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月の宝珠
第六章 それぞれの戦い〜


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 4
 景国の勝利を、フィリエと小麗は安閑の砦の中で聞いた。
 延国が完全に景国に味方したことにより、砦の中には、景国からやってきて兵士や武将で満ち溢れている。彼らは皆、新たな景王妃となる小麗に好意的で、正式な輿入れはまだでるにも係わらず、正式な王妃と変わりなく遇してくれる。
 そんな中にあって、フィリエと小麗の心は重かった。戦場からは続々と兵が引き上げ、怪我人でさえも仲間の肩を借りて帰還してきているというのに、彼女達の大切な人達――ラドルフと浩漢だけが、何日経っても戻ってこないからだ。
 引き上げてきた兵達の話を総合すると、ラドルフと浩漢は先発部隊と後発部隊に分かれて、それぞれの部隊の指揮を取っていたらしい。ラドルフ率いる先発部隊の少数かく乱が功を奏し、浩漢が率いた本陣が退却した景国軍の本陣を攻め落として戦いは終結した。
 そこまではいい。だがその先が――肝心の彼らの安否が、誰に訪ねてもわからない。
「フィリエ、そなた、またここにおったのか」
 その日の夕方、いつものように城砦の前庭で、門の外を見つめていたフィリエの傍らに、小麗が寄り添って来た。
 夕暮れ時の陽光が、茜色の軌跡を残して消え行こうとしている。戦いのあった西南の砦はあの稜線を越えたところにある。夜の山越えは危険を伴うので、これまでに多くの兵士達が黄昏時にこの門をくぐってきた。
「フィリエ。大丈夫、大丈夫じゃきっと」
 季節はまだ秋のうちだが、夕刻を過ぎると殆ど冬に近い冷え込みとなる。氷のように冷えたフィリエの手を取って、小麗は口を尖らせて見せた。
「浩漢の奴、私は主の……景王の王妃になる人間ぞ。それを猫の子のようにぶら下げたり、頭を撫で回したりしおって。帰ってきたら、顎でこき使ってやるからな」
 そんなことをされていたのか。未だ謎の多い男の意外な一面に思わず笑みが零れた時、門の外の道に長い影が落ちた。
「あれは……」
 黄昏の名残火を背に馬を操るのは浩漢――ラドルフは同じ馬の後ろで、浩漢の背中に寄りかかるようにして目を閉じていた。2人の男を乗せた馬の歩みは遅い。転げるように砦の敷地内に下りてきた男達に駆け寄ると、浩漢に身体を支えられたラドルフの背中から、矢が生え出していることが見て取れた。
「浩漢、これは?どうしたことじゃ、一体?!」
「――見ての通りだ。流れ矢に当たったらしい。西南の砦にはろくな医療設備がないからな。このまま連れてきた」
 無理をして矢を引き抜いて、出血や感染症を引き起こすよりは、設備の整った場所まで運ぶことを優先にしたのだと言う。傷に障らぬように――しかも男2人が一頭の馬で山を越えて来たのであれば、他の兵達に遅れを取るもの仕方がない。
 耳では捕えていても、浩漢の説明の半分も頭に入っては行かなかった。待ち続けた想い人の顔色は土気色で、微かに開いた唇からは喘鳴混じりの呼気が漏れている。力なく垂れ下がった手を取って、その皮膚のあまりの冷たさに、フィリエは心の底からぞっとした。
 ――生きて帰ると約束できない、と彼は言った。
「とにかく、早く手当てを……」
 後ろを振り仰いだ時、気配に気づいたのだろう、砦の建物から兵士達がわらわらと駆け出してきた。いずれも、延国が正式に景国に味方した後に派兵されてきた兵士達――景国の正規兵達である。
 その先頭にいるのは確か迅雷という名の、景国八旗の将軍だった。彼は今回の戦いに加わっていて、つい先日、安閑の砦にやってきたばかりだ。
「――主上!お待ち申し上げておりました。早く中へ」
 もしかするとフィリエと小麗が知らなかっただけで、今日の帰還について景国の兵は知らされていたのかもしれない。ラドルフの手当ての為にはそれなりの準備も必要だろう。だがその呼びかけの言葉は、傷ついた夫の容態に、心も身体も捕らわれきっているフィリエの胸にも深く響いた。
「主上……?」
 たった今、迅雷は確かに浩漢をそう呼んだ。景国の人間に、そう呼びかけられる人間はこの世界においてたった一人しかいない。景国民にとって唯一絶対の存在――彼らの王ただ一人だけだ。
 大陸横断船の一等客室を利用し、醒公主の護衛を束ね、景国軍を率いて、醒国軍を打ち破った男。
 彼が景国の王であるというのなら、すべての疑問は氷解する。この有事の際に、仮にも一国の王が、国を離れて放浪などしていてよいのかという、極めて根本的な疑問をのぞいては。
「浩漢が景王……?」
 フィリエの傍らで、小麗が呆けたような声を上げした。
「ああ、そういえば、まだ話したことがなかったか」
そんなことはどうでもいいと言わんばかりに、浩漢がラドルフを抱え上げる。その瞬間、血の気を失い薄紫に変色した唇から、かすれた声が零れて落ちた。
「……まったく、これだから、王族という奴は……」
「ラドルフさん!」
「減らず口をたたけるようなら、心配ない。――おいあんた、気絶したり叫んだりしない自信があるなら、手を貸してくれ」
「は、はい!」
 フィリエに向かって顎をしゃくり、ラドルフの肩を担ぎ上げ、浩漢は建物を目指して進んで行く。浩漢とラドルフの体格は同じくらい、今のラドルフは自分の足でかろうじて歩いている程度なので、浩漢にとってはかなりの負荷だろう。
 途中、石くれに足を取られてよろめきかけた浩漢の身体を、駆け寄ってきた小麗が支えた。息を切らしたまま自身の想い人を――未来の夫を見る。
「浩漢、私に何かできることはないか?」
「――お前は必要ない」
 応えは残酷なまでに素っ気ない。立ち尽くした小麗をその場に残したまま、フィリエは浩漢とラドルフの後を追った。



 目指した先は、砦の離れ――医務室として使われている建物のようだった。清潔で簡素な寝台が一つに、棚には様々な薬草が保管されていて、暖炉にはあらかじめ火が入れられている。
 気絶したり叫んだりしない自信があるなら、手を貸してくれ、と言われはしたものの、正直何をどうしたらいいかわからない。剣術を学んだ時に、多少は怪我の手当ても学んだが、現在のラドルフの状態はフィリエの知る怪我の範囲を超えている。
「あの、浩漢さん、わたしは何をすれば――」
「あんたは、そこにいればそれでいい」
 浩漢の返答はここでも素っ気ない。つい先ほど小麗の傷ついた表情が気にはなったが、正直、今のフィリエには小麗を気にするだけの余裕がない。
 抱え込んだラドルフの身体から手を離すと、浩漢は積み上げられた清潔な布を短刀で裂いた。割いたそれらをこよりのようにねじってロープ上のものを作り上げる。
「腕を縛るぞ」
「……ああ、悪いな」
 どうやら何をどうするかわかっていないのはフィリエだけで、男達はこれから何が行われるのか承知しているらしい。手首を寝台の柱に縛り付けられたラドルフとほんの一瞬、目があった。血の気を失い、汗と土で汚れた顔はやつれ果てているものの、その目には確かな意思と力がある。
 衣を裂く音がして、ラドルフの着ていた衣服が背中から引き裂かれた。逞しい褐色の背中の右上方に矢じりが突き刺さり、盛り上がった肉の周囲に血の塊がこびりついている。
「噛んでいろ。舌を噛む」
 ラドルフの口の中に布の塊を押し込んで、浩漢は短刀の切っ先を炎の中に翳した。刀身が赤く染まる程熱したそれで、矢の周囲をなぞるようにして確かめている。
「浩漢さん!」
「あんたは黙ってそこにいろ。――くどいようだが、叫んだり倒れたりしても、俺はあんたの面倒までは見ないからな」
 咄嗟に口許を押さえたフィリエの指の間から、声にならない悲鳴が零れて落ちる。ラドルフの腕を結わえた柱が軋みを上げ、周囲に濃厚な血の匂いが立ち昇った。
 固まった傷口から矢を取り出すには、周囲の肉を抉るしかない。理屈ではわかっていても、生きながら熱した刀で肉を切り裂かれる苦痛は、どれほどのものだろう。
 泣くことも、気を失うこともできはしない。叫ぶことも倒れることもできずに、フィリエにできるのは、ただそこにいることだけだった。



 先端が欠けた月が雲に翳った。藍色の夜空の方々で闇がわだかまる。建物を出てすぐのところにある井戸で顔と手を洗った浩漢は、細い灯りの漏れる部屋に背を向けて、砦の母屋に向けて歩き出した。
 焼いた刀で背中に突き刺さった矢を取り出し、傷口を消毒して縫い終わる頃には、完全にラドルフの意識は失われていた。浩漢の経験上、しばらくは熱が出るだろうし、傷が膿んだ場合は命を落とす可能性もあるが、後はもう、本人の気力と体力に任せるしかない。
 ――本当に、泣きも叫びもしなかったな。
 医師のところで働いてでもいない限り、通常の市井の娘であっても、あんな場面にはそうそう遭遇するものではない。ましてや王宮育ちの姫君ならばなおさらだろう。しかしフィリエは泣くことも倒れることもなく、血のにおいの立ち込める部屋で、最後まで自分の足で立っていた。生半可な根性でできることではない。
 かなりの量の血液を失い、その後の移動で体力を消耗していても、大の男一人、押さえつけて傷を縫うのはかなりの重労働だ。死にかけの人間とは思えないほどの力で暴れられ、こちらが傷を追う危険もある。彼女はただそこにいるだけで、充分に役割を果たしてくれた。
 しばらく歩みを進めた時、数刻前に別れた時と同じ場所で、同じ姿のまま固まっている小さな背中を見つけ、浩漢は思わず目を見開いた。
「おい、そんなところで何をやっている」
 月の翳った雲の厚い空には、星明りさえもない。闇のわだかまる空間で、小麗がゆっくりと振り返る。
「私は……役立たずなのか」
 フィリエのように腕も立たなければ、王宮育ちで世間も知らない。安閑の砦では、景国の人間が、年若の為に嫁いだところで、しばらくは世継を望めないと嘆く声を多く聞いた。
 小麗の言葉に、浩漢は露骨に眉根を寄せて見せた。
「――お前、あの男に……ラドルフに惚れていたのか」
 あまりに間の抜けた――というより、意味不明の返答に、小麗はぱかりと口を開く。今のこの場で、一体何の話をしているのだ、この男は。
「そんなわけがなかろうが!」
「……だったら、あの場にお前がいたところで、何の意味もない」
「だから、何の話をしておるのじゃ!」
「男はな、惚れた女が側にいればやせ我慢にも力が入るし、その女を早く抱きたいと思えば、回復力も上がる。――そういうものだ」
 無骨な手が小麗の襟首を持ち上げ、反対側の手で、わしわしと頭を撫で回される。傷ついたラドルフの側にいるのは、ラドルフが好いている女――フィリエでなければ意味がないのだと、浩漢の言葉の意味が身体の芯に染み渡った時、猫のように自分自身を捕える男とまともに目があった。
「何を呆けているんだ、醒の公主。俺が同じ目に逢った時は、お前に頼むとになるんだぞ。――覚悟しておけ」





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