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月の宝珠
第五章 夢のあとさき〜


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 5
 出立の朝は悪天だった。重苦しい灰白色の雲間にのぞく鉛色の空から時折、ぽつりぽつりと雨の滴が滴ってくる。
 安閑の街を囲む田畑が黄金色に輝いていたのはわずか数日前のこと。秋晴れの晴天の下、刈入れ作業は順調に進み、今では全体の3分の1程度が黄土色の地面をむき出しにしている。この大地に純白の雪が舞い積もるのも、そう先のことではないだろう。
 出立する男達に与えられたのは、山岳地帯に強いという延国特産の栗毛馬だった。東大陸のものより幾分ずんぐりむっくりで、その分、馬力だけは相当にある。元々は冬場に山から切り出された材木を橇で引っ張っていたのを、軍事用に改良したものらしい。
「――それじゃあ、行ってくる」
 外套の襟元を掻き合わせた男達が、次々と馬上の人間となる。先頭を行くのは安閑の砦を守るべく配置されていた延国の正規兵達、その後に続くのは浩漢が新たに安閑で雇った傭兵団、そしてその殿(しんがり)にラドルフと浩漢が乗った馬があった。
 安閑の中心を貫く街道を粛々と進む一団に、街の人々が不安げな眼差しを向けている。夫や息子があの中にいるのだろう。早朝の出立を見送る人々は、常よりも女の姿が多い。若い娘とその母親らしい中年の女が互いの手をきつく握り締め、支え合いながら立っている。
 景国が和睦を一方的に破棄してから、わずか10日あまりで、浩漢は安閑の正規兵の一部を借り受け、西南の砦に向かう手はずを整えた。ラドルフもまた浩漢と共に戦に向かい、フィリエと小麗は安閑に残る。例えどれほどの不安に苛まれようとも女は、男と共に戦場を駆けることはできない。
「……行ってしもうたな」
 浩漢とラドルフの馬が角を折れ、その姿が見えなくなった頃、小麗がぽつりと呟いた。
 戦場に向かうことが決まってからというもの、男達は連日、戦の準備に余念がなく、彼女達とゆっくり話す暇もなかった。浩漢に心寄せる小麗にとっては、それが寂しく思えるのだろう。いつも過剰なくらいに元気な少女から日に日に生気が抜けて、しおれたようになっていっていることは、フィリエも気がついていた。
「西南の砦までは、馬で2日くらいだそうよ。砦に着くまでは延国の領土だし、砦に着いたら便りをくれることになっているから」
 旅立った男達の荷の中には、弓矢や火薬の他に籠に入った数十羽の鳩があった。特殊な訓練を受け手紙を運ぶ鳩を西大陸では『伝書鳩』と呼んでいる。一たび空に放てば、山も川も国境も飛び越えて、遠く戦線の戦士に作戦を伝える。場合によっては、戦場の兵士達に家族からの手紙を運ぶこともあり、それが生と死の狭間で戦う男達にとって、殊のほか嬉しい役割であるらしい。まるで家族のように、自分の糧食を分け与えて鳩を慈しむ兵士もいると聞く。
「じゃが!その先は戦場ぞ!フィリエは、平気なのか?!」
 振り返って拳を握り締めた小麗の黒い瞳に、涙の滴が浮いている。ゆらゆらとゆれる黒い水面に向けて、フィリエは微笑みかけた。
「だって、約束したもの」
 ――必ず生きて帰るとは約束できない。それが戦場だ。
 あの日、フィリエを腕に抱いてひとしきり笑った後、ふいに表情を引き締めて、ラドルフは言った。
 ――だが、これだけは誓える。決して諦めはしない。例え命尽きようとも、最後の瞬間まで、俺はお前のいるところに戻ろうとする。
 もしかすると、フィリエの目も今の小麗のように潤んでいたのかもしれない。瞬くことすらできないフィリエの目の縁に口付けて、ラドルフは確かにそう誓ったのだ。
 守れない約束など、最初からして欲しくなかった。ラドルフが浩漢に対して、いまだに、報酬の中の大陸横断船の旅券を取り下げていないことも知っている。
 だけど、彼は約束してくれたのだ。決して諦めないと。最後の瞬間まで生きて帰ろうとすると。ラドルフがフィリエに残すことのできる最大のものを――心を約束してくれたのだ。
 だから、信じられる。例え彼が帰ってくるのに、百年かかろうが二百年かろうが、信じ続けていられる。
「それに、わたし達にはわたし達にしかできない戦いがある。そうでしょう?小麗」
 そう、フィリエと小麗とて、ただ彼らの帰りを待ち続けるだけではない。彼女達には彼女達に課せられた使命がある。それは恐らく、醒国の公主とシルヴィア王国の王女にしかできないことだ。
 小さな白い手を握り締めて踵を返した時、行く手の先で分厚い雲が割れた。その遥か彼方に青空が見える。左右に分かれた雲間で乱反射を繰り返して地上へと降り注ぐ陽光は、まるで神が地上に降り立つ為の光の階のようだ。
 シルヴィア王国にいた頃、フィリエは東大陸で広く信仰されている一神教の洗礼を受けていた。もっとも正直なところ、これまではさほど真剣に神を信じてきたとはいえない。――が。
「――さあ、戻りましょう」
 旅の最中に出会った共と――否、友と手を携え今、生まれてはじめて、フィリエは祈った。
 自分の為には祈ったことのない神の恩寵が、ただ彼(か)の人に注がれることのみを。



 最初の角を折れると同時に、見送りの人間達の姿は見えなくなった。行く手に迫り来る赤茶けた山々と遠ざかる街並み。風にはためき、ともすれば外れそうになるフードを目深に被りなおし、ラドルフは密かに息を吐き出した。
「心残りではないか」
 傍らで同じように馬を操る浩漢が声をかけてくる。新しい雇用契約の報酬は、最初に栄雅の街で約束された報酬の数十倍――東大陸の通貨に換算すれば、家を一軒建てて、1年くらいは働けずに食べて行けるだけの額に相当する。それに一時棚上げになった大陸横断船の旅券分を加えれば、庶民が一生かけても拝むことができない額にまで跳ね上がるだろう。当初、値切られること踏んだ上でふっかけたラドルフに対し、浩漢はあっさりと言い値での交渉に応じた。この旅の端はしで感じてはいたのだが、この一見優男風の男の懐には、かなりの金銭があると見ていい。
 わずか10日程度で、延国から兵を借り受ける手はずを整え、たかだか傭兵風情に、それだけの金銭を支払うだけの器のある男。
 はじめで会った時から食えない男だと思っていたが、それなりに長い日数を共に過ごした今でも、食えない男だと思う。旅を続けて行くうちに、少しずつ見えてきたものはあるものの、未だに、どうしてもその正体が判然としない。
「しかし、よかったのか?出立の前の晩くらいは共に過ごしたかろうと、わざわざ部屋の両隣を空き部屋にしてやったというのに」
「あのな……」
 折角の心遣いを無駄にしたと言わんばかりの浩漢の台詞に、思わず馬の手綱を取り落としそうになる。わざわざ自分から売り込んで雇われておいて、こんなところで落馬していては洒落にもなりはしない。軽く頭を振って体勢を立て直し、ラドルフは厚く垂れ込めた雲を見た。
 望んだことではないにしろ、ここまで深入りしてしまった以上、今更、後に引く気はなかった。景国について戦うことに異議はない。しかし今、戦場へと向かう心中は、これまでとは大きく異なっていた。
 ――ずっと、心のどこかで死に場所を探していた気がする。
 それが困難な闘いであればあるほど、来るべき終焉に向け心が沸き立ち、生と死の狭間に立つ快感に触れていなければ、生きている実感を得ることさえ難しかった。
 ――わたしを貴方の戦う理由にしてはもらえませんか?
 今まで出会った、妻や恋人の名を呼び、事切れて行った男達を思う。さぞかし心残りであったことだろう。例え腕の一本や二本を失くしても――魂だけの姿になってでも帰りたかったに違いない。自分が実際にその場に立たされるまで、本当の意味では彼らの心をわかっていなかった。
 これまで、ラドルフとフィリエが進む道は何度分かれても、必ず再び合間見えた。そんんな幸運は、きっといつまでもは続かない。いつかはどこかの道の先で、それぞれに二度と戻れない幸福を振り返る日が来るのかもしれない。
 だがそれは今ではない。夢はまだ終わっていない。今のラドルフには帰る場所がある。帰りたいと願う場所と、帰りを待ってくれている人が。
「……悪いが、俺は、楽しみは後に取っておく主義なんでな」
 ラドルフの応えに、浩漢は軽く口の端を吊り上げた。先頭を行く馬が高く嘶き、行軍の速度が上がる。
 分厚い雲と、彼方の空。その先に続く、それぞれの戦いに向けて。





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