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月の宝珠
第二章 公主の結婚〜


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 邸に忍び込むのは二人きり、ラドルフに与えられた役割は、邸の至る所に配置された護衛を、気配を立てずに黙らせることだった。
 夜陰に紛れて近づいた裏門でまず2人、忍び込んだ敷地内で1人。相手に得物を抜く暇を与えず、確実に急所を打ち据え意識を奪う。殺してしまうとかえって騒ぎになるので、一人一人、律儀に縛って物陰に転がしているうちに、次第に目的の物件が近くに近づいて来る。
 罪人として追われ、生国を抜け出した過程。そしてその後に続く人生は、正直、あまり人に誇れる道を歩んで来たとは言いがたい。傭兵の仕事にありつけない時は、承知の上で、今回のように後ろ暗い仕事に手を染めたこともある。夜の闇と血と悲鳴がわだかまる空間で、ただ黙々と生きてきた。
「あれが、邸の母屋です」
 何人めかの護衛を縛って植え込みの影に押し込んだ時、頭の上から声がした。一跳びで内堀の上に飛び乗った少年――緋燕が指差す先では、中途半端に欠けた月が薄雲の合間に佇んでいる。少し風が出てきたらしい。薄墨色の幕を張ったような光の端で、互いの影が交差している。
 彼に先生と呼ばれる中年男――遠尚が、今回の任務に緋燕を選んだわけはすぐにわかった。呆れるくらいに身が軽い。ラドルフも運動神経には自信があるが、一跳びでこの塀は登れない。塀先に指をかけて、腕の力で身体を持ち上げるのが関の山だろう。
「すごいですね、これだけの人数を剣を抜かせず倒すなんて、普通、できませんよ」
「――ああ、お前もな」
 護衛を倒したのはラドルフだが、敷地内に進入し、閂を外してラドルフを招き入れたのも、常に先に立ち、護衛の位置を把握しているのも緋燕の方だ。ラドルフとしてはごく正直な感想であったのだが、ラドルフの言葉に、緋燕は小さく目を見開いた。へへ……と口の中で笑って、鼻の下を人差し指で擦っている。
「まあ、本当に大変なのはここから先ですけどね。何とか公主を連れ出すんで、援護、頼みます」
 ラドルフが小さく頷くと同時に、少年の姿が建物の内に消えた。



 他愛のないお喋りにも疲れて目を閉じて、次に目を開けた時、月明かりは仄明りに変わっていた。
 フィリエはもともと寝付きが良い方で、最高級の寝具だろうが、安宿の固い寝台だろうが、大揺れの船内だろうが、係わりなく眠ることができる。いったん眠れば朝までぐっすり、何か異常でもなければ、目が覚めることもない。
 目覚めた理由がわからぬまま腕を伸ばし、外して立てかけてあった剣の感触に安堵する。何だか行動があの人に似てきたみたい……心中で呟いて、声は出さすに笑ってみる。長年寝起きを共にした夫婦は、一滴の血の繋がりがなくとも、顔かたちや行動が似てくるという。まだ正式な夫婦になって間もないけれど、いずれはラドルフとそんな夫婦になりたいものだと切に願う。
 掌で冷たい感触を確かめて、寝椅子上でごろりと寝返りを打つ。夜が更けて風が出てきたのか、土作りの壁に浮かぶ樹影が揺れている。微かに聞こえる木葉のざわめき、遠くの水辺で鳴いている蛙の声、そんなものに耳を澄ませながら――握り締めた剣の柄を、強く身の内に引き寄せた。
 ――剣を持つ者は、他の何よりも己を信じなければならない。
 それはフィリエに剣を教えた老師の言葉だ。剣はその存在自体が善悪の狭間にある。同じ切っ先で誰かを守ることもできれば、誰かを殺すこともある。迷いながら振る剣に、誰かを守ることはできない。それは単なる殺戮であると、頭ではなく心に教え込まれた
 普段のフィリエは、一度眠ったならば、異常がなければ目覚めない。――ということは、今、この場所で何らかの異常事態が起こりつつあるとういことだ。
 気配を殺したまま、傍らの夜具をめくり上げ、細い肩に手をかける。霞がかった漆黒の瞳が見開かれると同時に、薄紅色の唇に人差し指を押し当てた。
「フィリエ?……どうしたのじゃ?」
「……小麗」
 相変わらず、耳に届くのは風が木の葉をすり抜ける心地のよいざわめきだけだ。なのに背筋が総毛立つ。異国の片隅で出会った友の肩を夜具で覆いながら、フィリエは強いて笑って見せた。
「お願い。今は何も言わないで……寝場所を代わってくれる?」

 

 四半刻も待たずに、緋燕は大きな布塊を担いで戻ってきた。どうやら公主の身体を夜具で包んで、頭の先と足先を紐で縛り上げたらしい。まさに芋虫状態――これでは窒息するのではと一瞬不安になったが、一応、顔らしき辺りの布には空気穴が開いている。時折布地が内側から盛り上がるのは、公主が意識を失ってはいない証拠――この状況で抵抗を諦めていたいのだとしたら、なかなか大した精神力である。
「――成功か。ならば、一刻も早く脱出するぞ」
 忍び込むには少人数が鉄則だが、脱出の場合はたかだか二人の手勢が不利になる。追っ手がかかった場合は、何人かは斬り捨てなければならないだろう。いつでも引き抜けるよう剣の柄に手をかけて、ラドルフは少年の後を追った。
 雇い主と落ち合う先は、藩王の邸からさほど遠くないところにある廃寺――西大陸では、人は神ではなく仏に祈る――である。長い石階段の先に、半ば崩落した瓦屋根が見える。階段をほとんど上り終えた時、廃寺の内から、白髪交じりの弁髪が姿を現した。
「――公主は」
「は、こちらに」
 肩に担いでいた公主を地面に下ろし、緋燕がその場に膝をついて拱手する。遠尚というのはもちろん偽名だろうが、西大陸でこの礼儀はかなり身分の高い者に対するそれのはずだ。はじめは、公主の輿入れを阻止したい延国の一勢力かと思っていたが――ますます、彼らの正体がわからなくなってきた。
 廃寺を背後に立つ遠尚の後方に、黒装束の男達の姿を見つけ、ラドルフはようやく、剣の柄から手を離した。仕事の依頼は、藩王の邸から公主を攫い出すところまでだ。ここで奴らにこの布塊を渡せば、彼の仕事は終わる。
「――よくやったぞ、緋燕」
 中年の男が手を振り上げたその時、黒装束の男達が一斉に背から何かを取り出した。戦場生活の長いラドルフには、それが何かがすぐにわかった。東大陸でも広く一般に使用されている飛び道具――弓矢だ。
「緋燕!逃げろ!!」
 咄嗟に飛びのいたラドルフの眼前で、少年の華奢な体が一瞬宙に浮き、すぐに横倒しに崩れて落ちた。長く編んだ三つ網の下に血の海が広がる。緋燕の体からあふれ出した赤い液体が石階段を流れて、数段下まで飛びのいていたラドルフの足の甲に、ぱたぱたと滴った。
「――貴様!」
 剣を引き抜き駆け寄った、少年の体からは、胸からも腹からも無数の矢が生え出していた。漆黒の双眸は驚愕に見開かれ、唇は悲鳴の形で固まっている。音にならずに消えた声、その声が風に巻かれてラドルフの耳朶に届く。声変わりを終えたばかりのやや擦れた少年の声で、ただ一言――
 ――どうして、と。
「さあ、公主をこちらに渡してもらおう」
 緋燕に先生と呼ばれて慕われていた男が、表情を変えずに近づいて来る。その背後に付き従う黒装束の男達の手で、刃が歪んだ月を映じて煌いている。





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