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月の宝珠
第三章 風は吹いているか〜


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「――では、玉琳(ぎょくりん)は、維水郷の郷士殿の姪御にあたるというのだな?」
「姪と申しましても、私の母は先の郷士様にお仕えしていた端女に過ぎません。しかもその母もわたくしが生まれて間もなく、流行病で亡くなりましたので」
 ラドルフが行き倒れの美女を宿屋に連れてきた翌日、フィリエと小麗、そして玉琳の三人は、貴洲の街の目抜き通りを散策していた。
 行き倒れの女――玉琳は維水郷の郷士の姪にあたり、早くに父母を失って伯父にあたる郷士に引き取られた。流行病で父母と光を失った姪を郷士はたいそう可愛がり、年頃になると、自身が目をかけていた書生の1人と娶わせた。その書生が、科挙を受けに都に出て、そのまま行方知れずになった彼女の夫である。
「早く、ご主人が見つかるといいですね」
「はい。浩漢様が国府に使いを出して下さいましたから。きっとよい報せが来ると信じております」
 軒の低い商家の前を極端に脚の小さな女達が、よたよたと通り抜けて行く。そういえば、栄雅の藩王の邸で出会った女達も似たような脚をしていた。眉を寄せたフィリエを見て、小麗がほのかに苦笑する。
「――纏足(てんそく)じゃな。東大陸の人間には珍しかろう」
 纏足とは西大陸古来の風習で、女児の脚を布で縛って成長を妨げることを言う。成人しても幼子と代わらぬ脚の大きさで、労働力になることがない。纏足をした娘が大勢いればいるほど裕福である証として、親たちはせっせとわが子の脚を布で縛り続けた。
「わたしは母上が、醒の出ではなかったからな。脚を縛られることはなかったが」
 元々は醒国の何代か前の王が、脚の小さな女を好んで後宮に召し上げたことから始まった風習だと言われているが、今となっては、仔細は不明だ。
「延では先の王后様が禁令を出されて、最近では大分減りました。あと数十年経てば、脚の小さな女はいなくなるやもしれません」
 玉琳は目が不自由だった為、纏足されることなく成長した。そうでなければ、目の不自由な身で、夫を探しに旅に出ることなどできなかっただろう。
 そういえば、フィリエの故郷であるシルヴィア王国でも、何十年か前、コルセットでぎりぎりまで腰を締め上げるスタイルが流行っていたと聞いたことがある。流行も風習もその土地や国で暮らす人達のものであって、異国の人間がとやかく言うことではない。だが、男に複数の妻を娶ることが許されていることといい、西大陸の女性が東大陸の女性に比べ、不自由な立場に置かれていることだけは間違いなさそうだ。
 女ばかり3人で街を散策して、布や化粧品を眺め、珍しい菓子や果物はほんの少しばかり買って分け合って食べた。その他にフィリエが買い求めたのが、秋冬ものの手袋だった。手触り抜群、伸縮性にも申し分なく、値もそれなりに張った。
「さっきの手袋……あれは男物じゃろう?フィリエ?」
「え?――ええ、まあ」
 ラドルフは今、春夏ものの指のない手袋を使っている。
 公主の直属護衛に雇われて1ヶ月あまりが経過し、浩漢から人生初の給金を渡されたのは二日程前のことだ。その前から決めていた。世界中のおよそ誰もが経験する――フィリエにとっては、はじめて得る労働の報酬。その金で、ラドルフに何か贈り物をしたいと。
 街の中心から宿屋街に向かう道すがら、フィリエは手にした包みを胸の前で大切に抱いていた。手に手を取り合って国を抜け出してから数ヶ月、近いようで時折、酷く遠くに感じてしまう男の近くに、何か形あるものを残しておきたいと思うのは、女の我儘だろうか。
 街の中心から宿屋街に向かう道は石畳で舗装され、綺麗に整備された土手の下には小川まで流れている。天気は曇で、暑過ぎることも涼しすぎることもなく、まさに散歩日和の按配だ。
 目の見えない玉琳は杖を使っているが、意外と健脚で、小麗もフィリエも歩き難いことはない。街を抜け、宿屋街の軒先が見えるくらいに近づいた時、背後で小さな悲鳴が上がった。
 咄嗟に振り返ったフィリエの眼前で、年齢も身分も判然としない薄汚れた風体の男が2人、玉琳を羽交い絞めにしようとしていた。駆け寄った小麗を足蹴にして、ぐったりした玉琳の身体を抱え込んでいる。
「――玉琳さんを離しなさい!!」
 いくら治安のよい貴洲とはいっても、ごろつきや暴漢の類が存在しないわけではない。しかしこれは、まるで人通りが途絶えるのを待ってでもいたかのようだ。迷うことなく、フィリエは剣を引き抜いた。男の鼻先すれすれを横切った白刃が、黒髪を一筋、根元から削ぎとって、鴉の羽に似た黒いものが辺りに散らばる。
 フィリエの斬撃を紙一重で避けきった男が、手にした得物を引き抜いた。短刀とも短剣とも違う鍔のない剣――西大陸のごろつきがよく使う武器の一種、匕首(あいくち)である。
「フィ、フィリエ!」
 玉琳と小麗の身体を背後かばいながら、咄嗟に頭を巡らせる。街に戻って衛士を呼んでくるのと、宿にいるラドルフと浩漢がここまで駆けつけるのとなら、どちらが早いだろう。距離を測れば同じくらいだろうが、多分、後者の方が動きは迅速だ。
「小麗は玉琳さんを宿に!ラドルフさんと浩漢さんを呼んできて!」
「わ、わかった!」
 醒国の公主が盲目の美女を連れ、石畳の道を駆けて行く。その後を追おうとした暴漢の一人の膝を、フィリエは迷うことなく、振り下ろした剣で叩き割った。振り向きざまにもう一人の持っている匕首の切っ先を鍔の部分でなぎ払った時、足下で、何かを踏み締める音を聞く。
 男の足が踏みつけたもの。それはフィリエが貴洲の街で買い求め、ラドルフに贈ろうとしていた手袋の包みだった。
 フィリエは普段、あまり物品に執着する性質ではない。シルヴィア王国の王女として生まれ、身を飾る品も実用品も、近くにあるのはすべて一級品だった。
 だけどこれだけは別物だ。生まれて初めて得た給金で、生まれてはじめて――誰かに贈りたいと心を込めて選んだ品。
 ほんの刹那、だが確実に意識が逸れた瞬間を、男達は見逃さなかった。眼前で刃が煌き、左肩から肘に向け、鋭い痛みが駆け抜ける。深手ではない。深手ではないが――斬られた。
 剣を構え直す余裕はなかった。体勢を崩したフィリエの肩を、正体不明の男が掴んで取る。しかし、振り上げられた拳がフィリエの鳩尾に食い込むことはなかった。男の拳がフィリエに届くより先に、浩漢の放った手刀がその後ろ首に食い込んだからだ。
 見上げた先では、剣を抜いたラドルフが、武器を持った男の腕を、一撃で斬りつけたところだった。これで2対3――それも男2名は向かうところ敵なしの使い手である。片足を引きずった男と、腕を押さえた男が、絡み合い、もつれ合いながら逃げ去って行く。
「お前は……!」
「ラドルフさん?」
 血塗れの匕首を蹴り飛ばして、振り返ったラドルフの目は、常より更に険しかった。男達が逃げ去っていった方角を一瞥、左腕から血を流しているフィリエを見やり、拳をきつく握り締める。次いで、長年傭兵を務めた男の腹の底からの怒声が、辺り一帯に響き渡った。
「――こんな連中相手に、何をやっているんだ!!」



 何はともあれ全員命に別状もなく、宿屋に戻った後もフィリエとラドルフの間には気まずい空気が漂っていた。傷そのものはかすり傷のようなもので、すでに出血も止まっている。
 とはいえ、刃物の傷は浅手であっても、放置すると大事に至る場合がある。戻ってすぐ、宿の主人に酒と清潔な晒を借りて、ラドルフは無言のまま、自身の部屋にフィリエを連れ込んだ。
 西大陸の女は剣も振るわなければ傷の手当もできないし、場所的に自分で手当ては難しい。といって、まさか浩漢に頼むわけにもいかない。ここは夫であるラドルフに任せるのが最適任ではあるのだが、今、終始無言のラドルフと密室に2人きりは、正直気が重い。
 雨戸を閉め切った部屋は薄暗く、北面にあるからか、どこか湿った空気が漂っている。2つある寝台うちの片方、ラドルフが寝起きしている側に腰をかけ、フィリエは恐る恐る夫の顔を覗き込んだ。
「あの……ラドルフさん?」
 ラドルフに言われるまでもなく、あんな敵とも呼べない程度の暴漢相手に隙を見せ、傷を負ったのはフィリエの油断である。ここは素直に謝ってしまおうと向き直ったフィリエと相対し、ラドルフは相変わらず奇妙に据わった目をしている。
「どうして、あの2人を先に逃がした」
「え、だって、小麗と玉琳さんは戦えないじゃないですか。だから先に行ってもらって、ラドルフさんと浩漢さんを呼んでくれるよう頼んだんです」
 フィリエは自分自身の力量については、かなり正確に把握していると思っている。無論、ラドルフや浩漢と比べれば足許にも及ばない。しかし、武器を持って戦ったことのない西大陸の女よりはるかに、フィリエの方が戦いに強い。
「でも思っていたよりずっと、ラドルフさん達が来てくれるのが早くて助かりました。ありがとうございます」
「――俺は本当に危険だと判断したら、他の人間など放っておいて、お前を連れて逃げる」
「え、そんなことは駄目です!」
 正々堂々、何らためらいなく告げられた職務放棄の宣言に、フィリエは思わず拳を握り締めた。
「労働の対価として報酬を得るからには、それに見合った働きをするのは働く者の義務です。義務の放棄は怠惰と堕落の証――とにかく、いけません!」
 力説するフィリエをしばしまじまじと見やって、やがてラドルフは深く深く嘆息した。魂まで吐き出そうかという深い吐息と共に、だんだんと肩まで下方に落ちてくる。
「全く、お前は……」
 ラドルフが再び首を持ち上げた時、そこには先ほどまでの尖った空気は微塵もなかった。無言のまま酒のビンと晒しを取り上げて、袖の破れたフィリエの左腕に乾いた晒しを巻きつけて行く。
「――怒鳴って、悪かった」
 お前に腹が立ったわけじゃない。お前を守りきれない自分に腹が立っただけなのだと。
 告げる声は淡々と、だからこそ、そこに込められた思いの重みに息が詰まる。何とまあ、不器用な男だろう。怒っていたわけでも、呆れていたわけでもない。彼はただ――フィリエの身を案じてくれていただけなのだ。
「これくらいなら、傷跡も残らないだろう。――頼むから、あまり無茶をしてくれるな」
「傷が残ったら、困りますか?」
 問いかけたのは、以前、無理やりに肌に触れられた男に、剣で鍛えた腕の硬さを指摘された苦い思い出があったからだ。
 やはり世の男性は、傷跡一つない柔らかい身体を好むのかと、ほんの少し不安になる。
「俺が?どうして俺が困るんだ?」
 女心などまったく理解しない無骨な男は、本気で訝しそうに、片方の眉を跳ね上げている。さすがに戦場生活の長い傭兵は、怪我の手当てもお手のものらしく、包帯代わりの晒しはどこも緩むことなく、しっかりと傷口を固定している。
 2度、3度と腕を回して確かめても、傷口は痛みもしなければ、血が滲んでくることもない。破れた袖を肩口で結んで、フィリエはラドルフに微笑みかけた。
「だったらいいです。傷が残っても」
「お前な……、そういうことは場所と状況を考えて口にしろ」
 ゆっくりとフィリエの手を押しのけたラドルフが、部屋の入り口に向かって顎をしゃくる。見やった先には弁髪の若い男が、胸の前で腕を組みながら、壁にもたれて立っていた。
「浩漢さん!」
「すまん、もう少し、部屋を空けていた方がよかったようだが……その怪我とも関係のありそうな話だ。――国府から返答が来た」
 国府からの返答、それはラドルフが街で行き当たった玉琳の夫の、現在の消息に他ならない。それがわかったなら朗報であるはずなのに、どうしてか浩漢は苦虫を噛み潰したような顔をしている。それに、玉琳の夫と、フィリエに傷を負わせた男達が関係があるというのはどういうことだろう。
 首を傾げたフィリエの前で、浩漢は懐から巻物を取り出した。そこに記されているのは西大陸の共通文字である「漢字」、恐らくこれが、浩漢が国府に出していた問いに対する返答だ。
「あの女の夫――栄建という名の男は、科挙に合格して」
「……」
「1年前に、延国の公主を妻に迎えて、今は延王の近臣の地位にいる」





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