×

[PR]この広告は3ヶ月以上更新がないため表示されています。
ホームページを更新後24時間以内に表示されなくなります。



月の宝珠
第四章 飛沫の夢〜


扉へ/とっぷ/戻る



 西大陸にも、不幸中の幸いという諺があるのだとしたら、まさしく、今のラドルフとフィリエの状態そのものだった。
 幸いだったのは、落下した谷川の水深がそれなりにあって衝撃を緩和してくれたのこと、不幸だったのは水の流れが思ったよりも速くて、岸辺に泳ぎ着くことができなかったことだ。片手に二つの剣とフィリエの身体を、もう一方で流れてきた流木にしがみつき、ラドルフは腕の中の娘の状態を確認する。
 落下の衝撃で気を失ったらしい。抱え込んだフィリエは先ほどから、ぴくりとも動かない。顔を近づければ息をしているし、見たところ大きな怪我もなさそうだが、このまま水に浸かっていて展望が開けるわけもない。
 何度目かに水を掻き分けた時、靴の爪先がわずかに川底に触れた。通常、川というものは上流に近いほど深くて流れが速く、下流に近づけば近づくほどに浅くなって川幅が広がって行くものだ。自然の摂理に従い、ようやく、ラドルフの身長が水深に勝ったのだ。
 足下の固い感触を蹴り上げ、思い切り水を掻く。一体どれくらい流されたのか見当も付かないが、川岸には渡しが見える。恐らく近くに人里がある。それも、渡しを使ってたびたび利用するくらい、近くに。
 流れに抗いながら必死に泳ぎ続けて、腰から上が完全に水から浮上した。粉袋を担ぐようにフィリエの身体を肩に背負い、一歩、一歩、慎重に岸辺を目指す。
 水嵩は明らかに減少し、気づいた時には石塊だらけの川辺に倒れこんでいた。這うようにして、横たわったフィリエの上に覆いかぶさる。血の気を失くした唇に耳を近づけ、次いで、左胸の鼓動を確認する。大丈夫だ。気を失ってはいるが――頼もしく脈打っている。
「助かった……」
 生死の狭間ならば飽きるくらい経験してきた男の、嘘偽りない感想がそれだった。生き延びてよかった。失わなくてよかった。いつだって、手放す覚悟はしていたつもりだけれど、それでもこの温もりが失われなくて、本当によかった。
 見上げた空では太陽が斜めに傾き、黄昏が山の彼方から下界を覆いつくそうとしていた。以前に比べ、随分と陽のある時間が短くなった。
 人里を探すことも、周囲の流木を集めて火を熾すことも考えたが、体力を限界まで使い切った手の先も足先も、鉛でも詰め込まれたように重い。力なく投げ出された傷だらけの白い手を掴み取った時、頭の上で、誰かの叫ぶ声がした。
「おい、どうしたんだ?!大丈夫か?あんたら――」
 どうやら渡し場を利用している地域の住人が、川辺に倒れた哀れな濡れ鼠の姿に気がついたらしい。渡し場に向けて手を振りながら、ラドルフはようやく、全身の力を抜いた。
 


 ラドルフとフィリエが流れ着いたのは、景国と延国の国境近くにある薫里と呼ばれる小さな集落の渡し場だった。
 貴洲の街で一度地図を開いて、国境付近の地名を確認したが、薫里という名の村を見た覚えはない。ということは――地図にも載らないくらいの小さな集落ということだろう。西大陸では許可なく州境を越えるのは、犯罪に当たる危険性があるが、望んでやったことではないので、大目に見ていただきたい。
 意図せず境界侵犯の罪を犯した翌日、ラドルフとフィリエの姿は、山を切り開いてできた畑の上にあった。
「これをあっちまで、運べばいいんですね?わかりました、任せて下さい!」
 とうもろこしの入った籠を抱えて、フィリエが拳を握り締めている。旅の金の管理をしていたのは浩漢なので、ラドルフとフィリエには西大陸で通用する貨幣の手持ちがほとんどない。行き倒れ寸前の人間を拾い上げ、介抱してくれた恩義は、働いて返すしかないというわけである。
 幸い、収穫期真っ只中の農村では、畑仕事ならば飽きるくらいにある。得たいは知れないし信用もしていないが、一応、こちらが行方知れずになったなら、探してくれる程度の義理はあるだろう。浩漢達がこちらを探し当てるまで、この里に留まることを決断したのはラドルフだが、最近労働の楽しさに目覚めたらしいフィリエは妙に張り切っている。土に汚れた籠を持ち上げて、里と畑を行き来する顔は、満面の笑みだ。
「最初に、ずぶ濡れのあんたとあの娘を見つけた時には、どういう組み合わせかと思ったが。まさか、夫婦だったとはな」
「……まあな」
 質素な野良着に身を包んだ弁髪の若者が、フィリエとラドルフと交互に見やっている。旅の道連れが散々、「誘拐犯と攫われた令嬢」だと言ってくれたおかげで、今更、それほど感じ入るものもないが、他人に出会うたび、一々関係性を疑われる夫婦というのはいかがなものなのだろう。若者と共に、自分が割った薪を抱えて持ち上げようとした時、ぐらりと視界が斜めに傾いだ。
「おい、大丈夫か?」
「ああ……、悪い」
 年齢はラドルフとさほど変わらない、朴訥と感じの若者が慌てて脇を支えに来る。体力が回復しきっていない状態での川流れに無理があったのは事実だが、これが戦場ならばそんな甘いことは言っていられない。平穏そのものの野良仕事に、少し気が緩んだのかもしれない。
 気を取り直したラドルフが再び薪を取り上げた時、籠を抱えたフィリエが息を切らして走りよってきた。
「すみません、この人病み上がりなんです。今日だけ休ませてもらえませんか?その分、わたしが働きますから!」
「よせ、フィリエ。――少し気が緩んだだけだ」
 彼女の肩を掴んで口を塞ぐより先に、村人達がわらわらと集まってきた。腰の曲がった老婆がばしばしとラドルフの背を叩き、いい年をした若いもんが情けない……などと、のたまっている。東大陸なら散々放浪したラドルフの経験上、来客に寛大なのは町の民や遊牧民で、農耕民はどちらかといえば余所者に閉鎖的だ。とはいえ、どこにでも例外というものはある。
「そうだな。あっちの木蔭ででも休んでてもらうか」
「そうだ、それがいい」
 いや、俺は何ともない、働ける、と訴えるラドルフの台詞は、はじめからないものとして、無視される運命にあった。



 野菜を畑から村に届け終えた後、フィリエに与えられた仕事は、子供達の相手だった。
 寝かせておけば動くことのない赤子と違って、幼児は目を離すと自分の足で歩いて行ってしまう。畑脇の用水路や小川は、場所によっては油断のできない深さがあって、幼子を持つ親にとって、子守はかなり重大な問題だ。2歳から5歳くらいの幼児に囲まれて、土の上に何やら描いているフィリエは、刺客相手に剣を振るっている時と同じくらい、楽しげに見えた。
 時折、顔を上げては、笑顔でこちらに手を振ってくる。少し離れた丘の上の大樹の下で、ラドルフは随分と高いところにある、澄み渡った空を見た。
 この里を吹く風は清い。西大陸も最近は戦やら何やらで色々きな臭いらしいが、少なくともこの近辺では、血臭を感じることはなさそうだ。
 体力が回復し切っていないのは本当だし、寒くもなければ暑過ぎもしない心地のよい陽気に、眠気が襲ってきそうになる。外した剣を片手に立てた片膝に顔を埋めた時、背後の枝が揺れた。
「誰だ?!」
 殺気はない。あったらもっと早く気がついている。しかしラドルフが剣を抜くより先に、その人物は、随分と近い位置にいた。先ほど薪割りの最中に倒れたラドルフを支えてくれた、朴訥とした若者である。
「あ、ああ、驚かせたか。すまん」
 ひらひらと片手を振って、邪気のない笑い顔を見せる。見たところ、本当にただの善良な村人であるようで、敵意も害意もこれっぽっちも感じられない。しかし、赤の他人にこれほど近づかれて気がつかない程、俺の気は緩んでいるのか。久しく経験したことのない感覚に打たれたようになったラドルフに向かい、若者は気まずそうにぽりぽりと片頬を掻いた。
「あんた、病み上がりって言っていたが、それはその……」
 若者の言葉が何を指し示しているかは、言われなくともわかる。すっかり気が緩んでいた為、顔を隠すフードも風避け布も外している。陽の光の下で見るラドルフの姿は、通常ならば目を背けたくなるような様相だろう。
「いや、これは古傷だ。……昔、住処が火事で焼けたことがあってな」
 言いながら、こんな事を他人に説明するのも、本当に久し振りであることに気がついた。フィリエや浩漢には説明する間もなく受け入れられたし、それ以外は大抵、一目で顔を歪めて立ち去って行く人間ばかりだ。戦場で刃を交える時に、一々そんな会話を交わしている暇がないのは、言うまでもない。
「そうか。ならばどうだ。――食うか?」
 そう言って若者が差し出してきたのは、橙色の眩しい根野菜――人参だった。
 この野菜ならば東大陸でも馴染みがある。故郷のローデシアでは、シチューやポトフの具になったし、まだ実家で暮らしていた幼い頃には、母親が何にでもこのすり下ろしを入れていた記憶もある。
 しかし、生のままの人参を丸ごと差し出されるとは――俺は、馬か?
 正直、かなり驚いたので、人参を一本、抵抗もなく受け取ってしまっていた。洗ってあるから食ってみろとけしかけられ、先端にかぶりつく。一口齧って租借すると、瑞々しい香りが口いっぱいに広がり、ほのかな甘みが舌全体に広がった。
「……美味いな」
 思わず、そんな言葉が口を吐いて出る。甘いものは苦手だが、大地と陽光に培われた甘みには、そんな感覚を覆す何かがあった。砂糖の甘さとは違う、身体の奥底に染み渡って行く味だ。
「だろう?これは俺が品種を改良したんだ。いつか、これを西大陸中に広めるのが、俺の夢なんだ」
 ラドルフの感想に、若者は膝を打って喜んだ。多分、年齢だけならばそう変わりはしない。だが、生きるということと人殺しが同義である男と、野菜の生育に人生にかける男との間には、天と地ほどの違いがある。
 見下ろした先では、子供に囲まれたフィリエが、何やら歌を歌いはじめたところだった。西大陸に渡る船の中で、彼女が歌っていたのと同じ曲だ。俺相手に歌う時にはあんなに躊躇ったのに――と思わないわけではかったが、そこに嫉妬する程、心が狭いわけではない。
 手の中の人参にもう一口齧りついて、ラドルフは瞼を押し伏せた。
 澄んだ空。緑の大地。瑞々しい野菜と――笑っているフィリエ。
 この場所は心地がよい。――とても、とても。



 一日の労働を終えた夜、ラドルフとフィリエが与えられたのは、村から少し離れたところにある、藁葺き屋根の小屋だった。
 最初に渡し場で助けてくれた村人の、今は街に働きに言っている長男が、妻を迎えた後に使っていた住処であるそうで、土間が一つに続きの部屋が一つ、部屋の端に整えられた寝台の夜具は、どうやら好意で干して置いてくれたらしい、湿り気もなくふんわりしている。
 こざっぱりとしいて、清潔で、居心地のよさそうな家だ。だが小屋の入り口から中を覗いて、一瞬、ラドルフは固まった。傍らで、フィリエも棒立ちになっている。新夫婦が使っていた家だと聞いた時点で、想像しておくべきだった。いかにも寝心地のよさそうな寝台は、家の中に一つしかない。
 こちらから夫婦だと関係を明かしているので、一つ屋根の家を与えられたことも、そこに寝床が一つしかないことも、感謝しこそすれ、不満を持つ謂れなど微塵もない。正式な夫婦になって数ヶ月、未だに同じ寝床で眠ったことがないことの方が、本来ならば異常なのだ。
 しばし硬直した後、最初に解凍したのはフィリエの方だった。意味もなく、拳を握り締め、ラドルフの顔を振り仰ぐ。
「ラ、ラドルフさん、今日はちゃんと寝台で寝てくださいね。じゃないと、体力回復しませんよ!」
 この状況で、「寝台で寝る」ということの本当の意味をわかって言っているのなら、ラドルフとて、遠慮なくその言葉に従うところなのだが。小さく息を吐き出しながら、ラドルフは己の妻に問うた。
「なら、お前はどこで寝るんだ?」
「わたしは床の上ででも――」
 やはり、そう来たか。予想された回答に内心で深く息を吐き出しながら、ラドルフはずかずかと部屋に上がりこみ、寝台上の毛布を一枚、取って出た。村はずれのこの小屋に来る途中に、村共有の厩あった。中にいたのは馬が一頭と山羊が数匹程度のようだったが、あの中でなら、藁と生き物の熱気で、それなりに暖かく眠れそうだ。
「俺は外で寝るよ」
「え、駄目ですよ、どうしてそんな――」
 追いすがってくる栗色の頭に掌を落とし、わしわしと乱暴にかき乱す。指に絡む絹糸のような感触に、心が動かないと言えば、嘘になる。――が。
「少しは察してくれ。――俺はここで寝た方が、ゆっくりと休めない」
 どこかで梟の鳴く声がする。夜は内に闇を孕み、どこまでも暗く、深い。





扉へ/とっぷ/次へ