしれない。――形なんてどうでもいい。あの日、神様の前で、死が二人を分かつまでと誓った、その誓いこそがフィリエにとっての真実だ。
だからこそ、生きてラドルフと再会するまで、体調を崩すことも、倒れてしまうこともできない。必ず悪夢を見ると知っていても夜は寝台に身を横たえ、ただ柔らかいだけの味のしないパンでも無理やり呑み下して、少しでも機会があれば、この場所を抜け出すよう試みる。
 ――それが、今のフィリエにできるすべてだった。





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