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月の宝珠
第五章 夢のあとさき〜


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 ラドルフが指輪を渡して以来、浩漢は出歩くことが多くなった。何処の誰かとしきりに便りを交わし、夜も更けた頃になって、宿屋に帰ってくる。安閑を出れば後はもう国境を越えるだけなので、旅券やら旅の手配やらで、忙しいのも本当だろう。だが、未だに正体不明の男が手繰っている糸の正体は、そんな単純な事象ではないはずだ。
 浩漢は宿に戻って来ないし、フィリエがやって来ることもないとなると、ラドルフの周囲はいたって静かなものだ。昼食後から1人で部屋に引き篭もって、磨き上げた愛剣を見る。インバート家の祖が、建国の功によって初代ローデシア国王に与えられたという名剣。どれほど血脂を吸おうとも、曇ることもなければ、刃こぼれさえも滅多にしない。
 剣の手入れを終え、刃を鞘に戻した時、入り口の戸がガタガタと鳴った。
「――浩漢なら、まだ、帰ってきてないぞ」
 訪問者は、西大陸の小さな姫君――醒国の公主である小麗だった。
 普段はフィリエと行動を共にしているが、西大陸の人間同士、時には互いしかわからない話をしたいこともあるのだろう。そう思って告げた言葉に、少女は片手を腰に、そしてもう一方の手で、びしりとラドルフの顔を指差した。
「私はそなたに話があって来たのじゃ、ラドルフ!」
「俺に?」
 彼がよく知る姫君には、すぐに拳を握り締めて力説するという悪癖があるが、どうやらこちらの姫君は、人を指差すことがお得意らしい。人に顔を指差されるのはこれが初めてではないが、ここまで正々堂々、人差し指を突きつけられて睨まれるのは、無論、初体験である。
「そなた!フィリエのどこか不満なのじゃ!」
「……は?」
「あんなよい娘を振って泣かせて、そなた、いずれ天罰が下ろうぞ!!」
「ちょっと、待て。何の話をしているんだ、一体?」
 まったくもって理解不能な展開に、頭痛を通り越して眩暈がしてきそうだった。
 この少女と行動を共にしてしばらくたつが、交わした会話は朝晩の挨拶くらいで、これまで2人きりでまともに話したこともない。それをいきなり部屋に踏み込んで来て、失礼にも人の顔を指差した挙句、わけのわからないことをわめき立てられれば、ラドルフでなくとも混乱する。
 そもそも振るの振られるのとは、誰と誰の何の話だ。今の状況を鑑みるなら、どう考えても、振られたのはラドルフの側であろう。――いや、別に泣きはしないが。
 そうして、ラドルフをにらみ付けた後、来た時と同じ唐突さで、小公主は踵を返して部屋を出て行った。かまいたちにでも遭ったかのようで、呆気に取られて動くことのできずにいた男が、その言葉の意味をかみ締めたのは、少女の姿が消えてから、たっぷり3分は経過した後のことだった。
「……泣いていたのか」
 ラドルフはこれまでに、フィリエが泣くところを一度しか見たことがない。出会って間もなく、タチアナの湯治場から攫われた彼女を救い出した時、彼女は父と兄に迷惑をかけないように、自害の道を選べなかった自分自身を激しく悔いていた。あまりに痛ましくて見ていられなくて、気づいた時には、思わず抱きしめていた。
 あの時あの瞬間にはじまって――そして、あの日の河原で終わったものの正体は、名づけるなら何と呼ぶべきものなのだろう。
「クソっ……」
 握り締めた拳に、爪の先が食い込む。
 周囲を山に囲まれた安閑の街は、黄昏が長い。茜色に燃える稜線の向こうから、夕闇が密やかに忍び寄っている。



 黄昏が完全に夕闇に変わっても、浩漢は宿に帰って来なかった。夜が更けると酒場に様変わりする宿屋の食堂で、少し早目の夕食を摂るために下りて行くと、卓の上には、既に様々な料理が並べられていた。蒸した米に、炒めた野菜、そして人間の拳大はあろうかという蛙の丸焼き。
 例え見た目にどれほど抵抗があろうが、食料であることに違いはない。飢えることに比べれば、食べ物の種類をとやかく言うことがどれほど贅沢であるかも知っている。野宿の最中なら、蛇でも蛙でも食うことに抵抗はないのだが、こんな風に皿にのせて食卓に上げるのであれば、せめて元の姿がわからないように、煮るか焼くかでもしてくれればいいものを。頬をひくつかせたラドルフの眼前に、おもむろに、箸を掴んだ腕が伸びてきた。栗色の髪を持つ姫君が、丸焼き蛙の一匹を、自分の皿に運んで行ったところだった。
「いただきます」
「……食うのか、それを」
「え?ラドルフさん、何か言いました?」
「いや、別に」
 フィリエとて東大陸で育った身、食に関する感覚はラドルフとそう変わらないはずなのだが、どうやら、ほんの数日遠ざかっただけで、この姫君がどれほどの変わり者か忘れていたらしい。口の端から蛙の脚をはみ出している娘に向かい、ラドルフは密かに息を吐き出した。
「――フィリエ」
「はい」
「話がある。食い終わったら、ここに少し残ってくれないか」
 口の中で蛙を咀嚼しながら、栗色の尻尾が小さく頷く。
 ――いつまでも、このままでいられないことはわかり切っていた。
 望んだことではないとはいえ、彼らは今、醒国の王と景国の公主の結婚という大事に係わってしまっている。事態が何らかの進展を見せた今、近いうちに浩漢と、一度腹を割って話し合う必要がある。そしてその前に、自分達の問題には自分の手で、片をつけておかねばならない。
 ただのお姫様の護衛でいるのは御免だった。それくらいだったら、二度と会うことも、声を聞くことも――その生死すら知ることもない彼方に行ってしまいたかった。そうでないなら、すべて欲しい。微笑む顔も名を呼ぶ声も、差し出された手も、すべて捕えて自分のものにしたい。
 無事に景国にたどり着けば、光州半島から東大陸に渡る横断船が運航している。夢の時間は終わりだ。お姫様はあるべき場所に戻り、彼はまた、独りに戻る。――そう、戻るだけのことだ。
 気を取り直したラドルフが、青梗菜の炒め物に箸を伸ばした時、食堂の入り口から飛び込んできた者があった
「――大変だ!ついに、醒国がやらかした!!」
 旅人らしい、背中に行李を背負った若い男が、随分と早口でまくし立てている。その口から故国の名を聞いて、小公主の顔色が変わった。周囲の客もまた、食事の箸を止め、男の様子に聞き耳を立てている。
 仲間が先に宿を取っていたのだろう。テーブルについていた男の1人が、息を切らした男に白湯の入った椀を差し出している。受け取ったそれを一気に飲み干し、駆け込んできた男は目を血走らせていた。
「俺は今さっき、安閑に着いたんだが。妙に役人達に落ち着きがなくてさ。聞いちまったんだよ。――醒国が和睦を破棄して、景国に攻め入ったらしい」
 小麗の手から、箸と椀が転げて落ちた。





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