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月の宝珠
第三章 風は吹いているか〜


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 延国王都貴洲(きしゅう)。
 街の北面に聳える紫雲山(しうんざん)の頂に、初代の王が城を構えて100年と少し。些細な小競り合いこそあれ、大規模な内乱も、他国との戦争に焼かれることもなかった貴洲の街は、西大陸の商業の中心として栄えている。
 建物の屋根は墨色の瓦作りで、壁は漆喰、白と黒のコントラストで彩られた町並みが、遠目にも美しい。
 一歩中に足を踏み入れれば、目抜き通りには様々な露天が立ち並び、大勢の人、物、そして動物達が留まることなく流れ歩いている。この日、はじめて貴洲の街を訪れた女は、街そのものが醸し出す強烈な熱気に、しばし、圧倒された。
 延国の最南である維水郷(いすいごう)から王都に向かって半月あまり、旅を続けてきた女の髪や顔は乱れ、衣服と脚絆も所々擦り切れ垢が浮いている。道行く人々はそんな彼女見て眉をしかめるか、あるいは存在そのものに気づかず通り過ぎるだけだ。
 意を決して人の流れに足を踏み出した女の肩に、後ろから歩いてきていた人間の体がぶつかった。鋼のごとき強靭な体躯の持ち主は若い男――ぶつかった瞬間わずかに金属の音が響いたのは、彼が剣を帯びている為なのか。
「――お、おい?」
「もし、わたくしは怪しい人間ではございません。貴洲の王府へ向かうにはどちらを行けばよいのか、教えていただけませんか」
「王府?延国の政治の中心の――国府とやらのことか?」
 声の主がどこかを振り仰いだのはわかったが、その方角に女の眼差が向けられることはなかった。乱れきった髪から薄汚れた櫛が地面に落下し、脚絆に包まれた膝下から崩れ落ちるように、身体が均衡を失って行ったからだ。
「お前、もしかして目が?――って、おい、大丈夫か?!」
 意識を失う最後の瞬間、女が感じたのは自分抱きとめた懐の暖かさと、その奥底で蠢いている正体の知れない力の軌跡だった。



「――おれは、あんたに刀鍛冶を紹介したが、女を紹介した覚えはないんだが」
 浩漢の言葉に、ラドルフは眉間の皺をさらに深く刻みつけた。
「……人聞きの悪いことを言うな。人聞きの悪いことを」
 延国亜州の州都である栄雅(えいが)の街で起こった誘拐騒動から、おおよそ1ヶ月。ラドルフとフィリエ、そして浩漢と小麗の四人は、延国の王都である貴洲に滞在していた。
 公主の輿入れを阻む勢力が存在することが判明した後、浩漢は栄雅で雇った部下のすべてを、そして小麗は醒国から連れてきた側仕えの人間を置き去りにして、藩王の邸を出立した。栄雅に醒国の公主が滞在していることは、方々に知れ渡っている。側仕えの人間を残すことで、公主が未だ栄雅にいると敵に錯覚させることが目的だ。
 もっともそれでしばらくは騙すことができても、さすがにそろそろ、敵方もあの藩王の邸に、公主がいないことに気づいた頃だろう。今後起こるであろう戦いを見据えて、貴洲の鍛冶を訪ねた帰りに、行き倒れの女にぶつかったのだった。
「王都に試験を受けに来たまま、行方知れずのご主人を探しに来たって、言っていましたよね」
 少々危なっかしい手つきで、4人分の茶を淹れながら、フィリエが言う。
 彼女の夫は維水郷の郷士に仕える書生で、その優秀さを買われ、3年前に王都にやってきた。最初の1年こそ月に1度の便りがあったものの、その便りが絶えて2年、生死さえ分からぬ夫を探す為、目の見えない身体で単身故郷を旅立ったと語った当の女はと言えば、緊張の糸が切れてしまったのか、フィリエの寝床である寝台で、安らかな寝息を立てている。
 フィリエと小麗の為に取ってあった宿屋の一部屋に、ラドルフ、浩漢の二人まで入り込むと、肩と肩が触れあいそうなくらいの狭さだ。
「地方の書生が科挙を受けに都に出て行くのは、醒でもよくあることじゃ。1年や2年くらいで受かるものではないからな。10年受け続けて、ようやく受かったなどという話もあるくらいじゃ」
 小麗の言うところの科挙――国の官吏を選ぶ為の採用試験は、西大陸で古くから取られている制度である。その国で暮らすすべての民に試験を受ける権利があり、原則として金のあるなし・身分の高低は問われない。
 ラドルフの故郷であるローデシアにそんな制度はなかったし、フィリエの故国シルヴィアでは王都の大学出の人間しか官吏に登用されることがない。大学の入学資格に家柄や身分は関係ないが、食うことに追われる民に受験勉強に費やす時間はないので、入学者は圧倒的に貴族の師弟が多い。
「なかなか優れた制度だな」
 ラドルフの呟きに、斜め後ろの壁にもたれていた浩漢が、露骨に顔を顰めた。未だに正体の知れない男は、軽く身を乗り出して、目の前で眠り続ける女の横顔をしげしげと見る。
「……科挙については、そうとばかりも言えないのだかな。――しかし、美人だな」
 街中でぶつかった時にはわからなかったが、髪を梳いて、顔を洗った女の肌は抜けるように白く、目鼻立ちは筆でくっきり描いたように整っている。美の基準は時代と国によっても変わるものだが、まずどんな審美眼を持ってしても、高得点をつける顔形に違いない。男だけでなく、女でさえも守ってやりたくなるような儚げな美貌だ。
 浩漢の言葉に、フィリエと小麗が、それぞれ顔を見合わせて頷いた。東西両大陸を代表する大国の姫君は、それぞれに魅力ある娘ではあるのだが、姿形は十人並――際立って優れているわけでは決してない。
 旅の道連れ三人の同意に、顔の左半分が焼け爛れた男だけが、訝しそうに眉を顰めた。眉を寄せたまま、眠る女を見て、それからまじまじと栗毛の娘を――彼の妻である娘の顔を見る。
「――そうか?これくらいなら、俺はお前の方がよほど上だと思うが」
 ごくごく素朴な感想を述べたラドルフの言葉に、小麗は驚いたように振り返り、フィリエはみるみるうちに、耳たぶまで真っ赤になった。壁にもたれたまま、腕組みを解いた浩漢が、小さく呟く。
「さすがは新婚……」
 飾り格子の嵌った窓の向こうでは、黄昏色に染まり始めた空の彼方を黒い鳥が飛び交っている。



 時代と場所が違っても、宿屋の1階とは食堂件酒場であり、そして、日が暮れた後は食堂より酒場の色合いが濃くなるのは、どこの国でも変わることはないらしい。
 もっとも、今回の旅路は醒国の公主を連れたお忍びの旅、宿屋は中の上程度のクラスであり、さほど猥雑な乱れ方をしている訳でもない。折角だからと一杯だけ頼んだ地酒の杯を口に運びながら、ラドルフは昼日中、貴洲の街で仕入れてきたこの地域の地図に目を通していた。
 記される文字は「漢字」と呼ばれる造形文字、しかしその下には東大陸の文字が併記してあって、ラドルフが見ても充分の地形や街の位置を把握できる。
 彼らが今ある貴洲から、目的地である景国の国境までは半月程、しかし国境を越えても、景国の王都である凛都までは、荒野ばかりの土地を延々、1ヶ月近くは歩くことになるらしい。海路ならばかなり時間は短縮されるが、醒国が力を失って以降、海賊の横行が激しく、到底、安全な旅路とは言いがたい。
 栄雅の街を出立して以来、この旅の道順を決めているのは、浩漢だった。西大陸の公主――小麗は街の名前や道を知っていても、旅に必要な装束や宿の予約などといった世間知がないし、ラドルフには世間知はあっても土地勘がない。フィリエにいたっては、世間知と土地勘のどちらもない。
 しかし、栄雅の街で公主の護衛を束ね、そして今、その公主を連れて旅を続ける男の正体は何者だろう。同じ船で西大陸に渡って来たところ見ると、ほんの少し前まで東大陸にいたはずなのだが、まったくもって想像がつかない。
「部屋にいないと思ったら、ここにいたのか。――よいか、座っても」
 そんなことをつらつらと考えていると、当の本人――首に手拭を巻いた浩漢が、ラドルフの斜迎えの椅子に腰を下ろした。綺麗に剃り上げられた額に汗が浮き、頬が若干上気しているところを見ると、どうやら風呂上りらしい。
「昼間の女の件は、貴洲の国府に問い合わせておいた。あの女の夫が、今も科挙を受け続けているのなら、居場所くらいはわかるはずだ」
 東大陸から一等船室で帰国し、醒国の公主の護衛を束ね、延国の国府に問い合わせる伝手(つて)を持つ。謎の男はラドルフと同じ地酒を注文し、つまみの干物に齧り付いている。
「ちょうどいい機会だ。正直に答えろ。浩漢。――貴様、何者だ?」
「同じことを聞く。あんたとあの娘は、何者だ?」
「……」
「己が答えあぐねる問いかけを、他者に向けては、せぬことだ。西大陸ではそういう人間を無粋と呼ぶ。東大陸でどう呼ばれているかは知らないがな」
 ぐうの音も出ないとは、まさしくこのことを言う。言い返す言の葉も思い浮かばす、黙って酒の入った杯を煽るラドルフを横目に浩漢は口の端を持ち上げた。
「こちらも一つ、ずっと聞きたいと思っていたことがある」
「何の話だ?」
「部屋割りの話だ」
「……?」
「最初に会った時、あの娘はあんたの妻だと名乗っていたが。しかし、あれはどう見ても、まだ生娘では――」
 話が途中で途切れたのは、ラドルフが目の前のテーブルを力の限り叩き付けた所為だ。西大陸では男女の別が厳しく、夫婦であっても、婚姻証明書がなければ宿の同室に泊まれない。ラドルフとフィリエが持っているのは東大陸の聖職者が発行した正式な証明書であり、西大陸でも同室可能である。とはいえ、公主護衛の任について以来、二人きりでゆっくりと過ごす時間など、皆無に等しい。
「やはり、そうか。この仕事を紹介してから、あんたと同室になることが多かったからな。たまには部屋を空けた方がよいのかと、ずっと気になっていたんだ」
「貴様……これ以上ぬかすと、その首をへし折るぞ!!」
 さすがに剣に手をかけることだけは堪えたが、一気に絶対零度まで低下した場の空気に、和気藹々と食事を楽しんでいた他の客たちが、いっせいに振り返って彼らを見た。そこに顔の半分が焼け爛れた男と、ひらひらと両手を振って降参の意を示している弁髪の男を見つけ、皆一様に、ばたばたと視線を逸らして行く。
 こみいった陰謀も策略も、刺客の襲撃もなく。ただ今だけは、平和な夜が更けてゆく。





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