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月の宝珠
第三章 風は吹いているか〜


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 延国の王城は、王都貴州の北面、紫雲山の頂(いただき)にある。
 現在の延王にはそれぞれ母親の違う公子が6人、そして正妃である后が産んだ公主が1人ある。数多い子の中で唯一の娘である公主を、王は事の外可愛がっていた。
 その公主が降嫁した1年前、相手が科挙に合格したばかりの若い官人であると知られた時、延国の王宮にはかつてないほどの衝撃が走った。王位を継げない公主は臣下に降嫁されるのが慣例ではあったが、これまでの相手は王族か貴族――どんなに身分が低くとも精々武将止まりで、一介の官吏が国王の婿になること未だかつてなかったからだ。
 地方の書生から一転、国王の娘婿となった幸運児の邸で、祝いの宴が催されたのは、火事騒ぎの起こった夜から数日後のことだった。
 新夫婦の間に待望の男児が誕生したことと、正式に国の要職――延国では宰相に継ぐ位である宰補の位についたことを同時に祝う、宴席だ。延国の名だたる貴族に王族や王都の大商人達が招かれ集う邸の一角に、ラドルフとフィリエは在った。



「――すごいですね。あの毛並みのいい栗毛馬、一頭いくらくらいするんでしょう?」
「おい、あまり身を乗り出すな。怪しまれるぞ」
 延国高官の邸が連なる界隈で、緑の生垣から身を乗り出したフィリエの後首で、一つに束ねた栗毛が揺れている。その襟首を掴んで引き摺り下ろしながら、ラドルフは小さく息を吐き出した。
 生垣の向こうに広がるのは邸の広大な敷地、建物と建物の合間は渡り廊下で繋がれ、フィリエが覗き込んでいたように厩もある。見事に整備された庭に敷き詰められた白石は海の近くから運ばれたものであろうし、咲き乱れる花々もこの地域の固有のものではないようだ。
「これは相当、金をかけてるな」
 腕を組んだ浩漢がぽつりと呟く。何しろ、国王の覚えもめでたい、飛ぶ鳥も落とす勢いとまで言われる宰補様の邸だ。珍しい花々も付け届けも、毎日山のように届くに違いない。
「――お待たせしました」
 物陰に身を隠したまま、しばらく邸の様子を伺っていると、背後で澄んだ声がした。絹糸のような髪を高く結い上げ、身にまとうは錦の衣――天女に見紛う程の美女がそこに立っている。
 傍らでは小麗が、得意げに胸を張っていた。目の見えない玉琳に化粧を施し、艶やかに装ったのは彼女の仕事だ。醒国の公主は拳を握りしめ、目に見えない敵に突撃するようにその拳を振り上げている。
「どうじゃ、美しかろう?さあ、薄情者の夫を後悔させてやろうぞ――」



 何故、今、彼らがこのような場所に在るのか。話は火事騒ぎの夜にまで遡る。
 フィリエの失言から明らかになってしまった夫の近況を、できうる限り淡々と、浩漢は玉琳に語って聞かせた。事実をありのまま聞かされた玉琳は、泣き出しも倒れもしなかった。寝台に腰掛けたまま黙って拳を握り締め、見えぬ目でしっかりと、浩漢の顔を見据えて見せたのだ。
「浩漢様」
「……」
「貴方様は、この西大陸でたいそう地位のある方とお見受けします」
 ラドルフが未だ知ることができない浩漢の正体を、やすやすと暴いてみせる。何を言い出すのかと目を見張ったラドルフとフィリエの目前で、薔薇の唇から驚くような言葉が沸いて出た。
「大変厚かましいとは存じますが、一つ、聞き届けてはいただけないでしょうか。――わたくしを、夫の居るところに連れて行って下さい」



 玉琳の発言に、夫の不貞に憤った小麗が乗り、対面はこの宴の夜と一方的に決まった。小麗はいざとなれば自分の地位を明かすとまでに意気込んでいる。醒国の公主の訪問ともなれば、相手も門扉を開かざるを得ない。その向こうに自分が捨てた妻を見つけて、相手は一体、どう出るのか。
「行くか」
 立ち上がった浩漢の合図に踵を返し、ラドルフは邸の生垣に背を向けた。
「俺はやめておくよ。――こういう人の集まるところは苦手なんだ」
 フードと風避け布で顔を隠していても、ラドルフの顔の左半分が焼け爛れていることは容易に見て取れる。ここに来るまでにも、すれ違った人間のほとんどがラドルフの姿を見ては、顔をゆがめて遠ざかって行った。
 一方、そんなことなどまるで気にしないフィリエの右手は、しっかりと、ラドルフの左手を握り締めている。今、身につけているのは指先の出ない秋冬ものの手袋――フィリエが街で買い求めてきたものだ。男の無骨な手に指を絡めて、滑らかな革の感触を楽しんでいる。
 イオニアの港町で婚姻の誓いをたててからというもの、フィリエはこうして、ラドルフの身体にたびたび触れてくるようになった。触れるといっても手を繋ぐ、指を絡める――あとは精々腕に掌を添える程度で、決して不快ではないが、どうせならば、こちらが触れ返しても差しさわりのない場所でやってもらいたいと思う。フィリエの手からそっと左手を引き抜いたラドルフを見て、浩漢が軽く口の端を持ち上げる。
「確かに、あんたは行かない方がいいな。あんたが顔を出した日には、祝いの席が一転――」
「人生の、裏街道になるな」
 西大陸の公主が真顔で講釈を垂れる。正体不明の男と大国の公主は、どうやら随分と息が合っているらしい。
「あのな……」
「大丈夫ですよ。ラドルフさん、わたしは裏街道でもどこでも、一緒に行きますから!」
 身も蓋もないフィリエのフォローに今度こそ本当に脱力しそうになる。これが、宴席に捨てられた元妻を連れて行き、修羅場を演出しようとしている人間の言うことか。
 項垂れそうな頭を無理やり押し上げて、西の空の頂に消え行く黄昏の名残火を推し量る。もうそれほど――猶予はない。
「ラドルフさん……」
 他所の夫婦の揉め事になど興味はないし、人ごみが苦手なのも本当だし、ラドルフがいれば必要以上に人を警戒させるので、いない方がよいのも嘘ではない。だが今、彼が姿を消さなければならない真の意味を、この場で本当に理解しているのはフィリエだけだ。
 栗色の頭に掌を落とすと、大きな鳶色の瞳と視線がかち合った。腕の中に引きずり込みたくなる衝動を寸前で堪えて、手の中の栗毛をわしわしとかき乱す。
「明日の朝には、必ず戻る」
 背中越しに軽く手を上げると、即座に、絶対ですよ!と返された。見なくともわかる。きっと拳を握り締め、顔を真っ赤にして叫んでいるに違いない。
 見えずとも想像できるようになってしまった自分自身に、ひそかに苦笑をひらめかせ。ラドルフは今来たばかりの道を下った。



 宴が始まったのは宵暮れ時、漆黒の夜空に浮かんだ満月が西空を明るく照らし始めた刻限だった。
 大広間にはいくつもの灯篭が灯され、煌びやかに着飾った大勢の人々が、思い思いに歓談を楽しんでいる。東大陸で言うところの立食パーティ形式で、食べ物はテーブルの上にあるものを自分で取って食べる。揚げ饅頭を頬張っていた小麗が、食の進まないフィリエを不思議そうに見上げた。
「フィリエ?どうしたのじゃ?食べないのか?」
「え、ええ……」
 今のフィリエの状態こそまさしく心に憂いと呼ぶべきなのだろうが、玉琳の横顔はさすがに緊張の色が濃い。この邸の主人である宰補は、まだ姿を現してはいない。
 気を取り直して、フィリエは邸の構造を見る。朱色の伽藍も玻璃の窓も、相当に腕のよい職人の手によるものだろう。醒国と景国の影に隠れて、東大陸にはあまり延国の情勢は伝わって来ないが、技術力の高さは、町並みやこの建物からも見て取れる。
 西大陸と東大陸の交流が復活したのはここ数十年、その前に数十年間の断絶があって、そのさらに前――百年以上以前には、今より更に活発な交流があったらしい。現在東大陸で使われている紙や羅針盤の技術は、当時の名残だ。
 しばらくそうして観察を続けているうちに、宰補夫妻が、扉の向こうに姿を現した。
 男は艶やかな弁髪を腰まで垂らし、鳳凰を織り込んだ豪奢な衣に身を包んでいる。妻たる公主は小さな足に底の厚い靴を履き、傍らでは乳母と思われる質素な身なりの女が、産着に包まれた赤子を抱いていた。
「あれが宰補とは……奴も耄碌(ろうもく)したものだな」
 フィリエの傍らで、浩漢が小さく呟く。高官や王族だけでなく、商人や街の有力者にまで門戸を開いた宴席とはいえ、本来ならばフィリエや小麗のような、異国の人間が容易に足を踏み入れられる場所ではない。この場所に入り込む為に、浩漢が何らかの手を回したことは間違いない。
 恐らく、浩漢の地位は、西大陸で相当高いところにある。しかし、醒国の公主を護衛し、延国の王府に伝手を持つだけの地位とは一体どんな身分だろう。
 そんなことをつらつら考えているフィリエの傍らで、こつり、と床が鳴った。白木の杖を付いた玉琳が、一歩足を前に踏み出す。一歩、また一歩、盲目の美女の只ならぬ気配に、そこにいた人達が驚いたように道を開けた。
 近づく玉琳の気配に男が気づいたのは、彼女がかなり近づいた後のことだった。満面の笑みで賓客をもてなしていた男が、幽霊でも見たかのように竦み上がる。硝子細工の盃が滑り落ち、足下の床に音を立てて散らばった。
「お、お前……」
「貴方?どうされたのです?」
 国王からの賜り物である妻が取りすがっても、男は妻を見なかった。震える目で、ただ玉琳だけを見ている。
「頼む、来ないでくれ……」
 ――はじめて出会った時、太陽のように眩かったと彼女は笑った。
 フィリエの目にその姿は、権と財に目の眩んだ、ただの俗物にしか映らなかった。シルヴィアの王宮で、毎日、飽きるくらいに眺めてきた俗物という名の仮面と、そっくり同じ顔に。
 人の本質を映し出す澄んだ眼に、今の男の姿はどう映っているのだろう。
 ――人は変わる。良くも、悪くも。
 名君もいつかは耄碌し、太陽のような志もいずれは俗物に成り果てる。
 永遠ともいえる一瞬、ざわめきさえもが遠ざかって行く空間で、やがて玉琳はにっこりと微笑んだ。成り立ての宰補と彼の傍らで赤子を抱いた妻の公主に向かい、優雅に一礼する。
「お初にお目もじつかまつります。宰補様、わたくしは維水郷が郷士の姪――玉琳と申します。以後、お見知りおき下さいませ」
 言い切った女の顔は、どこまでも艶やかに美しかった。



「――正体も明かさず、罵りもせず、黙って戻ってきたのか。それでよかったのか?本当に」
 宴の翌日、運よく維水郷へ向かう馬車が見つかった。延国から景国へ絹を運ぶ商隊の馬車だ。事情を話して掛け合うと、快く郷士の姪を送り届ける任を担ってくれた。これで郷士に恩を売ることができれば、新たな商売の場も開ける。故郷に帰りつくまで、きっと下にも置かぬ扱いをしてくれることだろう。
 言葉通り明け方に戻ってきたラドルフと、玉琳の乗った馬車を見送って、フィリエは小さく微笑んだ。
 フィリエの傍らでは、もうほとんど見えなくなった馬車に向かい、小麗が大きく手を振っている。彼らとて、いつまでも貴洲に滞在していられるわけではない。出立はもうすぐだ。
「わたし、わかるような気がします」
 ラドルフと並んで歩く道すがら、フィリエは土埃で覆われた街外れの道を見た。
「――あの日、ラドルフさんが、わたしを置いていなくなってしまった時」
 それがいつの出来事を意味しているか、ラドルフにはすぐにわかった。再会して以来、彼女があの時の出来事について語るのは初めてのことだ。
「どんなに探しても、ラドルフさんがどこにいるのかわからなくて。生きているのか……死んでいるのかも知れなくて」
「……」
「元気でいるかなぁって。どこかで怪我をして苦しんでいないか、とか。盗賊とか山賊にやられてしまっているんじゃないか、とか、山奥で熊に襲われて食べられたりしてないか、とか」
「フィリエ、お前な」
「でも、ラドルフさんは殺されたって死ぬような人じゃないから、きっと大丈夫だって思ってましたけど」
「喧嘩を売ってるのか、お前は」
「だから、もうわたしのことなんて忘れてしまってるんじゃないかって。それが、本当は何よりも怖かった」
 身勝手ですよね、と呟いて、眩しそうに目を細める。行方の知れない相手の無事を祈るより、自分を忘れられることの方が怖いなんて。
「だから、ご主人が自分のことを忘れていないって確かめただけで、玉琳さんの目的はほとんど果たされていたんだと思います」
 何とも言う言葉が思いつかず、ラドルフはフィリエの手を握り締めた。もしかするとこちらから握ったのは初めてかもしれない。つい加減がきかずに力が入ってしまう。
「お前、俺と最初に会った時、何をやったか覚えているか?」
「ラドルフさん?」
 夜薔薇の匂いも香しい王宮の庭で刺客に襲われて。事もあろうにスカートの中から剣を取り出して、啖呵を切って見せたのだ。この姫君は。
「お前みたいな何をやらかすかわからない女を、忘れられるわけがないだろうが」
 この返答が、正しかったかどうかはわからない。だが虚をつかれたようにラドルフを見上げたフィリエは、うれしそうに微笑んで、掴んだ手に指を絡めてきた。
 見上げた先には白と黒の町並みが広がり、紫雲山の山頂から朝陽が顔を出していた。正直、未だに呪いの夜には慣れるということがないが、その翌朝、こうして迎える朝陽は嫌いではなかった。明けない夜はない。その夜がどれほど苦痛に満ちたものであったとしても。
 街外れの道は所々に雑草が茂り、石畳が欠落して土がむき出しになっていた。他所の町から貴洲に向かう荷馬車が何台も、走り抜けて行く。
 忘れることができるのなら、こんなにも捕らわれたりはしない。自覚はある。きっと自分は、息が途絶える最後の瞬間まで、この温もりを求めてもがき、足掻き続けるのだろう。
 ――例えいつの日か、彼女が彼を忘れたとしても。



 馬車の軌跡さえ見えなくなるまで見送って。先を行くフィリエとラドルフの後を追いかけようとした小麗の後ろ首を、浩漢が掴み取った。そのまま猫の子でも捕えるようにぶら下げられてしまう。
「何をするのじゃ!離せ、浩漢!!」
「しばらく行くな。放っておけ」
「どうしてじゃ!」
 猫の子のように歯を立てようとした小麗の口を、大きく硬い掌がそっと塞いだ。目配せだけで前方を見やって、自分がぶらさげた少女の耳元に唇を寄せる。
「今、行くとな」
「……」
「馬に蹴られるぞ」
 足をばたつかせた小麗の足下で、深紅に染まった気の早い紅葉が、ひらりと、舞った。





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