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月の宝珠
第五章 夢のあとさき〜


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 1
「――なるほど、それは大変だったな。しかし、あんたらが無事で良かった」
 浩漢と小麗に再会できたのは、卑族の襲撃の数日後、景国との国境に程近い地方都市、安閑(あんかん)でのことだった。
 あんな形ではぐれた後、一応、こちらが見つかるまで旅を中断してはくれたようだ。近辺で一番大きな街で訪ね歩くと、意外と簡単に、2人の滞在先は見つかった。こちらには土地勘がまるでないのだから、探してくれても良さそうなものなのに、どうやら、そこまでする気はなかったらしい。
 昼食時を終え、閑散とした宿屋の食堂の一角で、ラドルフは再会した浩漢と向き合っていた。
「卑族については、一応、手を打ってはいるんだ。定住する土地を提供し、一定の援助を約束してもいる。だが一部がどうしても……国に従おうとしない」
 薄緑の茶を口に運びながら、浩漢は苦虫を噛み潰したような顔をしている。ラドルフが茶椀に手を伸ばした時、食堂脇の階段――宿屋の2階にから続く階段に、軽やかな足音が響いた。小麗と同じ一室に泊まっているフィリエも、きっと茶でも飲みに下りて来たに違いない。食堂と階段の踊り場で、確かに目があった。だがその次の瞬間、ラドルフは黙って視線を逸らし、フィリエはそれ以上階段を降りることなく、そのまま来た道を駆け上っていってしまった。
「あんたら、あの里で2日も一緒に過ごしたんじゃなかったのか?」
 まさかその為に、探さずに放っておいたわけでもあるまいが。訝しげに問うてくる旅の道連れに、返す言葉があるはずもない。わずかに顔を歪めたラドルフに向かい、浩漢は重ねて問いかけてくる。
「何かあったのか?」
「――いいや、何も」
 あの川辺での出来事以来、ラドルフとフィリエの間には、何とも形容しにくい空気が漂っていた。互いに言うべき言葉を見つけられずに、顔を合わせるたび、どちらからともなく視線を逸らす。フィリエがラドルフの手に指を絡めることも、ラドルフがそれを握り返すこともない。
 そう、今の彼らの間には、何もない。あったと思っていたものを失くした――いや、そんなものは、実ははじめからなかったのだと思い知っただけのことだ。
 茶の味が苦く感じるのは、きっと、茶葉を使いすぎた所為だ。一口飲んだだけの茶碗をテーブルに戻し、ラドルフは目の前の男に向けて、銀色の指輪を投げつけた。
「あの村を襲った卑族の1人が、つけていたものだ。――栄雅で、俺を雇った男も同じものをしていた。どういうことだ?卑族と醒公主の輿入れを阻む連中との間に、何の繋がりがある?」
 あの夜、ラドルフが駆け出した時には、既にほとんどの卑族が、村から立ち去った後だった。
 遠尚も黒装束も見つけられなかったが、村人の返り討ちにあったらしい数少ない黒装束の死体の一つに、この指輪が嵌められていることに気がついた。死体から抜こうとしてもどうしても抜けず、やむを得ず手首ごと切り落として河原で洗って、指輪を引き抜こうとしていたところを、フィリエに見られたのだった。
 ラドルフが投げつけた指輪を握り締め、浩漢は眉根を寄せて黙り込んだ。西大陸の呆れるくらい多々方面に伝手を持つ男が、本気で黙り込むくらい、この事実は重たいということか。国やら戦争やら、国王やら政略結婚から逃げ出して西大陸にやって来たはずなのに、どうして異大陸の片隅で、またしても同じことに係わり合うことになってしまったのか。
 いや、あの頃の方がまだましだったか。どうせ手には入らないと、はなから諦めていた頃の方が。
 はじめから、分不相応な望みであることは自覚していた。望むだけならまだしも、その手を取ってこんな異国の端まで連れてきて、彼女が拒まないことをいいことに、何もかもすべて自分のものにできると、ほんの一瞬、浅はかにも思い込んでいた。
 フィリエの気持ちが自分から離れたのならば、もうそろそろこの辺りで、手を離してやるべきなのだろう。――わかっている。わかっているのに今、たまらなく、息をするのが辛い。
 押し黙ったラドルフに構うことなく、銀の指輪を検分していた浩漢がぽつりと呟いた。
「……なるほど、そういうことか」



 何も持たずに部屋に戻ってきたフィリエを見て、小麗は目を丸くした。つい数分前、他でもないフィリエ自身が、茶葉を取り替えると行って席を立ったのだから、それは当然のことだった。
「フィリエ?どうしたのじゃ?何かあったのか?」
 問いかける少女に向かって、小さく首を振り、自分の寝台の上で膝を抱える。
 脳裏に浮かぶのは、この事態を作り上げた数日前の出来事――あの河原での出来事だった。
 ――いやっ!
 あの瞬間、ラドルフは芯から傷ついた目をしてフィリエを見た。
 今になって思えば、死体愛好家か収集家でもない限り、好んで人間の身体の一部を切り取って持ち歩く人間などいるわけもなく、ラドルフが取った行動には、恐らく、何かしらの意味があったのだろう。あの時、フィリエが取るべき行動は、その理由を問うことであって、彼を拒むことではなかったはずだ。
 いや、今からだって遅くはない。近づいていって話しかけるべきだとわかっている。だけど、そのきっかけの言葉が見つからない。ごめんなさいと謝ったなら、多分もっと酷く、彼を傷つけそうな気がして。
 フィリエは今の今まで、自分の言動が誰かを傷つける可能性があるということを、ほとんど自覚することなく生きてきた。父と兄は家族の中で最も弱小で力ないものとして彼女を慈しんでくれたし、それ以外の人間は、フィリエを王女として、粗相ないよう仕えてくれた。
 どれほど甘やかされていたのか、今ならよくわかる。だから今、誰より大切な人に、かける言葉の一つも自力で見つけられない。
「もしかして、夫婦の危機というやつなのか?」
 眉を顰めた小麗が、真顔でそんなことを聞いてくる。
「……そうかもしれない」
 抱えた膝に顔を埋め、ぽつりと呟く。
 西大陸に旅立つ前、フィリエは隣国の王に嫁ぐ直前だった。年嵩の侍女や教育係は古典的に絵巻物で夫婦の営みについて説明してくれたが、実のところ、年齢の近い侍女達との噂話やらもろもろで、フィリエは結婚した男女が夜に行う営みが、同じ寝台で休むだけではないことは知っていた。だから本当はわかっている。自分達がまだ、本当の意味では夫婦になっていないということは。
 惨劇の夜、ラドルフに夜具の上に組み伏せられた時、未知のことが怖くはあったが嫌ではなかった。これでもう、何をもってしてもこの人と引き裂かれることはないのだと、安堵さえしていた。
「好いた男と結婚しても、そういうものなのなのか……」
 フィリエの心中に負けない位の重苦しい呟きに、驚いて顔を上げて少女を見る。見上げた先で、西大陸の公主は目を細め、唇の端をかみ締めていた。
 この年頃の少女は、ほんの少し見ないだけでも劇的な変化を遂げるものだが、再会した後、小麗は以前よりほんの少し、大人びたようだった。その変化には、相応の所以があるはずだ。
「小麗……?」
「ち、違うぞ!私は、別に!」
 もしも、小麗が誰かに心惹かれたのだとしたら。その相手はたった一人しか考えられない。
 フィリエも人のことは言えないが、一国の公主ともなれば、世間を知らず、異性からも遠ざけられて育つのが通常だ。国を出るまで、家族以外の成人男子とは、まともに口をきいたことすらなかったに違いない。
 ましてや、浩漢はラドルフも認めるほどの使い手であり、世間知もあって頼りがいもあり、しかもかなりの美男子である。世間知らずの公主が何日も行動を共にして、心惹かれれない方が不自然なくらいだ。
「ば、馬鹿を言うな!私は、景の王に嫁ぐ身なのじゃぞ!それを、たかが、護衛の男なんぞに……」
 言いながら、語尾がだんだん弱まり、かすれて行って消えて行く。かつて自身の護衛であったラドルフに惹かれ、国と政略結婚を捨てて逃げ出してきたフィリエに責めることなどできやしないが、小麗が細い肩で背負うものの重みは、あの頃のフィリエとは桁が違う。
「私は醒の公主じゃ!――公主なのじゃ!」
「小麗……」
 まるでそれが魔物に打ち勝つ最後の呪文であるかのように。唱え続ける小さな友の肩を抱き寄せながら、フィリエは窓の外に聳え立つ、赤茶けた山々を見た。
 あの山の向こうに待つのは、延国と景国との国境。――旅の終わりが、近づいていた。





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