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月の宝珠
第一章 再会〜


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 夏を間近に控えたウェルガの市場で、フィリエは評判の包み焼きを頬張っていた。元々はロルカやシルヴィアで『ガレット』と呼ばれていた料理――そば粉と小麦粉を薄く焼いた生地にバターをかけたもの――を庶民風に改良し、小麦粉の生地を薄く伸ばして、甘いクリームや果物を巻いた菓子は、最近の東大陸の流行である。
 東大陸に戻ってきた時から、一度食べてみたいと願っていた念願が、ようやくかなったこの日、市場は人で満ち溢れていた。むっとするほどの人だかりと熱気、空は抜けるように青く、遠くに見える雲の形は既に夏のそれと遜色ない。
 ロルカ国で政変があったのは去年の冬のこと、当時の国王マルコ3世が凶刃に倒れて世を去った理由は、国内の反シルヴィア派の仕業とされているが、未だに犯人は捕まっていない。年若のマルコ3世に王妃はなく、従って世継もなかった為、王位は異母兄のディラン1世のものとなった。国王の暗殺と入れ替わりはそこで暮らす人々の生活をさぞや直撃したことだろう。しかしその程度の直撃では揺るがないのもまた、人々の生活というものだ。港からは荷下ろし人足の掛け声が響き、商店も通常通り営業している。
「しかし、あいつが甘いものを食べないは知ってるけどさ。君一人を置いて出かけちまったって……いくらなんでも酷くないか、それ」
 フィリエの傍らではカイジャンが、二つ目の包み焼きを盛大に頬張っている。その後ろでは双子の少年――兄の方がロキシス・弟がイキシスと名乗っていたが、正直どちらがどちらだか見分けがつかない――が仲良く一つの包み焼きを分け合っている。
「ラドルフさん、呪いの件にはあまりわたしを係わらせたくないみたいですから……」
 ウェルガの街に、腕利きの呪術師がいると聞いて、ラドルフは朝から宿を出かけていた。自分の立場を忘れたわけではないけれど、エリトリアとの国境も近い港町にシルヴィア王女の顔を知った人間がいる可能性は限りなく低い。折角だからと評判の菓子を食べに出かけようとしていた時に、ちょうど宿を訪ねてきたカイジャンと双子に出会ったのだった。
 フィリエが今食べているのは、薄い小麦の生地にクリームと果物を巻いた甘い包み焼きだ。もし誘ったところで、例えどれほど甘さ控えめであろうと、砂糖が入った菓子は一律拒否するラドルフは絶対に食べないだろうが――同じ店のメニューの中に、ハムと野菜を巻いた軽食風もあったので、あちらなら気に入るかもしれない――それでも何も言わずに置いて行かれたことに複雑な思いがないわけではない。例え、必ず戻ってくることは知っていても、だ。
「ラドルフさん、最近、よくうなされてるんです」
 フィリエの言葉に、口をクリームまみれにしたカイジャンが立ち止まった。
 もともと眠りが浅い上に、ちょっとした気配でも飛び起きて剣を突きつけるという危険きわまりない男ではあるが、毎晩同じ部屋で休むようになると、フィリエ相手にそんな振る舞いに及ぶことはなくなった。剣を布団の中にまで持ち込まなくなったし、先に目を覚ましたフィリエが起こしに行って揺さぶるまで、平気で眠っていることもままあった。
 それが最近になって、前のように些細なことで飛び起きるようになった。さすがに剣を突きつけられることこそないものの、一瞬だけ垣間見せる本気の殺気に、背筋が凍るような思いをして恐ろしくなる。頻繁にうなされるようになったのもそれと同じ頃で、以前に戻っただけといえないことはないのだが、それこそがフィリエにとっては哀しい。夫婦になってから、二人の間に築かれていたものさえも、昔に戻ってしまいそうな気がする。
「カイジャンさん?」
 立ち止まったまま、一言も発さずにいるカイジャンを訝んで振り返りと、食べかけの包み焼きを片手に、赤毛の男はうっすらと瞳を見開いていた。
「え、あ、いや、あいつがうなされてるなんてのは、俺にしてみれば、鳥が空飛んでるか海に魚が泳いでいるかくらいのもんで……でもそうか、あいつ、君と一緒だとよく眠れたのか」
「……」
「いやラドルフだけじゃない。傭兵なんかやってる奴は、みんな似たようなものだ」
 生きて行く為に、命をかけて戦場に立つ。たとえどれほど腕に自信あって慣れたつもりであっても、それは常に死と隣り合わせだ。違いは自分自身の死か味方の死か敵の死かの違いだけで、あまりに死が近いと目を閉じるのが恐ろしくなる。子供のように暗闇を恐れて、眠りを薬に頼る者も珍しくない。
 雑踏の往来に似つかわしくない沈黙が落ちる。――その時のことだった。
 足元に影が広がって、フィリエは急に空が翳ったのかと思った。海辺の街は天候が変わりやすい。通り雨でも降るのかと。だが次の瞬間、ものすごい力で横から突き飛ばされる。刀を抜いたカイジャンがフィリエを突き飛ばしたのだと気づいたのは、ロキシス・イキシスの双子に支えられ、建物の壁に爪を立てて立ち上がった後のことだった。
「これは……」
 はじめ、それは巨大な獣のように見えた。シルエットだけで見るならば、それはまさしく狼に違いない。ただしその身の丈がフィリエの背丈以上もある。三日月型の瞳は黄金色に輝き、鈍色――黒とも灰ともつかぬ色合いの毛が、影のように揺らめいている。
 真っ昼間の往来で悲鳴が上がる。フィリエの耳元で、双子の一人が呟いた。
「……幻獣(げんじゅう)」
 


 彼がその騒ぎを聞きつけたのは、ウェルガの下町にある呪術師の家を訪ねた帰り道でのことだった。
 シルヴィア王国と文化を共有するロルカ国は早くに呪術を迷信として放棄しており、呪術師の数はそう多くない。それでもウェルガを含むエリトリアとの国境沿いの街にはある程度呪術が浸透しており、今回訪ねてみたのもそんな中の一人――革命時のエリトリアからの亡命者で、法外な金を取ることもなければ、貧乏人には割安で薬草を譲ってやったりして、なかなか評判がよかったと聞く。
 最も、評判の呪術師は既になくなっており、今は呪術師の子供だか孫だかが後を継いでいるらしい。しかし近所を訪ね歩いてみても、その消息は知れなかった。かつてエリトリアにいた腕のいい呪術師であれば、何らかの情報があるかと思っていたのだが、そう簡単には問屋が卸さないらしい。
 ――まあ、慣れてはいるさ。
 かつて、身に降りかかった災いを何とかしようと呪い師やら呪術師を片っ端から当たったことがあるラドルフは、今更そんな程度で落胆したりはしない。それでも心の片隅が重くなったのは、宿屋で彼を待っているであろう娘の姿を思い出したからだ。
 ラドルフが一人で出かけると告げた時、フィリエは悲しそうな目をして彼を見た。何もかも素直に明かさない――明かすことのできない夫に彼女は失望しただろうか。港町で評判の包み焼きを食べに行くと言っていたから、今頃には機嫌も直っているとは思うが、彼女がもう一度行きたいと望むなら、明日はその評判の出店に一緒に行こう。甘味を売る店も往来の混雑も彼には苦痛でしかないが、それはもういたし方ない。
 密かに覚悟を固めて路地裏を出た時に、人通りの多い雑踏に悲鳴が響き渡った。殆ど本能のように剣の柄を握り締め、悲鳴の方角を確かめる。道と道の交差する先に知った顔を見つけ、思わず声を張り上げた。
「――フィリエ!」
 道の端でざわめく雑踏を庇うように剣を抜いているのは、彼の妻――両脇でそっくり同じ顔をした双子の少年が、鎖鎌を構えている。そしてその先ではかつての傭兵仲間が巨大な獣と戦っていた。
 ゆらゆらと影のように蠢く姿は、一見、森で暮らす狼のようにも見える。違いは身の丈が狼にあるまじき大きさであることと――
 カイジャンの一撃が、巨大な狼の喉を切り裂いた。通常の獣ならもんどりうって絶命しただろうが、幻獣は斬られた箇所から大きく膨れ上がり、また再び元の大きさに戻って行っただけだった。
「……って、おいちょっと待て、何で元に戻るんだよ?!」
「無駄だ。これは普通の獣とは訳が違う」
 剣を抜いて駆け寄ったラドルフの台詞に、カイジャンが目を瞬く。
 ローデシア選国出身のラドルフは、呪いによってこの世に生み出される獣――幻獣を過去に何度か見たことがある。見世物小屋や闘技場で戦わせて金を取るのだ。強力な幻獣を操る呪い師は幻獣使いと呼ばれ、貴族の後援がついていたものだった。
「普通の手段では倒せない。どこかに、核になる部分があるはずなんだ。そこを突くしかない」
「核って……どこにあるんだそれ?」
「――さあな」
 ローデシア生まれではあっても、呪術に縁のないラドルフは幻獣と戦った経験がない。そもそも、呪術によって生み出された影のような存在であり、人を襲うようなものではないのだ。
「さあなって、ラドルフ、お前なぁ」
 抜き身の剣と獣の牙がぶつかって、耳障りな音を立てる。力任せに引き抜くと、相手は空中でひらりと翻って地面に着地した。どうやら牙が擦れたらしい、右手の手首に血が滲んだが、大事に至る傷でない。
 こちらから傷をつけることができずに、相手からの攻撃に傷は負う。不利極まりない状況の上に、庇やら壁やらが立ち並んだ往来では戦い難いことこの上ない。本来、街の治安を司る衛士はどうした……とちやりと彼方を見やった時、唐突に、左腕にしがみついて来たものがあった。
「ラドルフさん!あれの眉間のところ――何か影が凝っているような気がします。もしかしたらあそこを突けば――」
 剣を持たないラドルフの左手にしがみついたフィリエは、次の瞬間、力任せに腕を振り払われて驚いた。いくら戦いの最中とはいえ、ラドルフがフィリエ相手にこんな乱暴な振る舞いをするのは、はじめてのことだ。
 そんな振る舞いに及んだ当の相手は、身体の位置を入れ替え、少し気まずそうな顔をした。右手首から血が滲んでいる。かすり傷はあるが――かすり傷であればあるほど、負った直後は痛みを伴うものだ。
「すまん、もう一回言ってくれ」
「え、あ、あの、あの狼みたいなものの目と目の間が、少し他のところより濃くなっているんです。もしかしたら弱点なんじゃないかと」
 その昔、シルヴィア王国の初代国王には呪いの能力があった。数百年の時を経て、その血も大分薄まってはいるが、それでもフィリエの中に伝わるものはあるはずだ。
「目と目の間……だな」
 剣を構えなおしたラドルフに向かい、幻の獣の身体が大きく膨れ上がる。その牙がラドルフの身体を引き裂くより早く、懐に入り込んだ男の振り上げた剣の切っ先が、獣の眉間を貫き通していた。
 巨大な獣の動きが、瞬時、停止する。断末魔の叫びも咆哮も――悲鳴さえもなかった。貫かれた箇所の周辺から、小さな黒い塵のようなものが舞い出て来て、それが瞬く間に全身に広がって行く。黒い塵――幻獣を攻勢する何らかの粒子が風に巻き上げられると、そこには、右手から血を流したラドルフと、息を切らしてへたりこんだカイジャンの二人しかいなかった。
「やった……」
 どこかで誰かが呟く声がする。ようやく騒ぎを聞きつけたらしい、雑踏の向こうから、衛士の駆けて来る音がした。




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