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月の宝珠
第一章 洋上の襲撃者〜


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 目を開けると、床が斜め45度に傾いていた。
 咄嗟に置かれた状況が理解しきれず、ひたすら目を瞬いていると、沈んでいたはずの床がみるみるうちに浮き上がってきて、今度は体の反対側に沈み込んで行く。
 海流と気候の関係で、出港してすぐは揺れると聞いていたが、イオニアの港を出たその晩から、まさかこれほどまで揺れるとは思わなかった。床に延べた寝床の上で、ラドルフは静かに息を吐き出した。
 握り締めた拳を押し当てた眉間の奥で、赤いものがちらちらと待っている。耳奥で木霊するのは悲鳴――彼がこれまで屠ってきた亡霊達の断末魔だ。今更、己の罪に恐れ戦くような繊細な精神などしていないが、潮の匂いは、血の香に通じるものがあるとラドルフは思う。
 無意識に利き腕を伸ばし、外して枕元に置いた剣の冷たい感触に安堵する。
 眠りが浅いのも剣を手放せないのも、用心深い為ではない。単に臆病なだけだと自覚している。
 毛布を被りなおして寝返りを打ち、再び眠りなおそうとして――
「……悪い。起こしたか」
 腰の高さ程の寝台に横たわった、鳶色の瞳が開いていることに気がついた。
 四方に敷居はあっても密室ではない二等船室は、声も気配も筒抜けだ。囁き声でそう告げて、ラドルフは肘を支えに身をもたげた。水差しから水を一口、今度こそ本当に寝なおそうと頭を沈めたその感触の柔らかさに、ラドルフは一瞬、置かれた状況を忘れて叫び出しそうになった。
「お前……!」
 後頭部に感じる熱と額の上に触れた指先の柔らかさに、体温が上がる思いを味わう。床の上に直座りになったフィリエがラドルフの頭を抱え込み、二人の今の体勢はいわゆる「膝枕」状態である。
「静かにしてないと、他の人が起きちゃいますよ?」
 ラドルフの口に人差し指を押し当てて、フィリエが言う。
 夜更けの暗闇で、一応は恋仲の男女が二人。ここで艶やかに微笑めば、それなりに秘め事めいた気配も漂っただろうが、彼女の笑顔は完全に、悪戯を成功させた子供のそれであって、艶っぽさなど欠片もない。
 ――まったくないのも、どうなのかとは思うが。
「前にもあったじゃないですか。こうしてれば、悪い夢なんて見ませんよ。――絶対に」
 彼女の言う「前」がいつを意味するかはわかったが、正直、呪いに苛まれて過ごす夜の記憶など定かではない。大体、悪い夢って何のことだ……と回らぬ頭で考えて、ようやく、彼女の突拍子ない行動の意味を悟る。
 舞い散る赤い闇。鳴り止まない断末魔。
 ――そうか。俺は、魘されていたのか。
「怪談でも話しましょうか」
「――どうして、そうなる」
「それはやっぱり、夏の夜の風物詩といえば!」
「……俺には時々、お前の思考回路がさっぱり理解できん」
 丑三つ時の海上で、大国の姫君と、怪談に出できても不思議ない風貌の男が、膝枕で怪談を楽しむ。――冗談じゃない。洒落にもならない。
「怪談はやめてくれ。そうだな……どうせなら、歌でも歌ってろ」
「えーっ、わたし、音痴なんですよ」
 別にそんなことなど構いやしない。どうせ音程など聞いていやしいないのだから。しばらく躊躇った後、フィリエはか細い声で歌い始めた。曲の内容はわからないが、子守歌のように聞こえて自然と瞼が重くなる。
 赤い闇がこの夜、再び彼を襲うことはなかった。



 船から脱出した乗客達が命からがら上陸したのは、西大陸は延国の東部、亜州にある小さな漁村の浜辺だった。
 船長の言葉通り、泳いでもたどり着ける距離であった上に、黙って海流に乗っていれば陸に辿りつけるとあって、10艘あった小舟は一つも欠けることなく、岸辺に到着した。舟に乗り遅れた乗客や船員達も、それぞれに木っ端や浮き輪に捕まって流れ着いていて、破壊された船の破片や、乗客の持ちものやらが流れ着いた浜辺は、まるで大漁旗がはためいているかのようだった。
 村長と村民の厚意より、怪我人には治療師が呼ばれ、怪我のない人間には、臨時の炊き出しによって、温かい羹(あつもの)が振舞われている。季節は夏の最中とはいえ、夜の海を命からがら渡ってきた乗客に取っては、これ以上となくありがたい馳走だった。村人に頼み込んで分けてもらった乾いた布と、羹の入った椀を手に、浩漢は無事を確かめ合い、塩垂れた顔を拭っている人々に背を向ける。目指す先では半渇きの衣服に身を包んだ華奢な背中が、朝もやに霞む海面を、親の仇での睨むかのように見据え続けている。
「――おい、あんたも少し温まれ」
 背後から近づいて、乱れきった栗色の頭の上に乾いた布を落とすと、少女はびくりと身を竦ませた。この娘が見た目に似合わぬ使い手であることは、あの甲板での海賊達とのやり取りやらその後のもろもろによって、嫌というほど見知っている。まさか、歩み寄る浩漢の気配に気づかなかったわけでもあるまいが――今はそれよりも彼女にとってもっと重大な事象に、身も心も捕らわれているということか。彼女が見下ろす浜には打ち上げられた船の残骸や、泳ぎ疲れて、動くことが出来ずに倒れこむ人々、そして数は少ないが、身体の一部を破損して、二度と目覚めぬ眠りについた者の姿がある。ありとあらゆるものに満ち溢れた空間に、身体の半分が焼け爛れた剣士の姿はない。
「約束しましたから。一緒に世界を見に行こうって」
 握り締めた小さな拳は、少しも震えていなかった。見開き固められた鳶色の瞳も乾いたままで、涙の一粒も浮いてはいない。
 東大陸最大にして最強の国家であるシルヴィア王国が、予定されていた姫君の輿入れを取りやめたのは、船がイオニアの港を出港するほんの数日前のことだった。表向きは、嫁ぐ予定の王女に、致命的な病が見つかったという理由だが、王都の民の眼前で、誰もがわかる形での事件があったとあっては、真の理由を知るのは、さほど難しいことではない。――特に、浩漢のような立場にある者にとっては。
 ――大体、あの剣呑な男が、こんなことくらいでくたばるものか。
 旅の船上で、一時を共にした男の姿に思いを馳せる。
 あの男がこちらを只者ではないと思っていたのは知っているが、実のところ浩漢もまた、ラドルフが只者ではないことに、かなり早くから気がついていた。単なる使い手というだけではない。それは常に生死の狭間に立ち、命のやり取りが身近な者だけが感じ取ることができる、独特の感触だ。
 だから、抜き放たれた刃にも似た険しさが、この娘が触れた途端に凪の海のように和んだのには驚いた。微かな嫉妬もあったように思う。浩漢には久しく、そんなものは存在しなかったから。
 もはや、言うべき言葉も見当たらずに並んで海面を見下ろしていると、無数の瓦礫が浮かんだ波打ち際に、カモメが一羽降り立った。寄せては引き、引いては寄せ手を繰り返す白い波間に、木の板が見え隠れをしている。
 放っておくと何年でも立ち続けていそうな細い背中を引き寄せ、抗議の声を上げかけた口許に、羹の入った椀を押し付ける。氷のように冷え切った薄紫の唇が汁物を嚥下するのを確認し、浩漢は真っ直ぐに鳶色の瞳を見た。
「――あんたに、一つ、頼みたいことがある」



「先に行け!俺もすぐに行く!」
 完全に沈没する船体からかろうじて抜け出した時、片手が非常用の浮き輪を掴んだのはまったくの偶然だった。泳いでも陸にたどり着ける距離とは聞いていたが、ラドルフにはこの地域の土地勘がまったくない。下手に泳いで沖に出るよりはと、朝が来るまで黙って流れに任せてみたのが正解だった。朝陽が昇った時、目の前に見えたのは、夢にまで見た陸地の姿だったのだ。
 目の前の陸地が、先に行った小舟が辿りついた場所とは違う可能性には思い当たったが、そんなことも言っていられなかった。一晩海に浸かった身体は体力の消耗が激しく、必死で水を掻いてもなかなか、身体が前に進まない。腰に下げた愛剣が重石のように感じられ、外して捨ててしまいたくなったが、身一つで見知らぬ土地にたどり着いて、丸腰ではあまりに心もとない。何度目かに水中に沈んだ時に、塩水を大量に飲み込んで、もはやここまでかと観念する。ここまで来て、別世界の大地を踏みしめることさえできず、名前さえ知らない海の片隅で、俺は終わるのか。
 頭上を飛び交うカモメの声も、打ち寄せる波の音さえ聞こえない。それは罪を負い、帰る場所を失い、月が満ちるたびに訪れる痛苦に疲れ果てた男が、望み続けた静寂だった。
 半ば望んで意識を手放しかけた時、震えるほどに懐かしい、狂おしいくらいに愛おしい声音が耳朶を打った。
「――ラドルフさん!」
 全身から海水を滴らせ、最後の力を振り絞って立ち上がったラドルフの眼前に、名も知れぬ海草が無数に打ち上げられた、人気のない浜辺が見えた。案の定、先を行った小舟とは別のところに流れついたらしい。さきほど聞いた声は幻聴――生を投げ出しかけた意識を繋いのは、彼にとっては唯一無二の幻だった。
 剣を支えに、一歩、一歩、倒れこむようにして浜辺を進む。
 罪を負い、故郷を失くし、愛する者と離れ、それでも、なお――
 ――それでもフィリエ、お前は俺に生きろというのか。



 目覚めるたび、色を変える旅の空。
 明日の朝、見上げる空は蒼いだろうか。この日が暮れる頃、吹く風はあなたを優しく包んでくれるだろうか。
 この旅の終わりが、別離を意味しているのなら。終わりなど永遠に来なければよいと思っていた――。




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