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月の宝珠
第一章 王女誘拐〜


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 ロルカ国は大陸の南西部に位置する、人口五万人程の小国家である。南にシルヴィア王国、北はエリトリア共和国と国境を接し、国土の西側がタタール湾に面した沿岸国家だ。
 海から流れる湿った空気が東方山脈によって遮られ、一年中、温暖な気候が保たれるロルカ国は、ここ数年、政情不安定に見まわれてきた。
 先代の王フェリス6世が三年前、後継を定めぬまま五十六歳で亡くなってしまった為だ。王には二人の子があった。兄王子はフェリス6世が王子時代に娶った庶民上がりの妻の子で、弟は即位後にシルヴィアから嫁いできたアン王妃が生んだ王子である。当然のことながらシルヴィア王国は弟王子を後援し、二人の王子の間で、王の座を巡る争いが勃発した。
 兄王子の軍勢は初めこそかなりの勢力を保ったものの、次第にシルヴィアを後ろ盾とした弟王子の勢いに押され、シルヴィア・ロルカ国境線で起こった戦いを最後に敗北する。
 争いに勝った弟王子はロルカ王宮にて玉座に昇り、シルヴィア王国との間に恒常的な友好条約を締結する。――ロルカ国王マルコ3世の誕生である。



「わたしをこのようなところに連れてきて、一体、どうするつもりなのです?」
 襲われた時に身につけていた衣服は剥ぎ取られて粗末な毛織もののそれと代わり、手と足首はしごきできっちり縛られている。さすがに身分を慮ったのか、肌との合間に布を噛ませてあったが、それもあまり役に立っているとは思えなかった。道中に隙をついて二度ほど脱走騒ぎを起こし、その度に手足の拘束がきつくなっていった為だ。
 タチアナの湯治場にある離宮で拘束されて一昼夜、フィリエを乗せた馬車は街道を北に直走った。フィリエの距離感に誤りがなければ、ここは既にロルカの国内だろう。
「大人しくされていれば、このようなことはしたくなかったのですが……まったく、貴女には手を焼かされましたよ。……フィリエ姫」
「貴方は――」
 丸一日走り続けて、ようやく馬車が停まった後、猿轡と目隠しを外されたのは建物の中に入ってからだった。窓には磨き上げられ玻璃がはまり、柱は大理石を使ったかなり豪奢な屋敷だ。今は窓という窓のすべてが雨戸を閉じている為、推測するしかないが、壁で揺れる樹影から考えて、外にはかなり広い庭園が広がっているのではないか。
 剣はない。味方もなければ、土地勘もない。何とか兵士を誑かして武器を奪えないかと考えていたフィリエの前に現れたのは、陽光のように鮮やかな金の髪をした若い男だった。シルヴィアやロルカが面しているタタール湾の海よりなお鮮やかな紺碧の瞳に、おおよそこの世の女という女がため息を吐きそうな程白い肌。シルヴィア王国の王宮に現れたなら、女官達が大騒ぎしそうな整った容貌だ。
「貴方が、マルコ3世の兄王子――ディラン殿下ですね」
「まさか貴女が私の名前を知っているとは思いませんでしたよ。光栄ですね」
 物語の絵姿にでもなりそうな金髪碧眼は、シルヴィアやロルカではあまり一般的な風貌ではない。ロルカの第一王子がこの珍しい風貌を持って生れ落ちたのは、フェリス6世の前妻が外国出身の女性であった為だ。
 そもそもフェリス6世は先々王カエザル2世の第6王子で、上に五人も優秀な王子がいた為、王位を継ぐ立場にはなかった。その為、フェリス6世――当時のフェリス王子は早くからい市井で暮らし、彼が外国出身の妻を娶っても、批判の声さえ上がらなかった。
 ところがカエザル2世が95歳の長寿をまっとうする間に、優秀な兄王子五人の寿命の方が先に尽きてしまった。兄王子はそれぞれ妻を娶り、もちろん子も幾人かあったが、早世したり、女児ばかりであったり、他に王位を継ぐべき王子が見当たらなかったため、ほとんど存在を忘れ去られていた末王子に王位が巡ってきた。フェリス6世四十七歳での快挙である。
 そうともなれば、まさか王妃が外国人というわけにもいかない。即位に伴い、フェリス6世は二十年連れ添った妻を離縁し、隣国シルヴィアの王女を娶って王妃に据えた。その王妃との間に生まれたのが王位継承争いのもう一方の当事者――現在のマルコ3世である。それ故、この異母兄弟の年齢は十五歳ほど離れている。
 フェリス6世が、ディラン王子だけは息子として王宮に留めたのは、息子に対する愛情があったためなのか、その辺りのことはわからない。だがロルカ王宮内で第一王子が不遇をかこっていたことだけは、紛れも無い事実のようだ。
「あなたは弟君――マルコ3世陛下の前に降伏したのではありませんか。これからあなたが為すべきことは、遺恨を捨て、国の復興に努めることのはずです。今更、シルヴィアの王女に何の用があるというのです?」
 フィリエ今あるのは、恐らく、ディラン王子がフェリス6世に賜ったという領地つきの離宮だろう。小さいながらもそれ自体が宮殿並みの規模があり、戦争の終結後、ディラン王子はロルカ国軍の監視の下、その離宮に幽閉されていると伝わっていた。
「私があれに負けた?貴女は本気でそう思っているのですか?」
「何を言って……」
「私が負けたのは、異母弟ではありません。貴女の父君の国――シルヴィア王国ですよ。しかしおかしいとは思いませんか?確かに伯父甥のかかわりかもしれませんが、貴女の父上はロルカとは本来なんの係わりも無い。このままではロルカがシルヴィアの征服地になるとの私の危惧に、随分と多くの者が賛同してくれましてね」
 豪華な背もたれ付きの椅子に足を組んで腰掛けて、垂れてきた前髪を優雅に掻き分ける。国と国との争いに負け、心ならずも自国を他国の手に明け渡した悲運の王子。観客がいたなら、きっとそう信じたことだろう。
「貴方の仰ることはわからないでもないわ。ですが、仮にも一国の王族が、民の辛苦も省みず、一度終わった争いを、今また蒸し返そうと言うのですか」
 もともとあまり裕福とは言い難かったロルカの経済は王位継承争いで疲弊し、その後の戦争で完全に破綻している。そもそもシルヴィアがロルカの内戦に介入したのも、国境を越えて逃げてくる難民の数があまりに増えて、シルヴィア国内だけでの対処が難しくなった為だ。戦争の終結後、フィリエの父は全面的にマルコ3世を支援してはいるが、それだって決して充分だとは言いがたい。
「まあ、正直に言うなら、私にとってはこの国がどうなろうと知ったことではないんですかね」
 ぎしり……と鈍い音がして、男の足が床を踏みしめた。一見立派な建物に見えるが、その実、基礎のところにはガタがきているのかもしれない。さほど体重があるとも思えない王子の歩みに、いちいち耳障りな音をたてる。
 両手を縛られたまま床の上に転がされていたのでは、近づいてくる男から逃げ出すことも、跳ね除けることもできやしない。必死の思いで後ずさったフィリエの背が、漆喰の壁にぶつかった。壁を背にそれでも後退しようとするフィリエを見下ろして、美貌の王子はいっそ優しいとも言える微笑を浮かべた。
「貴女が私のものになったと知ったなら、それでも父君――シルヴィア王は異母弟を支援し続けるでしょうか」
 


 顎に指が触れるのと生暖かいもので口を塞がれたのは、ほとんど同時の出来事だった。
 一体自分の身に何が起こったのか。意味がわからずにいる間に、口に触れたものとは量も質感も違う、もっと大きく荒々しいものが口腔内に侵入してくる。それが属に口付けと呼ばれるものであることに気がついたのは、歯列を割って入ってきたものに、粘膜を散々に蹂躙された後のことだった。
 王女といえども年頃の娘、同じ年頃の侍女達と男女の秘め事について、頬を染めながら語り合ったこともある。特に、王女付の侍女の仲でも一番年の近い侍女は、最近恋人ができたとかで、嬉しそうにはじめての口付けの詳細を報告してきた。
 ――違う。
 甘くもなければ、胸が高鳴りもしない。こんなものは、ただひたすら気持ちが悪いだけだ。
「ご心配なく、フィリエ姫。貴女をただ汚すつもりはありませんよ。貴女にはこの離宮の女主人になっていただきますので」
 ようやく呼吸を解放され、荒く息をついた、その肩を掴んで押し倒される。恐慌状態に陥りそうな思考を意思の力を総動員して目の前の男を見据えると、腹立たしいくらいに綺麗な相貌が吐息の混ざるほど間近にあった。
「愚かなことを。そんなことで、父が――シルヴィアが貴方の思う通りに動くとでも思っているのですか」
「それならそれでも構いません。それで異母弟――マルコ3世陛下殿の治世とやらに、ほんの少しでも陰りが落とせるのならね」
 両手が胸元の布地を掴み、そのまま左右に勢いよく引き裂かれた。衣服と下着を同時に取り去られ、上半身はほとんど身にまとうものがなくなる。むき出しになった二の腕に躊躇いなく唇を寄せ、何かに気づいたように動きを止めた。
「……固いな」
 呟かれた声音には、明らかな侮蔑の色がこめられていた。
 幼い頃から剣術場に出入りし、散々に剣を振り回して鍛えた腕だ。深窓の姫君――通常の娘が持つ柔らかさを欠いても不思議はない。
 この男はフィリエに欲を感じているわけでも何でもない。ただ目的の為に、ものでも扱うように彼女を汚そうとしている。
 ――嫌だ。
 こんな男に触れられるが嫌だ。そして何より、こんな男の意のままにされている自分自身が、吐き気がしそうなくらい、嫌だ。
 フィリエがロルカの兄王子の手に落ちたと知っても、それで父と兄がロルカへの支援の手を緩めるとは思えない。肉親への情などに突き動かされていては、二百数十年続いた大国を纏め上げることなどできはしない。二人とも、きっと表向きは何もなかったようにして、マルコ3世への援助を続ける。
 だけど心は別物だ。父と兄がどれほど自分を慈しみ続けてきてくれたかは、フィリエ自身が誰よりもよく理解している。
 抵抗を止めたフィリエを真上から見下ろして、ディラン王子は露になった胸元に顔を埋めた。こちらは二の腕よりもお望みの柔らかさがあったのか、見た目のわりには無骨な指が、白い胸に食い込んでゆく。
 手足を縛られ、男の体重にのしかかられては、身動きは取れず、こうまで深く相手の陣中に連れ込まれてしまっては、例え声を上げたところで、助けが来るわけもない。
 となれば今、フィリエが取るべき方法は一つしかない。一刻も早く、口許を封じられていない今なら、まだ。
 舌を噛み切って人が死ぬことが出来るのは、噛み切られた舌と溢れた血が気道を塞ぐ為だと聞いたことがある。
 痛いだろうか。――痛いだろう。
 苦しいだろうか。――多分、きっと。
 永遠に続くかとも思われた時間、だがそれは実際にはほんの数秒の出来事だった。一思いに舌を噛み切ろうと顎に力を入れたフィリエは、轟音と共に自分が今ある空間が激しく揺さぶられ、引き裂かれる感触を感じた。
「――貴様!どうやってここに!」
「どうもこうも、真正面から訪いを入れて、正々堂々と入ってきたが」
 頭まですっぽりと覆った布地を取り去れば、長く伸ばした黒い髪と黒曜石のように険しい瞳が露になる。顔の左半分が無残に焼け爛れた男の足許には、この離宮の護衛と思われる、何体かの屍骸が転がっていた。
 フィリエの上から飛びのいた男が、剣の柄に手をかける。その剣が引き抜かれるより、ラドルフの剣がその腕を捕える方が早かった。空に鮮血が飛び、引き抜きかけた剣が石の床にけたたましい音を立てて落下する。間髪入れずにその剣を部屋の外に蹴りだし、異形の男は躊躇うことなく、王子の首筋に刃を当てた。
「貴様……わたしを誰だと心得る。こんなことをしてただで済むと思っているのか」
「お前が何者であっても俺には係わりない。俺は依頼者が裏切らない限り、任務を遂行するだけだ」
 黒い髪を靡かせ、一欠けらの感情も見せずに言い切る姿は、戦場で生きる孤高の傭兵そのものだった。今、ラドルフがほんの少しその腕に力をこめれば、王子の端整な首は跳ねて跳ぶ。だが見事に鍛えられた男の右腕が、それ以上動くことはなかった。
「さあ、ここから先はあんたの仕事だ。……ロルカ国王殿」
 剣を手に仁王立ちとなった男の背後から大勢の兵士が駆けてきて、ディラン王子の周囲を取り囲んだ。人の輪の向こうから一人、白い頬に無数の雀斑を浮かべた少年が進み出て、美貌の王子の両腕に罪人用の手鎖をかける。
「……義兄上、残念です」
 それではあの少年が、ロルカの新国王――マルコ3世なのか。少し離れたところで行われた逮捕劇を別世界の出来事のように呆然と眺めながら、一連の出来事のすべてが終わったのだと、フィリエは悟った。



 ロルカ王とその兵士達が去った後、離宮にはフィリエとラドルフだけが残された。数日間も馬車に閉じ込められていた上に、引き倒されて服を裂かれ、きっと酷い有様をしているのだろう。脱いだ上着を肩からかけられ、両手と両脚の拘束を剣の先で器用に解いてくれる。ようやく血の巡りを取り戻した身体にほっと息を吐いていると、フィリエの目の前で男は深く頭を垂れた。
「すまなかった」
「あの……ラドルフさん……?」
「あんたの腕が立つことをあてにして、護衛の仕事を疎かにした。こんな目に合わせてしまったのは俺の責任だ」
「違います!あれは、わたしが!」
 タチアナの湯治場で、使用人の暮らす塔に向かったのはフィリエの意志だし、そもそもあえて護衛の数を減らして敵をおびき出しておいて、まんまと囚われていては笑い話にもなりはしない。あともう少しで、父と兄に多大なる負担をかけていたという事実に、今更ながらに背筋が凍る思いを味わう。
「違います。わたしの考えが甘かったんです。その所為で迷惑をかけて――」
「……おい」
 どうしたらよいかわからずにひたすら首を振っていると、思っていたより近いところで、黒い瞳に射抜かれた。剣を取って敵を倒す傭兵ではない。何かとても脆くて壊れやすいものを観るかのように、ラドルフの視線はフィリエを包み込んだ。
「俺に姫扱いをするなと言ったのは、お前だろう」
「……」
「だから、俺の前では、そんな風に無理をして姫様にならなくていい」
 自分でも気づかぬうちに目の縁まで浮かんでいた涙が、顎先を伝ってぱたぱたと床に散る。
 ああ、わたしは今、泣いているのか。気づいた瞬間、喉の奥から嗚咽があふれ出してきて、留めようがなくなった。
「……わ、わたし、本当は怖くて」
 父と兄に迷惑をかける前に死のうとしたのに、その時の苦痛を思ってほんの一瞬、躊躇した。
「お父様とお兄様に迷惑をかけるってわかってるのに、怖くて」
「……ああ」
 低い相槌が、耳ではなく肌を伝って聞こえてくる。大きな固い手が、とん、とん、と背中を打つ。その感触は幼い頃、母に寝かしつけられた時の子守唄のリズムに良く似ていた。
「わたし……わたし」
 後はもう、自分でも何を告げたいのか、訴えたいのかわからなかった。それでも、フィリエの嗚咽がすすり泣きに変わるまで、ラドルフはずっとその心地よいリズムを奏で続けていてくれた。





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