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月の宝珠
第四章 飛沫の夢〜


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 雨が降っていた。
 目を眇めなければそれが雨粒だとわからないような、粒子の細かい霧雨だ。どれほどきつく襟元を掻き合せても、気づけば衣服の内側にまで入り込んで、ねっとりと肌に纏わり付く。
 鮮やかに色づいた木々の葉も、濃灰色の重たい雲も、すべてがどんよりとくすんで見える。先を行く人間達に気づかれぬようゆっくりと息を吐き出し、ラドルフは左手を目の前に持ち上げた。
 ――畜生……、前より酷くなっていやがる。
 滑らかな革の手袋に包まれた左手が、小刻みに震えている。満月の夜から、体力が回復しきっていない証だった。
 行き倒れの女を延国の王都である貴洲から送り出した翌日、ラドルフとフィリエも貴洲の街を後にした。
 貴洲からその次の安都まで馬車を使ったが、安都から西への峠道は、西大陸一の難関といわれる程の険しさで、馬を使うことができない。木の根の張り出した歩き難い山道を半日ほど歩いてもまだ次の街は見えて来ないようだ。
「ラドルフさん、大丈夫ですか?」
 旅の道連れから1人、遅れがちなラドルフを気遣って、フィリエが駆け戻ってくる。これまでにも満月の翌日から旅をしたことはあったし、地形の関係や血を浴びたか否かによって、呪いの発現には強弱があった。しかし西大陸に渡ってからの2度の呪いの夜は、これまで経験してきた苦痛よりさらに激しかったように思う。やはり他の人間を先にやってでも、しばらく休んでいた方がよかっただろうか。これまでのラドルフならば、ここで足を滑らせて滑落でもすれば手間が省けてよかったと思っただろうが、今の彼には連れがいる。この手を離さない為には、何としても道を踏み外すわけにはいかない。
「すまん。大丈夫だ」
 指に指を絡めて握り返すと、微かに頬を染めて見つめ返してくる。はじめの頃は気づかれないようにそっと振りほどくのが常だったが、こうして握り返すことを覚えてからは、正直、少々癖になった。何も掴んでいない時の掌が、もの寂しいと思うくらいに。
 見やった先では、少し先を行っていた浩漢と小麗が切り株に腰をかけて、休憩をはじめたところだった。浩漢は水の入った皮袋を取り出して、小麗は手拭で自身の顔や髪をしきりに拭っている。あそこまで追いついたところで、こちらも少し休息を、と気を緩めかけた時、背後で枝が揺れた。
「――おい、お前ら、女と金を置いて行ってもらおうか」
 木蔭で雨宿りをしていたらしい鳥達が、一斉に飛び立って行く。剣の柄に手をかけて、ラドルフはげんなりと息を吐き出した。
「……山賊か」
「山賊ですね」
 彼らが西大陸にやって来た時、最初に出迎えたのは海賊だった。今度は山で出あったのだから、やはり山賊というべきであろう。
 薄汚れた総髪、泥と髭に塗れた顔。手にはそれぞれに得物を持った複数の男達が、ラドルフとフィリエを取り囲んでいる。あちらはどうした……と見やった先では、小麗を背に庇った浩漢が、腰の剣を抜いたところだった。剣に槍に体術に、あきれるばかりの使い手の男である。放っておいても問題はないだろう。
 問答無用で剣を抜いて、ラドルフは山賊の一人に挑みかかった。大きな鎌のような武器を剣で弾いて、その喉を貫き通す。返す刀でもう一人の腕を切り落とした時、濡れた蔓草を踏んだ足が滑って、一瞬、身体の均衡を崩した。
 通常なら何ということもない戦闘中の一こま、だが今のラドルフにとっては、一瞬の隙も命取りになる。右腕を強かに打たれて、思わず剣を取り落としそうになる。畳んだ左肘を武器代わりに、相手の腹につきこんで、何とかその場を切り抜けようとした時、再び、ぐらりと視界が揺れた。
「ラドルフさん!」
 山賊を2人ばかり血祭りに上げたフィリエが、名を呼んでいる。どうやら戦っているうちに、随分と道の端に近づいてしまっていたらしい。その向こうに広がるのは峠道特有の土塊や木の根が張り出した斜面――いわゆる崖だ。
 無事かと叫んで戻ろうと踏み出した――その足先が虚空を踏んだ。枯れ草と木の枝がばらばらと何もない空間に散って行く。まったくもって迂闊だった。気づいた時には完全に道を踏み外し、ラドルフの身体は山道から滑落の一歩手前の状態にあった。
「ラドルフさん、掴って下さい!」
 手近にあった木の幹に身体を巻きつけるようにして、フィリエが右手を差し出して来る。その手を掴んで、張り出した木の根を支えにして、よじ登ろうと試みても、先ほどからの雨で濡れている所為か、どうしても上手くいかない。
「浩漢さん、お願いします!早く来てください!」
 共に行動するようになって以来、彼女のここまで切羽詰まった声を聞いたのは、はじめてのことだ。妙に冷静になった頭の片隅で、ふと、そんなことを思う。
 フィリエは必死で腕を伸ばしているが、彼女の力だけでラドルフを引き上げることなど不可能だ。背後を振り仰いだフィリエが再び浩漢を呼んだ時、フィリエがしがみついていた木の幹で、不穏な音が響いた。
 先ほどから峠の其処此処で見た、さほど太さも樹齢もない樹である。過去に土砂崩れでもあったのかもしれない。鋭角に切れ上がった斜面に根が張り出して、枝のほとんどが峠の外側に露出している。
 その根が――ラドルフとの体重とフィリエの負荷で、地面から引き抜かれそうになっている。
「フィリエ、手を離せ……!」
 ラドルフの顔と自らが支えとした樹を見比べて、それでもフィリエは手を離さなかった。かみ締めすぎた唇から血が滲み、汗と雨で濡れた栗毛を頬に張り付いてしまっている。
 傾斜を蹴り上げた靴先が、土くれを蹴り上げ、小さな石がいくつか下方に転がり落ちた。思わずその行く先を覗き見る。どうやら川が流れているようだが、その先は靄のような霧に阻まれて、どうにも判然としない。
 浩漢がたどり着くまでこの樹が持つ可能性と、ここから落下して助かる可能性とでは、果たしてどちらの方が高いだろう。うまく落ちれば命くらいは助かりそうだが、打ち所が悪ければ、確実に死ぬ。下に川が流れているなら、生き延びる可能性もなくなはないだろうが、それはあくまでも水深がそれなりにあって、衝撃を緩和してくれた場合に限る。
 思案の結果、片手を上着の内側に突っ込み、投擲用の短剣を引き抜いたラドルフを見て、フィリエの顔色が変わった。
「何をやって――駄目!ラドルフさん!」
 どうせこのまま時間を稼いだところで、待っているのは共倒れという最悪の結末だけだ。そしてそれはどうあっても、ラドルフの本意ではない。
 引き抜いた切っ先をフィリエの手に振り下ろそうとしたその瞬間、最後の砦であった樹の幹が、根元から音を立てて崩落した。



「――フィリエ!ラドルフ!」
 浩漢が、悲鳴に近い叫びを聞いたのは、山道に現れた山賊の最後の一人を倒し終えた時だった。
 治安の良さに関しては西大陸随一の延国ではあるが、さすがに延国自慢の衛兵達も、辺境の山賊までは手が回りきらないらしい。もっともこちらは4人――そのうちの3人は、それぞれ腕に自身のある使い手である。山道に薄汚れた男達が現れた時も、浩漢としてはさほど慌てもしなかった。彼にとって気にかかるのは、明確な意思を持った敵だけで、金や女目当ての山賊など、敵と呼ぶまでもない。
 血脂に濡れた剣を拭って鞘にしまい、山道の端で、がたがたと小刻みに震えている少女を見やる。
「どうした?」
 お転婆という言葉がそのまま姿形を取ったような少女ではあるが、さすがは大国の公主だけあって、人前でここまで動揺を露にしたことはこれまでなかった。そういえば、あの2人はどうなったと周囲を見やって、浩漢は初めて、今ここにあるべき人間の姿が2つ、欠けていることに気がついた。
 ラドルフが剣術に長けているのは無論、妻であるフィリエも相当以上の使い手で、あんな程度の山賊は、彼らにかかっては一たまりもない相手である。夫の方が、どうやら体調が優れない様子であることには気づいていたが、正直、彼らの心配などこれっぽっちもしてやいなかった。
「おい、あの2人はどうした?」
 華奢な肩を押しのけた、その向こうの茂みが割れている。樹の枝や背の高い草藪を掻き分けて、初めて、浩漢の顔色が変わった。
「まさか、ここから落ちたのか……?2人とも…?」
 見下ろす先には、靄に覆いつくされた何も見えない空間が広がっている。彼方の空で、谷渡りの鷺が、ひゅるる……と鳴いた。





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