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月の宝珠
番外編 休息〜


扉へ/とっぷ


 国境を越えるとそこには荒野が広がっていた。
 ひびわれた大地のあちこちに、背の低い潅木がしがみつくように立っている。馬車の車輪が巻き上げる土埃は黄色みがかった黄土色で、最後にまとまった雨が降ったのはいつのことなのだろう。息を吹きかければただちに飛んで行くほど乾燥している。
 耕したところでろくな収穫の見込めない、荒涼たる大地。この地域の住人達は家畜を飼い、その乳や毛皮を近隣の農耕民と交換することで生活をしてきた。



 西南の砦での戦いを終えてから7日余りの後、醒国の公主一行は安閑の街を後にした。
 一方的な和睦破棄が失敗に終わった今、景国としては一刻も早く醒公主と景王の婚姻を内外に示したいという狙いがある。普通に進めばゆうに1ヶ月はかかる景王都への道筋を短縮する為、馬車は昼も夜もなく延々と荒野を進み続けた。延国で上等の馬と馬車を借り受け、大勢の景国の兵士に警護される今、旅自体は決して苦痛ではなかったが、戦場で射られた傷が癒えていないラドルフにとっては、決して楽な旅路とはいえない。
 三日三晩、休むことなく進み続けた馬車がようやく停まった日の夜、フィリエは寝床に横たわったままのラドルフの額に浮いた汗を拭っていた。
 傷そのものは塞がりつつあり、順調な回復を見せているものの、朝と晩には必ず高熱を出し、日中も微熱が下がらない。そんな状態で昼夜馬車に揺られるのがよいわけもないのだが、あのまま安閑に留まり続けた場合、醒国の和睦反対派に狙われる可能性がある。もちろんこの状態では護衛の仕事など不可能なので、一台、専用の幌馬車を仕立てて、ずっとうつ伏せに寝かせたままで移動してきたのだが、その分の経費は後で給金から差し引かれることになっているらしい。
 そんなことをつらつら考えていると、掌の下で小さく呻く声がした。床に置かれた手燭の灯りに照らされて、男の睫が揺らいでいる。
「ラドルフさん、目が覚めましたか?」
「ここは……馬車が停まったのか」
「今日はここで野宿です。もう少し行った先に河があって、そこを夜の間に越えるのは危険だからだそうです」
 この荒野に入ってから、久方のまともな水源である。飲み水の確保だけではなく、洗濯も水浴びもできた。今ラドルフが寝ている寝床の敷布も、明日には洗濯した新しいものに変えることができるだろう。
 実を言うと、この会話を交わすのは本日二度目のことで、今日の日中、馬車が最初に川辺に停まった時に、一度きちんと説明したのだ。しかしその後、夕刻過ぎにまた高い熱が出て、彼はそのまま寝入ってしまった。どうやらその前のやりとりを忘れ果てているらしい。
 腕を支えに半身を起こし、置いてあった水差しから水を飲んでいる。起き上がれるようになったところを見ると、少しは熱も下がったのだろう。
 ラドルフが寝ている寝床の横に毛布を引っ張ってきて、即席の寝場所を作り上げる。この旅に出た時から、フィリエはこうして四六時中ラドルフと共にあった。これまでは一緒に旅をしていても部屋は別々だったので、こうして昼も夜も一緒にいられることが心の底からありがたいと思う。
 停車した幌馬車の外では炎が燃やされ、景国の兵士達が交代で火の番を務めている。どこかで誰かの笑う声がした。久方ぶりのまともな休息に、酒の杯を傾けているものがいるらしい。
 水差しを床に戻して、ラドルフはフィリエに向き直った。ここ数日まともな物を食べていないので、やつれているのは仕方がないが、日中、身体を拭いて久し振りに髭を当たったので、少しはこざっぱりとしている。
「前から言おうと思っていたんだが、お前……戻っていいんだぞ」
 ラドルフが言わんとしているのは、もう一台の馬車――景国に輿入れする小麗が使っている馬車のことだろう。景国の領土に入って、以前よりは大分襲撃の危険は減ったが、それでもまだ完全に安全とは言いがたい。しかし今、彼女の側には浩漢がいるのだ。あの男に防げない危険ならば、フィリエに防げるわけもない。
「……わたしが一緒だと休めませんか?」
「いや、そういう意味ではなくてだな」
「なら、どうして?」
「仮にも年頃の娘が、そう四六時中、男と一緒にいるものじゃない。人の目だってあるだろう」
 彼が言っている言葉の意味はわかるし、彼がそういったことに関しては意外と――と言ってしまうのは失礼かもしれないが――潔癖であることも知っている。
 だが今、フィリエはラドルフの言葉に、目を瞬いてしまった。腕を伸ばして男の額に触れ、もう一方で自分の額に触れてみる。やはりまだ熱があるのだろう。そうでなければ今の台詞は考えられない。なぜなら――
「わたしたちは夫婦ですよ?わたしとラドルフさんが朝も夜も一緒にいたって、誰も何とも思いませんよ」
 実際、フィリエがつきっきりで怪我人のラドルフの世話を焼いていることは、同行しているすべての人間に知れ渡っている。それで誰がどうこういうわけもない。精々、仲がよろしいことで、とからかわれるぐらいが関の山だ。
 ラドルフの瞳の色が、一瞬、何かに引き付けられたかのように薄くなった。薄い唇が微かに息を吸い込み、そのままの状態で停止する。
 まさか本当に、結婚したことまで忘れ果てているのでは……とフィリエが本気で心配になった時、擦れた声がぽつりと呟いた。
「……すまん、どうやら寝ぼけたようだ」
 その言い方があまりに可愛らしかったので、フィリエはまともに噴出した。腹がよじれるくらいに笑って、目には涙が浮いてくる。笑いすぎて苦しい。これほど笑ったのがいつ以来のことか、思い出せないくらいだ。
「お前な……そこまで笑う奴があるか!」
「だって、可笑しくて。――もう忘れないで下さいよ!こんな大切なこと」
 笑いすぎて溢れてきた涙を拳で拭って、薄闇の中でラドルフを見る。彼が背中に矢を生やして戻ってきた時には生きた心地がしなかったものだが、ラドルフはこうしてフィリエの元に帰ってきた。帰ってきたからこうして会話を交わせるし、笑うことだってできる。
 明日の朝には河を越え、再び旅を続けなければならない。ずりおちた毛布を持ち上げて、ラドルフの肩を後ろから覆った時、漆黒の眼差しが肩越しに振り返った。
「フィリエ、お前もこっちで寝ないか」
「――え」
 枕を並べて寝ているとはいっても、これまで一応、寝床自体は別々だった。それだって今までに比べれば長足の進歩――接近であったというのに。
 無事に景国についたなら、同じ部屋で過ごそうと約束はしているが、まだフィリエはラドルフと――属に言う「初夜」を迎えてはいない。はっきり言って、それどころではない事態が多すぎて、正直、少しそのことを忘れていた。
 だけど今、ラドルフは怪我人であり、彼らは旅の途中だ。外には人の気配もある。固まってしまったフィリエの頬に手を触れて、ラドルフは笑みを含んだ声でこう告げた。
「ただ寝るだけだ。――何、夫婦が同じ寝床で眠るだけのことだ。誰に憚ることでもないだろう」
 何だか、先ほどの大笑いの仕返しをされているような気がしないでもないのだが。答えあぐねるフィリエの態度を勝手に肯定と受け取ったらしい。手を引かれると同時に、腕の中に抱き込まれる。力強くて大きな手。通常より高めの体温と、衣服を通してでも感じられる鼓動。
 自分自身の心臓の音が煩くて、とても寝られたものではない、と思ったのにそうこうしているうちに緩やかな眠気が押し寄せてくる。この腕の中にいるのは心地が良い。まるで、居場所を見つけたような心持ちになるのはどうしてなのだろう。
 やはりまだ、身体が本調子ではないのだろう。フィリエを抱き寄せたラドルフの息はそれだけ少し上がっていた。栗色の髪に顔を埋め、吐き出された言の葉は、恐らく意識してのものではないのだろう。
「……どこにも行くな。ずっと側にいてくれ」
 大丈夫、わたしはここにいる。何があっても、ずっとあなたの側に。そう答えようとしたフィリエの意識はしかし、眠りの中に飲み込まれて霧散した。



 あるものを手にして一台の幌馬車を訪れた時、馬車の入り口へと続く階の半ばで、硬直している小さな背中を見つけた。片手に枕を抱いている。どうやら久し振りの振動のない夜を友と一緒に過ごそうとして、その直前で固まってしまったらしい。
 片手に持ってきた薬草の包みを抱え直し、少女の背中に声をかける。少女が頭の上で結わえた二つの黒髪が、びくり、と揺れた。
「何をやっているんだ。小麗」
「浩漢!」
 浩漢がこの場にやってきたのは、熱冷ましの薬草を渡すため――そしてもう一つは、彼の戦いに多大なる貢献をしてくれた、彼(か)の男の状態を確かめる為だった。
 景王位につく前、浩漢は父王の計らいで、医術を学んでいた時期がある。王位について結局その修行も半ばで終わってしまったのだが、傷そのものは順調に回復しているのに、どうしてここまで熱が下がらないのかが不思議だった。この状態での移動はどうしても身体に負荷がかかる。場合によっては、最も近場の街で彼らを残して行くことも視野に入れた上で、馬車を訪れた――のだが。
「ああ、そいういうことか」
 小麗の背中越しに馬車の中を覗き込んで、思わず声を上げる。幌馬車の片隅の寝床で、若い夫婦が健やかな寝息を立てている。二人で同じ毛布に包まって、殆ど折り重なるように――なるほど、見ている方が恥ずかしくなるほどの密着ぶりだ。
 ――心配をして損をしたか。
 硬直したままの小麗の首根っこを捕まえて、昇りかけていた階を下りる。もって来た薬草だけを置いて、その場を立ち去ろうとしてふと振り返る。馬車の中で人の動いた気配はない。あの警戒心の塊のような男が、こちらの気配にまるで気づかずに眠っている。その理由が、単に発熱による体調不良というだけならば何の問題もないのだが。
「……まさかな」
 わずかに眉をゆがめた浩漢の背後で、梟の鳴く声がした。






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