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月の宝珠
第二章 公主の結婚〜


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「――そうか。そなたの夫は、たいそうな使い手なのだな。フィリエ」
 和気藹々とは言いがたかった夕食から一刻あまり、フィリエは公主と二人、藩王の邸の寝所にいた。
 質素だが寝心地のよさそうな牀榻(しょうとう)は一つきり、フィリエの寝床は寝椅子である。もっとも寝椅子とはいっても、大人の男が横になれるくらいの充分な広さがあって、フィリエ一人ならば、寝返りを打っても転がり落ちることはない。
 浩漢に連れられ、直属護衛として雇われたフィリエを、醒国公主――小麗は酷く気に入ったようだった。寝椅子を牀榻にくっつけて枕を並べて、あれやこれや語り合っていると、女学校出の侍女が言っていた「修学旅行」のようで、楽しい。
 話題は主に東大陸の風習や習慣と、いわゆる恋話――とはいっても、公主の婚約者は遠い異国にいるので、フィリエがほとんど一人で話すことになる。王城で暮らしていた頃、話す方も聞く方も何故かとても真剣だった恋愛談義を、まさか自分自身が誰かに話して聞かせる日が来るとは、思ってもいなかった。
「一介の傭兵の身で、一軍を率いて戦を勝ち抜くなど、なかなかできることではない。頭もよいのだろうな、きっと」
「――ええ、とっても。強くて、頭もよくて頼りになって。とにかく、格好いいんです!」
 拳を握り締めて力説するフィリエに、小麗はきらきらと瞳を輝かせた。
 使い手というだけなら他にもいる。この広い世界のどこかに、ラドルフを上回る使い手も確かに存在するはずだ。
 だがその使い手が、他者を率いることができるかどうかは別問題だ。両方を兼ね備えている人間の数は、途方もなく少ない。シルヴィアの王宮で人間ならば飽きるくらいに見てきたフィリエには、それがよくわかる。
「強くて格好良くて頭も良くて。そんな男と結婚できて、フィリエは幸せものじゃな。――景国の王とやらも、そんな男ならばよいのだが」
 政略結婚で嫁がされる姫君ならば、東大陸にも大勢いた。フィリエの叔母も政略結婚で隣国に嫁いだし、兄など政略結婚で、3度も妃を取り替えている。戦で負けた敗戦国の公主ともなれば、背負う重さもまた格別だろうが、それでも実際に当の本人と会って夢破れるまでは――あるいは、夢がかなうまでは、夢を見る権利は誰にだってある。
 寝椅子の上に起き上がって、膝を抱えたフィリエの視界に、赤茶けた土造り壁に写った樹影が見える。影がこれほどまでに明確なのは、光源が強いから――今宵の月はほんの少し下方が欠けた十六夜の月だ。
 この地域の夏は湿度が高いので、窓をすべて開け放ち、寝所の周囲に御簾(みす)と呼ばれる竹で編んだカーテンのようなものを垂れ下げている。おかげで、濃藍を流したような夜空で、歪な月と星屑が、舞台の主役を競うがのごとく競演しているのがよくわかる。
 東大陸で共に旅をしていた数ヶ月。東大陸を抜け出し、船上で過ごした日々。こんな風に月を見上げ、密かに唇をかみ締めるラドルフの姿を、何度目にしただろう。
 大陸横断船の沈没から数日、流れ着いた漁村に留まって待ち続けてはみたのだが、ラドルフは姿を現さなかった。
 ――先に行け!俺もすぐに行く!
 浩漢に言われるまでもなく、ラドルフがあんな程度のことで、海の藻屑になるなんて、フィリエはこれっぽっちも思っていない。守れない約束など決してしない男が、すぐに行くと口にしたからには、必ず生きていて、フィリエのところに戻ってくるはずだ。
 だから今、望んで旅立った異大陸の片隅で、フィリエの脳裏を過ぎるのは悲嘆でも苦悩でもなく、ただ一つの思考だけだった。
 ――すぐに行くっていったじゃないですか。遅すぎますよ、ラドルフさん。



 月明かり透かして、麦穂のような長い葉が無数に揺らめいている。東大陸には存在しない樹――柳の幹に背を預け、ラドルフは拳を握り締めていた。
 目と目の合間――ちょうど眉間の前あたりで、握り締めた拳を解き放ち、また再び握り締める。多少霞んではいるが、視界は良好だ。倦怠感だけ致し方ないが、何も戦場に行くわけでもない。これくらいならば、許容範囲だろう。
 こうして、己の身体を機械の整備さながらに点検しでいるのは、今回の仕事の依頼――醒国公主の奪取が、よりにもよって満月の翌日に指定されてしまった所為だ。本来なら一日くらいは休んでいたいところだが、金で雇われて働く身では、そんなことも言ってはいられない。
「――昨夜は、何処に行っていたんですか」
 ラドルフの背後から、声がかかった。声の主はまだ若い――ちょうど声変わりを終えたくらいの少年である。黒い髪を弁髪に結い上げ、質素な生成りの衣服を着ている。
 最初の頃は弁髪だというだけで正直かなりもの珍しかったが、こうも老いも若きも男はすべて弁髪頭だと、だんだんとその違いがわかるようになってくる。この仕事を依頼してきた中年男の額は粉を吹いていた。船上で出会った男――浩漢のそれを脂が乗り切ったというのなら、この少年のそれは青々としている。もっとも、男の頭皮の違いなど、わかったところで、ちっとも面白くはないのだが。
「――お前に説明する謂れはない」
「冷たいなあ。先生から聞きましたよ。ラドルフさんはものすごい使い手なんでしょう。今度、手合わせして下さいよ」
 外した剣を腰帯に戻し、ラドルフはその場に立ち上がった。この少年は今回の仕事の相棒――彼に仕事を依頼した中年の男が差し向けた、もう一人の人間だった。ラドルフのように栄雅の街で雇われたわけでなく、もともとあの男の下で働いていたらしい。胡散くさい仕事の雇い主を「先生」と呼んで慕う姿からは、これから一国の公主を奪取するという犯罪じみた――いや、普通に考えて犯罪に手を染めるというのだという気概は微塵も感じられない。
「お前……、確か緋燕(ひえん)とか言ったか。お前たちは、延国の人間なのか?」
 特に西大陸の勢力情勢に詳しいわけではないが、西大陸で最も勢力のある国家が、景・延・醒の三国であり、最近の景国と醒国の諍いに、延国が神経を尖らせていたことは、東大陸にも伝わっていた。通常の考え方をするのなら、戦争の結果、醒が景の属国と化すことに、最も危機感を抱いているのは、延国であろう。言うまでもない。次は自分の番だからだ。
 ラドルフの問いに、少年――緋燕は、ぴたりと口を閉ざした。少女のように桜色の唇を強くかみ締め、ラドルフから視線を逸らしている。
「――答えられんか。まあ、公主の輿入れを阻止したいのは、何も延だけではないだろうからな。詮索する気はない」
「僕は醒国の動乱で、親を亡くしました」
「……それがどうした?」
「孤児だった僕を拾い上げ、ここまでにしてくれたのが、遠尚(えんしょう)先生です。先生が望むなら――いえ、望まなくとも、いつだって、この命を賭けます」
 なるほど、この少年にとって、属する国など関係ないというわけか。
 迷いのない言い切りに、胸の奥のさらに奥――とうの昔に封じ込まれた箇所で何かが動いた。誰かのために、命を張っても悔いはなかった。――だけど結果は最悪だった。
 久しく使っていなかった感情の回路を断ち切る為、ラドルフは軽く頭を振った、
 かつて彼の身に起こった事態は過去の出来事であり、ラドルフが裏切られたからといって、この少年もまた、裏切られると決まったわけではない。
 ――多分、きっと。 



 歪んだ月が雲に翳った。
 吹き抜ける風は内に湿度を孕んで生ぬるい。
 藩王の邸の一角で、見張り台から地面に下り立った浩漢は、松明の灯りを手に目を眇めた。
 敷地内のいたる所に配置した部下からの報告に異常はなく、西大陸の公主と東大陸の姫君は、平穏な眠りを貪っているらしい。
 夜の見張りは半刻交代、それは護衛達の集中力を保つ為、浩漢自身が定めた規定だ。そろそろ藩王の別邸から、交代の人間が出てくる頃だろう。邸の方角に向け、軽く片手を上げた時、不意に、松明の灯りがゆらりと揺れた。



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