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月の宝珠
第一章 再会〜


扉へ/とっぷ/戻る



 ラドルフにかけられたあらぬ疑いはその日のうちに、金銭と、この街に暮らす馴染みの人間――身元引受人となってくれたカイジャンの存在によって晴らされた。昔のことといい、あの男には返せぬ借りばかりがたまっていくような気がしないではないが、ありがたいことこの上ない。
 夕暮れも間近になって、宿屋に帰り着いたラドルフを待っていたのは、誰もいない部屋だった。
 ここ数日のねぐらである宿の一室の中には、二人分の荷と椅子の背もたれにかけられたままの上着――今日の朝、彼を起こす時にフィリエが開け放ったままの窓の向こうで、カラスの群れが飛び交っている。
「フィリエ……?」
 がらんとした空虚な空間で、ラドルフはしばし呆然とする。
 日が暮れた後は一人で出歩くなとか、真っ昼間であってもうかつに小路に足を踏み入れるなとか、親切そうな男ほど下心があるとか、王宮育ちで世間の常識を知らない彼女に対して、色々口うるさいことを言ったような気がしないでもないが、彼女の行動を束縛した覚えはない。いつだって、フィリエは一人でどこにでも行けるし、それを止めるつもりも咎めるつもりもラドルフにはなかった。
 ――すぐに戻る。待っていてくれ
 それでも心のどこかで信じていた。彼が戻りさえすれば、当然のように出迎えてくれるものと。心惹かれてやまない笑顔と弾んだ声が再び聞けるものだと、信じ切って疑ってもいなかった。
 この空虚さは、ラドルフが本来、ずっと抱えていなければならなかったものだ。事実、彼女と出会うまではずっとそうしてやって来たのだ。この広い世界でどこまでも一人――誰にも待たれることのない自分。
 しばし呆然として、それからようやくほんの少し我に帰る。部屋は荒れていない。荷物は残っているから、ここに戻ってくるつもりで自分の足で出て行ったのだろうが、もうすぐ日も暮れようという時刻まで、一体どこに行ったというのか。
「あんた、こんなところで何をやってるんだ!」
 唐突に背後から背中を叩かれて、咄嗟に剣の柄に手をかける。ほんのわずかの時間とはいえ、他人にこれほど近づかれて気がつかないほど呆けていたとは。戦場ならとっくに命を落としている。
 彼の背を平手で打った当の相手は、そんなラドルフの反応にも気づかないようで、何やら早口でまくしたてている。50代前半の恰幅のよい女は、この宿の女主人である。
 だがその次の瞬間には、別の意味で思考が飛んでしまう。いつかはこんな日が来るかもしれないと思っていた。だがまさか、それが今起こるとは思ってもいなかった。
「だから、そんなところでぼうっとしてる場合じゃないって言ってるだろ!あの娘の家の者が、あの娘を連れ戻しに来たんだよ!街の中心の尖塔のある屋敷だ!早く行きな!!」
 まくしたてる言葉を最後まで聞かず、ラドルフは駆け出していた。



 お忍び旅行中の王太子は、ウェルガの町の中心部の尖塔のある屋敷に滞在していた。お忍びとはいえ、さすがに街長や一部の人間には身分を伝えているらしい。部屋の扉は衛兵によって警護され、ゆったりと長椅子の上で足を組んだエルモンドの姿は、まるでこの屋敷の主人のように見える。
「いつお前がこちらに帰ってくるか知れないからな。シルヴィア国内のありとあらゆる港は、手の者に見晴らせておいた」
 だから数日前、フィリエが西大陸から戻ってきたことはすぐにわかった。その後またすぐに発たれて、一度行く先を見失ったものの、ウェルガの街で幻獣を倒したのが顔の焼け爛れた男であると知って、宿を訪ねてみたのだという。
 言うだけならばあっさりとした内容だが、フィリエが西大陸に旅立ったのは昨年のこと、シルヴィア国内には港はいくつもある。いつ到着するとも知れない相手の為に、そのすべての港を延々見張らせるなど、執念深いにも程がある。
「――そんなだから、義姉様達に逃げられるのよ」
 18で迎えた最初の妻を離縁した後、エルモンドは結婚と離婚を繰り返し、今はフィリエとさほど年齢の変わらぬ義姉を妻としている。表向きは跡継ぎを得るためのエルモンド側からの離婚、しかしその実情が本当はまったく違うということを、フィリエはよく知っている。
 久し振りに再会した妹の身も蓋もない発言に、妻達に逃げられた男は軽く頬を引きつらせる。わかっていてやったのだ。この話題が兄にとってもっとも痛いところであることを承知でそこに触れた。
「とにかく、元気そうで安心したわ。父様に伝えて……フィリエは元気にやっていますと」
 ラドルフとの劇的な再会からその後の逃避行は、フィリエにとっては望みどおりでも、父や兄にとっての望みと異なることは承知していた。自分がいなくなった後、彼らはどうしているだろう。望んで得た幸せの狭間で、時折、ふと我に帰るように思うことがあった。
 だけど今日で、その思いも昇華した。例えフィリエがいなくとも、父も兄も生きて行ける。フィリエが共にこの先を生きるのは、彼らではない。
「もう日が暮れるから。……帰らないと」
 ――すぐ戻る。待っていてくれ。
 あんな形での拘束がどれほど続くものなのかはわからないけれど、だからこそ、ラドルフが戻ってくる時にはそこにいたい。それなりに長くなった付き合いの中で、フィリエも既に気がついている。ラドルフはフィリエに対し、隠し事はしても嘘はつかない。その彼がすぐに戻ると言ったのは、それなりの目算があってのことだ。
 父と兄の近状を聞いて、王宮で親しくしていた侍女達の今を聞きだしているうちに、どうやら時間を忘れていたらしい。気づけば遠くの水平線が茜色に染まり、夕闇が着々と近づきはじめていた。いくら腕に自信があっても、日暮れ後の女の一人歩きには危険が伴う。万が一大の男に複数でかかってこられたら、殺さずに切り抜けることは難しい。
 立ち上がって暇を告げるフィリエを、エルモンドはまるで不思議なもののように見た。
「――帰る?」
「兄様?」
「お前の帰るところはシルヴィアだろう。――他にはない」
 それはどういうこと……とフィリエが問うより先に、先ほど通ってきた扉が、蝶番が軋む音ともに閉ざされた。



 夕闇に支配されはじめた街で、カラスが無数に行き交っている。日中はカモメの飛び交う港町なのに、鳥の世界にも縄張りがあるのか、夕暮れ時になるとカラスばかりが多くなる。海辺からそよぐ生温い風と共に飛び交う黒い羽は、あたかもこれから起こる不吉の前兆のようだ。
 扉が閉ざされたのは、客人に迎えが――衛士から解放されたラドルフがフィリエを迎えに来た為だった。兄にきつく腕をつかまれたまま、屋敷の屋上へと上がったフィリエは、いつも通り腰に剣を佩き、フードと風よけ布で口元を覆ったラドルフと、兄との対面を目の当たりにしていた。
「久し振りだな。その切は世話になった。ラドルフ・インバート」
「兄妹の再会ならば、もう充分に果たしただろう。妻を離してもらおうか。――義兄(あに)上」
 義兄呼ばわりに眼を剥いたエルモンドには目もくれず、ラドルフの目は一直線にフィリエだけを見ていた。漆黒の瞳に力強い光が宿る。フィリエの何もかもを捕えて離さない強い視線。だが今その視線の奥底に、焦りにも似たものが感じられる。
「……妻だと?ふざけるな!」
 ラドルフの言葉に、フィリエの二の腕を掴んだエルモンドが激昂した。
「妹はシルヴィアの王女だ!誰が貴様なんぞにくれてやった!!」
「兄様、ラドルフさんはわたしの夫よ!」
 東大陸の婚姻証明書は、聖職者が発行する。フィリエとラドルフの証明書はイリウスの街で司祭が発行した正式のものだ。誰が何と言おうとフィリエはラドルフの妻であり、ラドルフはフィリエの夫だ。
 フィリエの訴えに対し、しかし、エルモンドは薄く微笑んだ。
「婚姻証明書?ああ、あのイリウスのもぐり司祭のものか。あんなものが何の証明になる。お前達のどちらかが改宗していない限り――あの婚姻証明書は無効だ」
 屋上の片隅の尖塔から、一羽のカラスが飛び立った。
 ローデシア生まれのラドルフは恐らく、生まれた時に旧教の洗礼を受けていることだろう。一方、シルヴィアの王族であるフィリエは新教だ。最近では宗派の違いで争うことは少なくなったけれど、どちらかの宗派が違う場合、通常、一方が改宗しなければ婚姻はできない。
 エルモンドの言葉はフィリエにとっても衝撃だったが、それ以上に、衝撃を受けた人間は別にいた。港町の潮風が直接吹き付ける空間で、ラドルフの目が愕然と見開かれる。――心底、意外なことを聞いたと言わんばかりに。
 東大陸の一神教は生活に人々の生活に密着しているが、密着しているからこそ日々の生活ではあえて意識することが少ない。長い間、生国を離れて暮らしていたラドルフが婚姻にまつわる宗派の問題を、忘れてしまっていたとしても不思議はない。本当に重要なのは、彼が本心からフィリエを妻にと望んでくれたことのはずだ。
「わかっただろう、フィリエ。お前はこの男に騙されていたんだ。――お前が世間知らずなのをいいことに、騙して、かどわかした」
 尖塔の扉が開かれると同時に、衛兵達が飛び出して来た。衛兵が繰り出す槍の攻撃を、ラドルフは身を捩るだけで難なく避けた。すらりと引き抜かれた抜き身の剣が薄闇の中で光る。剣を抜いたラドルフの前に、衛兵ごときの槍など届くはずもない。瞬く間に数人が倒され、衛兵達の腰が竦む。
 ほんのわずか、だが確かに拘束が緩んだ隙に、フィリエは兄の手を抜けだして、ラドルフの助勢に駆け出そうとした。いつもの彼ならば、こんな程度の相手に遅れを取ったりはしない。だけど、今日だけは特別だ。だって、今日は――
 駆け出そうとして踏み出した、その足が途中で止まった。
「これでもまだはむかうか」
 ひやりと冷えたものが、フィリエの喉仏に押しあてられる。エルモンドが抜いた短刀が、フィリエの首筋を伝って、鎖骨のちょうど真上辺りで止まったからだ。
「兄……様?」
「剣を下ろせ。――この娘を傷つけたくないならな」
 つい先ほど、ラドルフを罪人扱いしていたとも思えない、悪人そのものの台詞を吐き捨てる兄を、フィリエは思い切り睨みつける。こんなことくらいで、他人を思う通りに動かせると思っているのなら、人を馬鹿にするにも程がある。
「兄様、ふざけるのもいい加減にして!」
 兄が自分を傷つけるわけがない、などと言う気はない。よくも悪くも、フィリエはエルモンドを信頼している。彼は彼の王国の為に益にならない人間ならば妻であっても簡単に切り捨てるし、それが利用できると思えば、骨の髄まで利用しつくす。そしてフィリエは兄にとって常に後者だ。
 叫んだ拍子に身体が動いて、薄皮一枚切られた首筋から、血の筋が滴り落ちた。こんなものはかすり傷だ。だが今、ラドルフの側の天秤にはこんな程度のかすり傷とは比べ物にならない大きなものが乗せられている。
 剣を振るうラドルフの動きが刹那、途切れる。捕らわれのフィリエから流れ落ちる血の筋を見つめる男の眼差しが、明かに揺らいでいる。
 瞬きするよりも短い時間、だがフィリエの目は確かに捕えていた。鍛え上げられた逞しい腕から力が抜けて――剣の切っ先が床に向かう瞬間を。
「ラドルフさん!駄目!」
 発する声音はもはや、悲鳴に近い。
 剣を鞘に収めたラドルフに向かい、衛兵の一人が槍を突き出す。百戦錬磨の剣士は難なくそれを避けたものの、その次の瞬間には、別の槍が男の頬を掠めて、血飛沫が舞う。明らかに不利な形勢のまま、屋上の間際に追い詰められたラドルフの足元で、石の床が不気味な軋みを上げた。
 彼らが今ある場所は、ウェルガで最も高い尖塔のある屋敷である。正確な築年数はわからないが、見た目から推測して、そう新しい建物ではない。わずかばかりの手摺の向こう、果てしなく広がる何もない空間に向かって、崩れた石礫がばらばらと散って行く。
「……!」
 捕らわれたままのフィリエには、咄嗟には何が起こったのかわからなかった。悲鳴も言葉も、風を切る音さえも聞こえない。ただ瞳だけが乾いたまま、つい先ほどまでラドルフがいたはずの空間を――今は誰もいなくなった空間だけを映し続けている。
 求めたのは、今日と同じように続いていく明日。――ただそれだけだった。
 いつしか夕焼け空は彼方に退き、西の空から光り輝く月が昇り始めていた。すべての闇を飲み込み白々と輝く宝珠のような満月――呪いの夜のはじまりを告げる月。
 こうして、フィリエの長い悪夢がはじまった。




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