×

[PR]この広告は3ヶ月以上更新がないため表示されています。
ホームページを更新後24時間以内に表示されなくなります。



月の宝珠
第五章 夢のあとさき〜


扉へ/とっぷ/戻る


 4
 天高く地肥ゆる秋。晴れ渡った空に薄雲が棚引き、黄金色に染まった田畑の合間を赤蜻蛉が無数に行き交っている。
 この地域の山肌が赤茶けて見えるのは、硝石の産出の為に人の手が入り、山の木々が伐採された為だ。結果、赤茶けた土がむき出しになった山は雨季のたびに地崩れを起こし、人里に甚大な被害をもたらした。
 延国では過去の反省を踏まえ、大規模な植樹と麓の村々の移住を行い、ここ数年人的被害を出していない。山の斜面のあちこちに残る、巨大な爪で抉り取られたような地崩れの跡も、いずれは大自然の営みの中で風化して行くのだろう。
 その日、砦の兵舎の一室で目覚めたラドルフは、寝巻き代わりの貫頭衣を脱ぎ捨て、いつものシャツに袖を通した。
 兵舎の中は、これまでにない程ざわついている。醒国と景国の再戦の噂に、安閑の街には続々と人が集まっているのだ。安閑を守る為の延国の正規兵が半分、残りは浩漢がどこからか調達してきた、西南の砦へ向かう傭兵達の集団だ。ひたすら男だらけの猥雑な空間、その独特の熱気が、ラドルフは嫌いではない。
 寝起きの頭を軽く振りながら、胸元の鋲の最後の一つを留めた時、前触れもなく部屋の扉が開いた。
「フィリエ、お前な……、ノックくらいしろよ」
 開け放たれた扉の向こうに、栗色の髪を一つに結わえた若い娘が、息を切らして立っている。
 年頃の娘が、こんな朝早くに男の部屋にやってくるのは、決して誉められた行動ではない。もっとも、対外的にはフィリエはラドルフの妻なのだから、早朝から同じ部屋にいたところで、誰に咎められることでもないのだが。
 ――ああ、それもどうにかしないとならないな。
 ラドルフの持ち物の中には、東大陸を出る前、生臭神父が用意した結婚証明書が今もある。船が沈没しても、卑族に襲われても手放さなかったそれと同じものを、フィリエもまたもっているはずだ。
 ノックもせずに男の部屋を訪れた姫君が、そのままずかずかと部屋の中央まで歩み入る。荒い息。紅潮した頬。釣りあがった眦。どうやら、かなり興奮しているらしい。
「どういうことですか、ラドルフさん」
「……浩漢に聞いたのか」
 新しい雇用契約は、既に金銭と――あるものを引き換えに、まとまっていた。ここまで来れば文字通り、乗りかかった船だ。近日中にラドルフは西南の砦に向かい、そこに攻め入って来る醒国軍と戦う。
「お前も、俺の力は知っているだろう。ここで景とやらについて戦うのも、まあ、悪くない」
 ついでに、栄雅の街で使い捨てられた少年の仇を討ち、虚仮にされた報復もさせてもらうつもりだ。
 これ以上向き合っていると、そこだけ脆くなっている感情の蓋が、勝手に捻じ曲がって開いてしまいそうだった。一方的に話を切り上げてしまおうとして、おもむろに胸倉を掴んで引き寄せられる。きっちり頭一つ分低いところで、潤んだ鳶色の瞳に射抜かれた。見開かれた瞳は潤んでいたが、涙の滴はその内に留まったまま、溢れ出してはいなかった。
「お前な。仮にも一国の王女が、人の胸倉を掴むな……」
「浩漢さんに言ったそうですね。光州半島から東大陸への大陸横断船の旅券を一枚、手に入れて欲しいって。それにわたしを乗せてシルヴィアに帰すからって」
「……!」
 浩漢の奴め……と心の中で罵倒する。別に口止めはしなかったが、だからと言って、洩らしてよい事と悪いことの区別もつかないのか、あの男は。
「どうしてですか?!もう一緒にはいられないんですか?!どうして、そんな大切なことを、一人で勝手に決めてしまうんですか?!」
 ラドルフは黙って視線を逸らした。その仕草があまりにわざとらしくて、フィリエは手の中の布地をきつく握り締める。この人はいつだってそうなのだ。肝心なことになると、いつも目を逸らして引いてしまう。向き合ってさえもくれない。
 涙など見せまいと思っても、あまりに悔しくて、涙が溢れ浮いてきそうだった。
「……世界なら、もう充分に見ただろう。お前はもう、あるべき場所に戻れ……」
 目を逸らしたまま、喉奥から無理やり搾り出したような声色に、一瞬で思考が沸騰した。
 あるべき場所?そんなものがどこにある?父も兄も国も捨ててきた。もうこの男の隣にしか、フィリエのあるべき場所など存在しないというのに。
 ラドルフは未だに、フィリエの気持ちを信用していない。いや、何よりもそれ以上に、自分自身に、それだけの価値があることを信じていない。――だから、気づかない。今、フィリエ一人を国に帰すことが、彼女に対するどれほど酷い侮辱であるか、考えてみようとはしない。
「ラドルフさん、屈んで」
「……?」
「このままだと届かないから、屈んで下さい」
 胸倉を掴んだまま、ほとんど命じるようなフィリエの言葉にラドルフは訝りながらも身を屈める。先ほどよりは近づいた互いの距離をさらに埋める為、フィリエは爪先立ちしてその首に手をかけた。
「おい、何を考えて……」
 一度目は勢いがつきすぎて、歯と歯がぶつかった。いったん踵を床につけて、今度は慎重に伸び上がる。見開いたまま引いて行く黒い目を間近に、すべての思いを込めて口付けた。
 二度目の試みは見事に成功し、何とか唇と唇が触れ合った。よほど驚いたのだろう、目を閉じることも忘れて、されるままになっているラドルフの薄く開いた唇の合間から舌を差し入れ、その中を丹念に這わせる。
 フィリエがこれまでに経験した口づけは、隣国の王子に無理やり奪われたものを合わせても、数えるだけしかない。息継ぎが上手くできない所為で、すぐに酸素が足りずに息苦しくなってくる。だが例え、このまま呼吸ができずに息絶えたとして、誰が離してなどやるものか。
 だって、口付けを止めれば、きっと彼は行ってしまう。
 二度とフィリエの声も届かなければ、手を伸ばすことさえ出来ない場所に、たった一人で去って行ってしまう。
 限界値を超え、さすがに苦しくなってラドルフの首筋から手を離すと、唾液で濡れた口元もそのままに、男は唖然としていた。
「理由を教えてください」
「……」
「答えて下さい。あの日、あの河原でラドルフさんは何をしていたんですか?」
「それは……」
 あの日、ラドルフが見つけたのは、山里で倒れていた黒装束の人間の指にはめられた銀の指輪だった。ラドルフの目に、それは栄雅の町で自分を雇った男がしていたものと同じに見えた。しかし人間の死体は、時間の経過と共に硬直して行くものだ。指輪だけを抜き取って確かめることができずに、仕方なく手首ごと切り落としたのだと言う。
 唖然としたまま、訥々と語った内容を要約するとそうなる。なるほど、聞いてしまえば単純なことだと、思わず笑みがこぼれる。やはり、あの時は惨劇の後の興奮で気が立っていただけだったのだ。
「わかりました。――何だ、そんなことだったんですね」
「そんなことって、お前な!俺がどれだけ悩んだと思ってるんだ!」
 がつり、と鈍い音がして、フィリエの頭の上の壁に拳が突き立てられた。もっとも、いくら凄みをきかせたところで、そんなものは恐ろしくも何ともない。フィリエにとってはこのまま、自分の知らないところで、すべてが一方的に終らされてしまうことの方が、はるかに恐ろしい事態だった。
 拳の上にそっと掌を重ねると、固く節くれだった指がびくりと跳ねた。
「悩んでくれたんですよね?」
 今さっき、悩んだと確かに彼はそう言った。フィリエと離れることを、何ら躊躇いなく決断したわけではないのだ。
「それって、つまり、ラドルフさんもまだわたしと一緒にいたいと思ってくれているってことですよね?」
「俺とお前とでは生きる世界が違う。こんなところまで攫ってきて、今更言うことではないが……多分、出会ったことが間違っていたんだ」
 故郷を追われた渡り傭兵と、一国の王女。生まれた世界は確かにまるで違う。だけど出会ったことを、そんな風に言って欲しくなかった。彼にとっては偶然であったかもしれない。だけどフィリエは確かに彼に会いに行ったのだ。他でもない、ラドルフ・インバートその人に。
「ねえ、ラドルフさん、わたしも人なら殺しましたよ。多分、ラドルフさんよりも大勢」
 シルヴィア王国とロルカ国が戦争状態にあった数年前。王女の執務の一環として、何度か、兵士達の慰労の為に兵舎を訪ねた。王や王太子ではなく王女の訪問に兵士達は大いに沸き立って勇ましく戦線へと向かい――彼らのうちの何人が、あの戦争を生き延びられたのだろう。
「……そんなことは気に病むな。兵も傭兵も、国の為に死んだりなんかしない。誰だって、死の間際に思い出すのは、自分自身の大切な人間のことだけだ」
 ある者は愛しくてたまらない妻子の顔を思い起こして必死の刃を振るい、ある者はこの上ない慈しみを与えてくれた父母を思い出して、先に逝く不孝を詫びながら死んで行く。誰かの夫であり父であり子である人間が、誰かの夫であり父であり子であるかもしれない人間と戦い殺し合う。――それが、戦場だ。
「そうですよ!わかってますよ!」
「フィリエ……?」
「そうですよ!わたしだって、それくらい、わかってます!みんな自分の大切な人を守る為に、国の名の下に死んで行くんです!!」
 シルヴィアの王宮に、名誉の戦死者として送り届けられた書面の山。王族のサインと印章をもって、遺族には手厚い保障が与えられる。
 破り捨てることは許されない。それは彼らの死を無駄にすることだ。だからフィリエは延々と書き続けた。自分が戦場に送り出した人々の名簿に、「名誉の戦死」と。
 あの頃のフィリエの思いを言葉に表すのは難しい。虚しいとも悲しいとも異なる空虚な思いを誰にも明かすことができずに鬱々と日々過ごし、そして戦争を終わらせたのがただ一人の傭兵であると知った時――ただむしょうに、その傭兵に会ってみたくなった。もちろん、あの頃にはその邂逅が自分自身にとって、これほど大きな意味を持つことになるとは思わなかったけれど。
「だから……」
 握り締めた拳に一滴、涙の雫が滴った。
「わたしを、貴方の戦う理由にしてはもらえませんか?」
 見開かれた黒い双眸に向かって、フィリエは必死で語りかける。
「わたしでは駄目ですか?――わたしでは、貴方の戦う理由にはなれませんか?」
 誰かが死んで行く為の大義名分になるのなんて、ごめんだ。どうせなるのなら、生きて戦う理由になりたい。戦場を駆ける誰かの――この人の、生きて帰る理由に。そしていつの日か、この人が力尽きて息絶える時には、その眼裏で最後を看取る存在が自分であって欲しい。
 まるで今ここに、フィリエが存在することにはじめて気づいた、という顔でラドフルは彼女を見た。ゆっくり、ごくゆっくりと、男の中で何かが再構築されて、2つの黒い水面に自分の姿が映されて行くまで、フィリエは身動き一つせずに待っていた。
 やがて、身体の両側に落ちてきた掌が肩に置かれる。フィリエの頭に顎を乗せて、ラドルフは深く嘆息した。
「……本気で言っているのか」
「――はい」
「お前は……本当に、それでいいのか」
「わたしは、それが欲しいんです」
 はじめて抱きしめられた時から、この腕の中はこの上なく心地よかった。自分から固い胸元に額を押し当てて、広い背に腕を回してみる。――この人はわたしのものだ。これまで何もかも人から与えられていたフィリエが、生まれてはじめて、自分の手で手に入れた存在。何があっても、例え神様にだって渡したりするものか。
「……フィリエ」
「はい」
「お前を抱きたい」
 端的過ぎる言葉に、一瞬、思考が固まった。大きな手が背骨をなぞり、耳元に落とされた吐息が明確な意図を告げている。その感触で思い出したのは、国を出る前日に、年嵩の侍女から見せられた夫婦交合の絵巻物だった。知識はあっても図で見せられるのはなかなかに刺激的で――もちろん、決して嫌なわけではないのだが、窓の外には蒼穹が広がり、部屋の外のあちこちでは集められた兵達がざわめいていて――そう、今は朝だ。
「え、あ、あの……今?」
 真っ赤になって固まったフィリエの頭の上に手を置いて、ラドルフは乾いた声で笑った。それこそ今朝の秋空にも負けないくらいの、底抜けに明るい声だった。出会ってからはじめて聞く、若者らしい快活な笑い声に包まれながら、自分の返答が、今でなければ構わないと答えたに等しいことに気がつく。
「無事に、今回の件にケリをつけて、景とやらに着いたらな……浩漢の奴に最高の部屋を用意させてやるから、覚悟しておけ」
 深紅に染まった耳たぶに口付けが一つ。広い背中の向こうのはるか彼方の空を、鳥の影が横切って行く。
 男の背中の布地を握り締めたまま、フィリエは小さく頷いた。





扉へ/とっぷ/次へ