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月の宝珠
第二章 海辺の街〜


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「――で、それから二ヶ月近くもたってるっていうのに、何だってお前たちはシルヴィアに帰り着いてねぇんだ?」
 見事な赤毛を首の後ろで括った男はそういって、骨付きの肉に齧り付いた。油を塗って照り焼きにして香草を振りかけた、この地方に特有の調理方だ。しかし店の外から波の音が聞こえる海辺の町で、敢えて肉を食らうこの男の精神とはいかがなものなのか。自分が頼んだタラのから揚げに箸を突き刺し、ラドルフは息を吐き出した。
「船がでねぇんだよ。――カイジャン」
 ロルカ国の北側に位置するエリトリア共和国の一都市、マゼンダは海運で栄えた街だ。
 タタール湾を船で移動しようとすると、海流の関係で、どうしても一度はマゼンダに寄航することになる。彼らが今ある街場の飯屋にも、金髪に碧眼やら赤髪やら、ちりちり頭に肌の黒い黒人やらがいて、さながら人間の見本市のようでもある。
「船が出ねえって?マゼンダからシルヴィア行きの船なら、二週に一本は出港しているはずじゃ――」
「最初の船は、出港してすぐに故障が見つかったとかで、港に戻った。その次の船は、お尋ね者が乗っていたとかで、出航さえしていない。こないだ乗るはずだって船にいたっては、どこかのお偉いさんを乗せることになったとかで、一般の客の入船を断ってきた」
 突き立てられた箸の下で、タラの切り身がほろほろと崩れて行く。
 エリトリア共和国はおおよそ六十年程前に、当時の国王を平和的に退位させて以来、共和制が敷かれている政治的に安定した国だ。何かと不安定なロルカ国内を通らざる得ない陸路を避け、一度エリトリアに向かった上で、船でシルヴィアを目指そうとしたラドルフの判断自体は間違っていなかったと思う。
 それがまさか、港街のマゼンダで二ヶ月近くも足止めを食らうことになろうとは、まったくもって想定外の出来事である。
「そりゃまた、たいそう難儀なこった。この次は巨大タコでも出るんじゃねぇのか?」
 人の気も知らずに、骨付肉を三口で頬張った男が、杯の中身を空にする。この男――傭兵仲間のカイジャンにこの街で出会ったのは、まったくの偶然だった。度重なる出航延期にすることもなくなり、暇つぶしがてらにマゼンダの街をうろついている時に、向こうから声をかけられた。見事な赤毛が特徴の大男で、いざ戦場に立つとその腕力にものを言わせ、並の兵士の三人分の働きをする。難点は食べる方も三人分――下手をすればそれ以上であることで、彼と同じ兵舎で寝泊りする時などは、自分の分の食料は死守しておかないと、すべて食べつくされてしまう。
 ――それと、もう一つ。
「え?タコですか?わたし本物のタコって見たことないんです。確か足が八本あるんですよね?」
「食ったら旨いんだぜ、フィリエちゃん。特に取れたては刺身がいい。おれ、マゼンダで旨い刺身を出す店を知ってるんだ。よかったら今度、どう?」
「おい、この蜜蜂」
 へらへらと軽薄な笑いを浮かべて、人の雇い主を口説いている男の後頭部を張り倒し、ラドルフは麦パンを頬張っている少女に向き直った。
「おいフィリエ、こいつはいつもこんなんなんだ。あまりまともに取り合うな」
 彼女が普段王宮で食べている食事と比べれば、比べるまでもない品だろうに、これ美味しいですねと言って笑う。フィリエはこの二ヶ月、文句の一つも言わずに港街の宿屋暮らしに慣れていったようだった。実際問題として、彼女がひとたび、シルヴィアに便りを送れば、迎えの一人や二人――否、一軍や二軍でもやってくるのだろうが、現在微妙な関係にあるロルカを経由して、エリトリアまでやってくるとなると、もう一悶着や二悶着は覚悟しなければならない。そう言った判断が即座にできるあたり、この少女は骨の髄から王女なのだと思う。
「蜜蜂って?何のことですか?ラドルフさん」
「女から女へと次々と相手を変えて回って、こいつに泣かされた女の数は両手の指でも足らん。それで、傭兵仲間についた渾名だ」
 さほど美男子というわけでもないのだが、持ち前の愛嬌を武器に、酒場の女から街娘に至るまで、大抵の女はこの男の話術にあっさりとひっかかる。故に、ついたあだ名が、花から花へ蜜を求めて飛び回る蜜蜂。あまりにも安易すぎるネーミングで、万が一自分にそんな通り名が付いた日には首でも括りたくなるだろうと、ラドルフは思う。
「酷いよラドルフ。俺は誰も泣かせてなんていないって!それにしてもフィリエちゃん。王女様なのに、こんなとこでこんな無愛想な男と一緒で、つまらなくない?俺だったらもっと色々なところに案内でき――」
「――わたし、世界を見てみたかったんです」
 張り倒されて一度テーブルの下に沈んだはずの男が、性懲りもなく浮かびあがってきてふざけたことを言い出す。もう一度沈めてやろうかと拳を握り締めたラドルフは、桜色の唇が発した思いもよらぬ台詞に、目を瞬いて彼女を見た。
「シルヴィアの周りにはロルカやエリトリアや――海の向こうには西大陸という違った世界があって、そこでたくさんの人たちが暮らしてるって、シヴィアの王宮の中に居ただけでは、どうしても実感できなかった。だから今、こうしてほんの少しですけど、世界を見ることができて、とても嬉しいんです」
 そう言ってフィリエが見やった窓の外には、タタール湾の紺碧が広がり、海辺の町に特有の澄んだ空の中央を、数羽のかもめが、大きな弧を描いて飛び交っている。鳴り止まぬ波の音、強い潮の香は、旅慣れたラドルフにとっても、今自分が確かに世界の一端に存在していることの証明のように思えた。
「だけどラドルフ、船がそれだけどうにもならないんだったら、もう陸路で進んでもいいんじゃないのか?」
 エリトリアからシルヴィアに向かう道は、無論、海路だけではない。ロルカ国内の街道を通るか、一端東に抜けて東方山脈を越えればシルヴィアの領内に入る。
「ああ、まあそれも考えないわけではないんだが」
 すっかり冷めてしまったタラの切り身を口に運ぶと、濃い目の甘酢たれを絡めてあるおかげで、冷めてしまっても食べられないということはない。
 マゼンダからシルヴィアまで、海路なら数日、陸路を使えばおおよそ半月程度かかる。船の出港を待って二ヶ月も足止めを食らうくらいなら、陸路を選んでいれば、もうとっくにシルヴィアには到着していた。――が。
「……ああそうか、満月か」
 黙りこんだラドルフを見て、その事情に思い至ったらしい。この骨の芯までふざけた性質の男がこのような顔をするのは、ラドルフの抱えた事情に行き当たった時くらいだ。
 そう、陸路を選んで旅をしてみたはいいが、夜盗にでも襲われた瞬間に、満月なので戦えませんでしたでは話にもならない。
 ――まったくもって、忌々しい話だ。
 声にならない声で呟いて、目の前の皿を空にすることに取り掛かる。
「お前も色々、大変な奴だよな」
 赤毛の男の呟きは、ちょうど窓の近くに飛来した、ウミネコの鳴き声にかき消された。



 その夜、フィリエの目が覚めたのは偶然だった。ラドルフの知り合いだという赤毛の男――カイジャンと会って、少々喋り過ぎたのかもしれない。夜も更けた頃になって、無性に喉が渇いて、寝床の上に起き上がる。マゼンダの宿屋の窓は、海側に向けて造られる。船に乗って街を訪れる旅人達が、上陸する前に宿に荷を運び入れられるようにしたのが始まりだというが、今、ほんのわずかに空けてあった窓からは、打ち寄せる波の音だけが静かに響いて、日中の喧騒が夢か幻のようだ。
 水でも飲もうと裸足で床の上に降り立った時、波の音に混ざって、かすかに何かが動く音がした。夜でなければ聞き取れないほど小さな物音、だがそれは夜の静寂に、驚く程、大きく響いた。
「……ラドルフさん?」
 護衛の男はフィリエの部屋の隣で寝起きしている。二つの部屋は内側に戸があって、部屋の鍵はフィリエ側からかかるようになっている。肩がけを羽織って恐る恐る鍵を開けて、フィリエはその場に棒立ちになった。ラドルフも少し窓を開けていたらしい。二つの部屋の間を風が行きかって、白い月光が窓辺に垂れ下がった布地を透かして部屋の中まで降り注いでいる。波打ち際に映った月は丸い。――そう、今宵は満月だ。
「くっ……」
 気配を感じたのか、窓際に置かれた寝台の上でうつ伏せに蹲っていた男が、その身を持ち上げる。黒い髪は汗で乱れ、月明かりの下に翳された左手――普段は手袋で隠されている手の甲の皮膚が、みるみるうちに赤く膨れ上がって行く。手の甲だけではない。むき出しの顔も首も肩も胸も――男の身体の至るところからおびただしい量の血液と体液があふれ出して、白い敷布をどす黒い色に変えて行く。
 まるで、そうまるで――生きながら目には映らぬ業火に焼かれてでもいるかのような。
 初めて出会ったシルヴィアの王宮で、ラドルフが倒れるところに行き当たったことがある。あの時はすぐに王宮の侍医を呼びに走って、こんな風にまともに彼の様子を見たわけではない。
「どうして、こんな……な、何か冷やすもの!わ、わたし、お…み……水、いえ、誰か呼んできます!」
「無駄だ……騒ぐな」
 踵を返して駆け出そうとした、その腕を掴んで引き戻された。伸ばされた右の手は、よく日に焼けた褐色の肌の色だ。
「ラドルフさん」
「……っ」
 また新たな痛みが襲ってきたのか、体をくの字に折り曲げた男の肩が、寝台の端からはみ出した。このままでは床に転げ落ちる。咄嗟に伸ばしたフィリエの腕の中に、ラドルフはほとんど重力に任せて落下してきた。かろうじて受け止め、彼が頭をまともに床に打ち付けることだけは防いだものの、男の体重を受け止めきることができるはずもなく、二人でもつれ合うようにして、床の上に転がり落ちる。
 すこし遅れて落下してきた羽枕には、血まみれの歯型が幾つも浮かび上がっていた。一体どれだけの時間、一人で声も出さずに耐えていたのだろう。
「ラドルフさん……」
 黒い瞳は霞がかかって、最早フィリエの存在を確認できてはいないようだった。苦痛の為に意識を手放しかけて、苦痛の所為で意識を失うことができないでいる。
 人間は身体の何割かが焼けてしまうと、皮膚呼吸ができずに死んでしまうのではなかったか。いや、仮に焼けていなくたって、これだけ血を流して苦しんで、身体の為によいはずもない。何とかして手当てを――いや助けを呼ばなければと思うのに、男の体にまともにのしかかられては、動くことができない。
「どうして……こんな」
 もうどうすることもできずに、フィリエは血を流していない、ラドルフの右腕にしがみついた。同時、握りしめられた腕の奥で骨が鳴り、砕け散るかと思うくらいに強く握りこまれる。無意識に引いて行こうとする身体を意志の力で引きとめ、獣のような声を上げ、身体を跳ね上げる男を己の腕の中に繋ぎとめ続ける。
 ――そうするしか、なかった。



 いつ終わりが訪れたのか、それが夢なのか現実なのかもわからぬうちに、夜が明けた。
 開け放たれた窓から、朝一番の出航を告げる鐘の音と、荷揚げ人足の威勢のよい掛け声がする。雲ひとつない空は海の色よりなお青く、まだ朝のうちだというのに、太陽は眩いばかりに照り返してくる。――今日も暑くなりそうだ。
「お前……ずっと、ここにいたのか」
 床の上に仰向けに寝転がったラドルフの口から、久方ぶりに意味のある言葉が零れた。彼の頭は、壁に背をもたれ、床の上に座り込んだフィリエの膝の上にある。
「気がつきましたか」
 昨夜、部屋の中にも敷布の上にも、あれほど流れたはずの血の跡は綺麗に消え去り、陽の光の下で見たラドルフの皮膚は、これまで通り身体の左側が火傷の痕で覆われていた。相変わらず、痛ましくなって目を逸らしたくなるような状態ではあるが、痕はあくまで痕であって、血を流してはいない。
「……呪(のろ)いなんだ」
 問いかける言葉が思いつかずに、汗で濡れた額を拭っていると、酷く擦れた声がした。
「呪い?」
 呪(のろ)いは別名を呪(まじな)いとも言って、呪力という特殊な力を用いて、人の肉体や自然界に働きかける能力のことを言う。昔はどの街にも一人は呪い師がいて、病気の治療や天変地異の予知などを行っていたと言うが、最近の医学や天文学の発達によって、シルヴィアやロルカでは急速に寂れた。今でもエリトリア共和国の一部や、その更に北方にあるローデシア選王国などには強力な力を持つ呪い師がいて、自治体や国の政治に発言権を持っていると聞く。
「ああ。昔……俺が殺した相手から受けた呪いだ。自分が死んだ満月の夜が来るたびに、自分が受けたのと同じだけの痛みと苦しみを味わうように、とな。あれ以来……満月の夜になるといつもこうだ」
 呪いが効力を発するのは満月の夜のみ、月の近さや陰りが影響するのか、土地によっては弱い効力しか発しないこともあり、また、時によっては満月よりやや早い時期に訪れることもあると言う。血の匂いを近くで嗅いだ後は、特に酷く出るのだとラドルフは言った。
「でも呪いなら……誰か腕のよい呪い師を探して、解いてもらうことも――」
「無駄だ。誰にもこれまで誰にも、この呪いは解けなかった。……まったく、難儀な身体になったもんだよ。呪いを受けて以来、毒を飲もうが急所に剣を突きたてようが、死ぬこともできやしない」
「どうして……そんなことがわかるんですか」
 毒を飲んだり急所に剣を刺したりすれば、普通はとっくに死んでいる。フィリエの言葉に、ラドルフは口の端を持ち上げてみせた。
「死ねそうな方法なら、思いつく限り一通りは試してみたからな。……まあ、他人の刃で傷つかないわけでもないから、何も不死身になったわけではないようだが」
 吐き出すように言い切って、のろのろと掌を額に上げる。かなり疲弊しているのだろう。動きが覚束ない。
「……お前には二度も見られてしまったしな。願わくば、2、3日、騒ぎは起こさないでおいてくれ。こうなると、数日は思うように身体が動かん」
近くに落ちていた枕を取って膝の上にあった頭を移し変えると、素直に頭を静めて瞼を閉じた。寝台の端で丸まって皺だらけになっていた薄手の毛布を手にとって、その身体を覆ってやる。本当なら、床の上より寝台で寝た方が身体の為には良いのだろうが、彼女の力で、男の体を寝台の上まで持ち上げることなどできはしない。
「もう喋らないで下さい。わたしお水と……スープか何か、軽く食べられるものを貰ってきます」
 振り返って確かめた時には、ラドルフの吐息はすでに寝息に変わっていた。一晩中、あれだけ苦しみ続けたのだ。眠れるのなら眠った方がよい。
 眠りに落ちた男を起こさぬように静かに部屋の戸を閉じて、閉じた戸に背中を預ける。
 ――呪いを受けて以来、毒を飲もうが急所に剣を突きたてようが、死ぬこともできやしない。
 ――死ねそうな方法なら、思いつく限り一通りは試してみたからな。
「どうして……」
 目の高さに持ち上げた二の腕には、男の指の跡がくっきりと残されている。
 明かされた事情よりも過ごした夜よりも、今目の前にいる男が自ら命を断とうしていた事実の方が、フィリエにとっては、はるかに胸に痛かった。





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