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月の宝珠
第一章 再会〜


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 できるだけ騒ぎは起こしたくなかったのに、思い切り騒ぎに巻き込まれてしまった翌日、ラドルフとフィリエは朝食の席にいた。
 結局、かすり傷を負ったラドルフ以外に怪我人もなく、衛士が駆けて来る前には何とか退却することもできた。だがあれだけの人ごみの中での戦いだ。顔の半分が焼け爛れた男と幻獣の取り合わせは、人の記憶に大いに残ったに違いない。
「エリトリア側の国境の街――ヴェルシウスには、カイジャンさんの知り合いがいるそうです。その方に話を通せば、宿は何とかなるという話でした」
「ヴェルシウスには俺も少しは土地勘がある。まずは、どこかに家を借りよう。――ああ、仕事も何とかしないとな」
 西大陸で国家間の戦争に係わった報酬で、現在の彼らの懐には相応の金銭がある。最も金というものは働かずに使えば減って行くだけなので、できるだけ早くにこの街を出て、その先は少し腰を落ち着けた方がよさそうだと、昨夜も二人で話し合ったばかりだ。
 ハムとトマトの浮いた塩味のスープを木匙で掬いながら、ラドルフは窓の外の空を見る。
 晴れ渡った空にカモメが飛び交っている。取り立てて栄えてもいなければ寂れてもいない、交易と漁業で成り立っている典型的な港町だ。人々は日々勤勉に働き――時代の移り変わりもこの街にまでは届いていない。
 しばらく無言で匙を口に運んで、向かい合った相手の皿の中身がちっとも減っていないことに気がつく。胚芽の入ったパンを手に持ったまま、フィリエは鳶色の目を見開いていた。
「おい、どうした?」
「あ、いえ、……何だかいい響きですね。『家』って」
 そう言って、柔らかく微笑む顔は、昼も夜も行動を共にするようになったこの数ヶ月間で彼女がよく浮かべるようになったものだ。剣を取って戦う時の凛とした姿も、拳を固めて語り出す時の輝く瞳も嫌いではないが、この微笑を手に入れただけで、多くの危険を冒して彼女の手を取った価値があったと思う。
「……ああ、そうだな」
 ラドルフ自身、故郷を逃げ出した後はずっと旅ガラスの生活で、一所に落ち着つくことがなかった。西大陸に渡っていた時は、まるまる一冬、景国の王宮に滞在していたが、それだって滞在であって、家ではない。
「街中の集合住宅の方が生活は便利だろうが……、海辺には貸家の並ぶ区画がある。家賃はあまり変わらないはずだ」
 別にどちらであっても構わない。ほのかな灯火と、質素で暖かな食事が待つ部屋の中を想像してみると、想像しただけで、寄る辺を見つけたような心持ちになる。
 父とも兄とも慕った相手を手にかけ、血を分けた両親には拒絶された自分が――家というものをこんな風に感じる日がやってくるとは、少し前までは考えても見なかった。
「――この宿に、顔が焼け爛れた男が泊まっているな」
 妙にしみじみとした心境でスープをすすっていると、不意に入り口付近から、声高な声が響いた。そうそうあちこちに顔が焼け爛れた男が何人もいるはずがない。それはまさしく自分のことだろう考えた時、衛士の服装をした男が二人、ずかずかと近づいてきた。
「お前だな、街中で幻獣を操っていたという男は」
「――は?」
 昨日の日中、街中で幻獣が暴れた際、かすり傷とはいえ傷を負ったのはラドルフ一人である。縁も所縁もない街を、手傷まで負って助けてやったのだ。街を守ってくれてありがとうと金一封を渡されはしても、こんな風にまるで罪人のように言われる覚えはない。
「何の話だか知らんが、俺にはそんなものを扱う趣味はない」
 これで話は終わった、と言わんばかりに立ち上がると、衛兵の一人が肩を掴んできた。無意識に振り払った際に力が入りすぎたらしい。跳ね飛ばされた身体がテーブルを突き倒し、スープやパンが床に散らばる。
「――貴様、逆らう気か!とにかく、一緒に来てもらうぞ!」
 ……ああ、そういうことか。
 肩をいからせまくしたてる衛士と、遠巻きに見やっている他の客や宿屋の従業員、にやにや笑いを浮かべて成り行きを見守るもう一人の衛士の表情に、事の次第を悟る。彼らとて、本気でラドルフが街中に幻獣を発生させたとは思っていないのだ。ただ街中に幻獣が発生した以上、責任の在りかを明確にしなければ職責に係わる。責任を押し付ける相手として、顔が焼け爛れた男は都合がいい。要はただ単に難癖をつけているだけだ。
 一見、人々の生活に変わりなく見えても、国の乱れはこうして端々に現れる。こんな連中が衛士をやっているというだけで、この国の品位が知れようというものだ。
 だが、こちらにも事情はある。剣を取ってやりあえば十中八九逃げ出せるだろうが、それで素性がばれるのは多いにまずい。――今共にいるのがシルヴィア王国の王女だとは、どうしても知られたくない。
「……わかった。行くよ」
 小さく頷いたラドルフに向かい、フィリエが声を上げる。
「ラドルフさん!」
「心配するな。すぐ戻る。待っていてくれ」
 ――すぐに戻る。待っていてくれ。
 この時はまだ、ラドルフもわかってはいなかったのだ。まさかその約束が、永久に果たされないものになろうなどとは。



「――まったく、災難だったねぇ。最近はああいう連中が多くて、まったく、困ったもんさ」
 ラドルフが衛士達と去って行ってしまった後、取り残されたフィリエには周囲から深い同情と暖かな心遣いが与えられた。どうやら、ウェルガでは街の治安を司るべき衛士が、街の民や旅人に難癖をつけ、小金をせしめたりする事象が頻発しているらしい。ウェルガだけではない。中央の目が行き届かなくなった地方のあちこちで、こうした小さな火種が燻っている。
「いくら取られるかはわからないけど、多分、2、3日以内で釈放されるはずだ。それまでの宿賃はいらないよ」
 そういってフィリエを宿の厨房に連れていったのは、宿屋の女主人だった。実際のところ、今の彼らの懐具合は、2、3日程度の宿代を払ったところで何ら問題はないが、ラドルフが戻ってくるまで、ただ黙って待っていても仕方ない。麻袋一杯の芋を冷水で洗って、一つ一つ皮を剥いて行く。王宮育ちのフィリエは無論、台所で芋の皮をむいた経験はないが、林檎の皮くらいなら、自分の部屋で剥いて食べていた。ものが違うだけで作業そのものに違いはない。
 無心に皮を剥き続け、裸の芋が鍋一杯になった時、女主人が人参の入った籠を持って近づいてきた。年の頃なら50くらい、ちょうど、フィリエの母親くらいの年齢だ。そういえば、この宿に着いたその日、到着が遅れたラドルフとフィリエに家族風呂を使わせてくれたのは、この女主人だった。たった一人で幾人もの従業員を使い、宿も食堂も一人で切り盛りしているらしい。鮮やかに剥き落とされた人参の皮が、厨房の台の上でとぐろを巻いて行く。
「最初はどういう組み合わせかと思ったけど、あんたち、駆け落ちものだろ?」
「え、わたしたちは……」
「いや、詮索する気はないよ。実を言うと、あたしもそうだったからさ。亭主が、ちょっといい家の3男坊でね。あたしみたいなどこの馬の骨とも知れない女を嫁に迎える訳にはいかないって反対されて、二人でこの街にまで流れて来た」
 最初は下働きとして雇われていた宿屋で働きぶりを買われ、夫婦養子となって宿を継いだ。夫は3年前に世を去ったが、娘二人がウェルガの街内で縁付いていて、今では孫が3人いるという。
 なるのほど、それが、この女主人がフィリエとラドルフにはじめから好意的な理由だったのか。同じ駆け落ち夫婦ではあるが、フィリエとラドルフとは立場が違う。だが今、女主人の言葉には心を打つものがあった。
「まあ、あの頃はあたしも若かったからね。あの人と一緒にいられるのなら、どこだって暮らせるって思ったもんだったけど。亭主の方はどうだったか。普通なら汗水たらして働くこともない貴族の息子が、結局は宿屋の亭主だから」
「……わたしは、あの人といられるのなら、どこだって構いません」
 出会わなければ、部屋に風呂のない宿で泊まることも、厨房で芋の皮剥きをすることだって、多分一生なかった。だけど、後悔はしていない。それで、他でもないあの人と一生一緒にいられるのなら。きっと彼女の夫だってそうだったはずだ。亡くなった今もこうして暖かく振り返ってくれる人がいて、どうしてその選択を悔やんだりするものか。
 言い切ったフィリエに向かって、女主人は少女の顔で微笑んだ。孫を3人も得た今でさえ、これほどの微笑を浮かべられるのだ。きっと彼女が夫とであった頃には、すれ違う男という男のすべてが振り返ったに違いない。
 しばし無言で大量の野菜と格闘し、ようやくそれらを鍋に収めた時、厨房の外が騒がしくなった。どうやら来客らしい。女主人を呼びに来た従業員と一緒に、フィリエも外に出る。宿屋の裏口からのぞく太陽は眩かった。青一色の空に、縁日で売っている綿菓子にも似た雲が浮いている――夏はもうすぐそこだ。
 夏を間近に控えた空の下、男が一人立っている。東大陸では珍しくもなんともない、フィリエと同じ色の髪をして、そういえば以前ラドルフが、フィリエと彼の唇の形がそっくり同じだと言っていたことがあった。
 それもそのはず、彼とフィリエは父母が同じ――同じ血を分けたこの世でただ一人の人間。
「――久し振りだな、フィリエ」
 どうして彼がここにいるのだろう。もう二度と会えないと思っていた。二度と会えないと覚悟を決め、その寂しさをとうに受け入れたはずだったのに、息が詰まるほど、懐かしい。
「兄様……どうしてここに」
 遠く異国の空の下、シルヴィア王国王太子エルモンド・シルヴィアが立っていた。




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