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月の宝珠
第一章 洋上の襲撃者〜


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 薄闇の中で、フィリエはぱちりと目を開いた。
 大勢の人間が寝泊りしている二等船室は、無数の寝息や歯軋り、鼾や衣擦れの音で満ち溢れている。生身の人間達の息吹と一緒に、聞こえて来るのは水の音――寄せては引き、引いては打ち寄せる海の波が、船底を撫で上げる音だ。すべての命の源が奏でる微かな調べには、人を眠りに誘う特別な力があるとフィリエは思う。
 自分がどうして目覚めたのかわからないまま、寝台の上でひっそりと寝返りを打つ。闇に慣れた目に、床の上の寝床で、人型に盛り上がった毛布の塊が見えた。
 出港の後、たった一つしかない寝台をフィリエに譲って、ラドルフは迷うことなく床に寝る道を選んだ。最初のうちはあまりの揺れに、寝台の上で寝ると船酔いが酷くなるのだという理由に納得したフィリエではあったが、天候が安定した後は、何度も寝台を譲ろうとしたのだ。しかし手を代え品を代え、何度言い募っても、ラドルフは頑として、首を縦には振らなかった。
 こちらに背を向けている所為で表情は見えないが、きっとまた、剣を抱きしめて、眉間に皺を寄せて眠っているのだろう。今はもう王女と雇われの護衛ではないのだから、この人が背中を預けられる存在になりたいと切に願う。せめて眠るときくらい、剣を抱きしめていなくともいいように。
 闇の中で身動き一つしない背中を見ているうちに、再び眠気が押し寄せてきて、フィリエは小さく息を吐き出した。瞼が自然と重たくなって、意識が彼方の方角に遠ざかって行く。そうして、うつらうつらと――
 かつんと、何処かに何かがぶつかるような音で、フィリエは自分が目覚めた理由を明確に悟った。乗客の寝息でも、歯軋りでもない。――何かが、違う。
 咄嗟に身を起こしかけた時、顔の左半分が焼け爛れた男と至近距離で目があった。フィリエが気づく異変に、ラドルフが目覚めないわけもない。恐らくかなり以前から目を覚まして、気配を探っていたのだろう。口を開きかけたフィリエの唇に人差し指を押し当てて、低い声で囁く。
「……静かに」
 その瞬間、大きく船が揺らいだ。



 西大陸の東沿岸、延国と醒国、そして西大陸最大の国家である景国光州半島に面した一角は、海賊が跋扈する海域である。
 かねてからその海域の制海権を一手に握っていた醒国が、内紛で力を失い、統制力を失った所為だ。
 海域を通りかかる商船や旅船をたびたび襲っては、男を殺し、金品と女性を奪って行く。被害の続出に、延国と景国が沿岸警備に乗り出したというが、今でも有効な対策を打ち出せないでいる。
「へえ……、海賊って妖精とかドラゴンの仲間なのかと思っていたけど、実在していたんですね」
「――お前は普段、どういう本を読んでいるんだ」
 しみじみと感嘆したフィリエに向かって、背後から襲い掛かってきた髭面男の股間に、見事な回し蹴りが決まった。言葉を発することさえできずに倒れた男の鳩尾に、鋭い斬撃が閃く。一応、それなりに加減はしているようだが、間違いなく鎖骨は折れたことだろう。
廃船同然の海賊船で体当たりを敢行し、均衡を崩した客船に板を渡して乗り込んで行く。海賊達が使ったのは、手垢がつくほど使い古された、だからこそ失敗も少ない古典的な手段だった。昼間よりやや傾いて、濡れて滑りやすくなっている甲板に、はじめはフィリエのフォローに回っていたラドルフだが、途中でその方針を改めた。フォローするまでもない。久し振りの実戦だと大喜びしたフィリエが、ものの見事に荒れくれ者を退治して見せたからだ。
「フィリエ、お前、腕を上げたな」
「ええ。この一年は、これまでになく鍛錬に励みましたから!」
 嬉々として答える姫君の足許で、腱を断たれた男が、膝を抱えて呻いている。
 誘拐騒ぎとローデシア選王国での指輪探しの騒動を終え、母国に帰国してからほぼ一年、フィリエは政務の合間の時間を、ほとんど剣術場で過ごしたという。はじめは王女に怪我を負わせるわけにいかないと手加減していた衛兵達が、音を上げて、頼むから王城に戻ってくれと涙ながらに訴えるほど、その鍛錬は厳しかったそうだ。
 道理で再会した時に痩せた――ではなく締まったと思ったものだ。その理由が実にこの姫君らしいと言えば言えなくもないが、正直にいうなら、背筋が寒い。一年間、彼女が本当に蹴り倒して痛めつけてやりたかった相手は誰だろう。王女の鬱憤解消の相手にさせられた、哀れな王宮務めの衛兵達ではなかったはずだ。
 血塗られた白刃を宙で一振り、ラドルフは剣を鞘にしまった。今回に限っていうなら、ラドルフはほとんど働いていない。無頼者の半分はフィリエが――そしてもう半分は、浩漢と名乗った辮髪の男の手によって、あらかた片付けられてしまった。
 これは一体、何という名の武術なのか。腹の底から響き渡る気合を一つ発したかと思うと、手刀が次々と敵の喉下に決まっていく。見たところ武器になりそうなものはまったく身につけていないのに、足許に倒れ臥した潮焼けした敵は、確実に息の根を断たれている。
 ――昼間会った時から、只者ではないような気がしていたが。やはりこの男、只者ではない。
 自分が倒した頬に傷のある男の胸を足先で蹴り上げて、ラドルフは背後に駆け上がってきた船員の集団を振り仰いだ
 大陸横断船の運航は、西大陸と東大陸の人間が交代で務める。今月は西大陸側が月番であり、船長は西大陸の恰幅のよい初老の男だった。さすがに髪がなくなると辮髪は結えないらしく、潮焼けした頭の周囲を、白い毛がぽやぽやと波打っている。
「おい、船の方は大丈夫なのか?」
「三等船室と倉庫の一部が浸水している。何、心配はいらん。ここからなら、一番近い陸地まで、泳いだってたどり着けるさ」
「それはよかった」
 とはいっても灯火一つない夜の海、海流や地形を読めない素人が迂闊に海に出たならば、方向感覚を失くして海の藻屑になるのが関の山だろう。
 見上げた空の狭間に、中途半端に傾いだ白月が見える。満月まで精々あと数日、今ここで血を浴びれば、呪いの症状が一際酷く出るのは間違いない。
 眉根を寄せたラドルフに向かい、剣を収めたフィリエが駆け寄って来る。その細い手を取って引き寄せようとした瞬間、何かに気づいたらしい浩漢が、はっと目を見開くのがわかった。
「――伏せろ!!」
 


 最初に気がついたのは、目の前をぱらぱらと散って行く木っ端だった。細かい粒子が鼻に入ったらしく、鼻腔がむずむずしてくすぐったい。耳は馬鹿になったようでほとんど使い物にならず、頭の奥ががんがんと痛い。
 もしかするとほんの一瞬、意識を失っていたのかもしれない。腕の中のフィリエがみじろぐ気配で、急速に現実を取り戻す。
「おい、怪我はないか?」
「は、はい……」
 ちょうど頭の斜め上辺りに、壊れて傾いだ手摺が見える。ラドルフがつかまっている床の割れ目はささくれ立っていて、身体が揺れるたび、食い込んだ切っ先が皮膚を突き破る。足下にひたひたと迫り来る黒い水面で、中途半端に駆けた月がゆらゆらと揺らめいていた。
 ――って、おい、ちょっと待て、海だと?
 長い間、傭兵などという稼業をやっていると、自分の目や耳を疑うといったことが少なくなる。本当の意味で切羽詰った時にあてになるのは、自分の目と耳の他には存在しないことを、嫌というくらいに思い知るからだ。だからこの時、ラドルフは本当に久方ぶりに、我が目が映しているものを疑った。
 つい先程まで、多少傾いていたとはいえ、彼らは船上の甲板の上にあったはずだ。それがどうしてほんの一瞬で、海面が足先まで迫って来る。
「ラドルフさん!床が、床がないです!」
「そんなことは、見ればわかるから騒ぐな!――気が散るから、少し黙っていてくれないか」
 状況などまるで飲み込めていなかったが、このまま足下の暗黒に飲み込まれたならば、永遠に這い上がって来られないことだけは理解できた。首筋にしがみついてきたフィリエを抱きかかえたまま死に物狂いで上方を目指して、頭の上に辮髪の男の顔を見る。綺麗に剃り上げられた額がぱっくり割れて、こめかみから血の筋が流れ落ちていた。
「よかった。海に落ちたかと思ったが、無事だったか」
「何とかな。しかし、これは一体……」
 浩漢の手を借りて、最初にフィリエを、次に自分の身体をかろうじて原型を留めている見張り台の上に引きずり上げると、先程まで堂々たる姿を誇っていた客船の横腹に大きな穴が開き、そこから大量の海水が入り込んでいるのがわかった。その所為で船体が大きく左方に傾き、甲板にいたラドルフとフィリエは危うく、海面に投げ出されるところだったのだ。
 これだけの船体に一瞬で風穴を開ける衝撃が、海賊船の体当たり程度で作られるはずもない。この威力は――
「――火薬だ」
「火薬って、あの花火のですか?」
 浩漢の言葉に、きょとんとしたフィリエとは裏腹に、ラドルフの胸底に、暗い認識が駆け巡る。現在の東大陸には花火という名の娯楽品として伝わる、西大陸原産の秘蔵品。その本当の破壊力と殺傷能力は、瞬く間に東西両大陸の戦争の形を変えることだろう。
 暗い認識を飲み下したラドルフの耳に、ち、と小さく舌打つ音が届いた。見張り台の手すりから、海面を見下ろしている西大陸の男は、一際、険しい表情をしている。
「あんな連中にまで流れているのか……」
 ――この男は、一体……。
「――あんたら、こんなところにいたのか!」
 見張り台上の三人に、腹の底から響き渡るような声を張り上げたのは、先程のぽやぽや頭の船長だった。自身の船が破壊され、彼の心中も決して穏やかではないだろうが、それでも威厳を失わないあたり、さすがは海の男といったところか。
「ついて来い、このままでは、船が持たん。脱出する!」



 傾いだ月が見下ろす暗い海面に、無数の小舟が縁を並べている。
 船に万が一の事態が生じた場合、客船から脱出する為の非常用の小舟だ。それぞれの定員は7名まで、多少無理をすれば、最高10人までは乗ることができる。数日間生き延びられるだけの水と食料を備えてあって、人数分の救命胴衣は既に配られ終えていた。
「――早く乗れ、あんたらで最後だ!」
 最後まで船に残って、乗客の誘導に当たっていた船員達が、急かすように追い立ててくる。海賊の襲撃くらいは予期していても、その海賊がどこかから流れてきた火薬を持っていたことは、彼らにとっても想定外だろう。しかもその火薬が暴発して、船腹に大穴を空けてしまうなどとは、まさに寝耳に水だったに違いない。
 さすがに板だの梯子だのを渡している余裕はなかったらしく、破壊され、傾いた船縁から小舟までの高さは、人の身の丈以上はある。刺客も海賊も容赦なく蹴散らす姫君ではあるが、無理をして飛び降りて足でも挫かれてはたまらない。先に小船に降り立った浩漢に、ラドルフは抱きかかえたフィリエの身体を預けた。胡散臭いことこの上のない男ではあるが、この際、背に腹は変えられない。華奢な四肢が浩漢の手を離れて、自分の脚で立ったのを確認し、自らも傾いた船体から飛び降りようとした、まさにその時、耳元で微かな金属音を聞く。
「――ラドルフさん、後ろ!」
 無防備に前のめりになっていた身体が、船上に引きずり上げられた。首筋に金属の鎖が巻き付いて、そのまま力任せに引っ張られる。左手を首の鎖に、右手で剣の鞘を掴んだラドルフは、そのまま勢いよく後方を振り仰いだ。
「お前……!」
 ラドルフが甲板で倒したはずの、頬に傷がある海賊の男だった。黒光りする鎖鎌を手に、血まみれの顔が人間でないもののように歪んでいる
「行かせんぞ……」
 引き抜いた白刃と鎌の切っ先がぶつかって、暗い夜空に火花が散る。いったん離れ、すぐに横殴りに切りかかってきた飛道具を、ラドルフは身を捩ることでかろうじて避けた。鋭い切っ先が船室の壁に食い込んで、細かい木っ端が辺りに舞う。
 鎖鎌の鎖を掌に巻きつけた男が、血走った目でラドルフを見る。飛び道具と長剣では、互いの得物が届く距離が違う。相手の間合いに踏み込むことはすなわち、フィリエの乗った小舟から、それだけ遠ざかるということだ。
「――ラドルフさんっ!」
 ほとんど悲鳴と変わらぬ声音で名を呼ばれ、ラドルフは背後を振り仰いだ。月明かりしか灯明のない夜の片隅でも、ラドルフの目に、彼女の姿は良く映える。どうしても欲しくて、自分の過去も彼女の未来も省みず、奪い取ってここまで来た。そら見たことか、と誰かがどこかで嘲笑う。暖かくて柔らかくて沈み込むほど心地のよい居場所など、お前にははなから、分不相応な望みであったのだと。
「先に行け!俺もすぐに行く!」
 傾きながらもかろうじて原型を保っていた船体が、轟音と共に水没したのは、それから間もなくのことだった。





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