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月の宝珠
第一章 洋上の襲撃者〜


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 薄暗い船室を抜けると、そこには大海原が広がっていた。
 遮るもののない太陽が甲板に照り返し、波打つ水面で陽光がきらきらと瞬いている。人間の目には見えないが、きっとどこか近くに陸地があるのだろう。木の枝を咥えたカモメが数羽、帆の近くを飛び交っている。
 海の色は空の色を映しているだけのはずなのに、どういうわけか、空の色より海の方が青みが強い。白い波に混じって、時折気泡のようなものが浮いて出るのは、海面の浅いところに魚でも泳いでいるのだろうか。
 フィリエにとって、船旅は人生で二度目――最初の時はマゼンダからシルヴィアまで、タタール湾の内海を進んだので、どこかに必ず陸地が見えた。ここまで360度見渡すかぎり陸地の見えない船旅は、これがはじめてのことだ。
 潮風に揺れる髪を片手で押さえ、手すりにもたれて大海原を眺めていると、不意に傍らから声がした。
「あんた、東大陸の人だね」
 フィリエに声をかけたのは、黒髪を一本の三つ網にして、肩の下に長く垂らした若い男だった。三つ網は長く垂らしているのに、頭頂部の毛は綺麗に剃られていて、太陽に照らされた頭がまぶしく光っている。東大陸では異相としか見えない髪形だが、これは西大陸では一般的な男性の姿であり、弁髪(べんぱつ)という。
 シルヴィア王国の港まちイオニアから、月に一度、西大陸へと向かう定期便は、東大陸から西大陸へと向かう数少ない航路の一つだ。特にこの時期は季節風の関係で他の時期より早い日数で到着するので、乗客も多い。東大陸での商売を終えて西に帰る弁髪の商人の集団や、逆に西大陸へ留学に行く東大陸の若者達など入り乱れていて、お尋ね者の駆け落ち男女も紛れ込むのに難はなかった。
「ええ、シルヴィアから来たフィリエといいます。貴方は、西大陸のお人ですね」
「浩漢と申します。しかし、貴女のようなわかいお嬢さんが一人で、船旅を?」
 奇妙な髪型に目を引かれてしまいがちだが、それなりに整った顔立ちの若い男に本気で訝られ、フィリエは頬を赤らめた。近い内に東大陸を離れる予定で、旅券を手配していたラドルフと一緒にこの船に乗ることができたのは、あの老司祭が用意してくれた婚姻証明書があったお陰だ。
「一人じゃありません。え……と、その夫と一緒です」
「――フィリエ!」
 噂をすれば影……というわけでもなかろうが、振り返ると、顔の半分が焼け爛れた男が先程フィリエが昇ってきた階段から、甲板に上がってきたところだった。相変わらずフードを目深に被っているが、口許の風避け布は外している。
「ラドルフさん、気分良くなりました?」
 今でこそ晴天で、ベタ凪ぎの大海原を進んでいる船ではあるが、イオニアの港を出てから数日間は高波に揉まれ、黙って立っているのも難しい程だった。船酔いで倒れる乗客が続出し、ラドルフも青白い顔をして、眼差しが明後日の方角を向いていたものだった。
 ちなみにこの船酔いというものは、日頃の鍛え方や経験に左右されるものではないらしく、屈強な成人男子が青白い顔をしている横で、本格的な船旅がはじめてのフィリエはまったくの平気だった。ラドルフは過去に何度か船旅の経験があり、嵐に遭遇したこともあるそうだが、船酔いに見舞われたのは今回がはじめてだという。
「まあ。何とかな。しかし、よく晴れたものだな」
「さっき船頭さんが、この調子なら、明後日には西大陸の……延国の港に着くって言ってました。楽しみですね」
 ――世界が見たいんだろう?!来い、俺が見せてやる!!
 そう言ってフィリエの手を取った男は、西大陸へと向かう船旅の手配をしていた。
 イオニアから西大陸への航路が開かれたのはおおよそ20数年前、その間、船が嵐にあって、難破したなどというという話は珍しくもなく、王宮育ちのフィリエでさえも耳にしたことがある。あの日あの時、劇的な再会を果たさなければ、彼は今頃一人で船上の人となり――多分、生涯、合間見えることはなかった。
 並んで甲板に立ち、潮風に目を細めるラドルフの横顔を見上げながら、そっと大きな手に自分の手を絡めてみる。
 世界が見たいと願ったことは紛れもない事実だけれど。本当はどこだっていいのだ。この人の隣にいられるのであれば。
「……夫婦?あんた達が?」
 しみじみと幸福に浸っていたので、今この場所に自分達意外の第三者がいたことをすっかり忘れていた。呆けたような呟きに弁髪の男を見上げると、フィリエの傍らでラドルフも同じように男を見ている。
「――そういや、誰だ、こいつ?」
「浩漢さんです」
 当の本人をまったく無視した身も蓋もないやりとりを、弁髪の男――浩漢は咎めなかった。鳩が豆鉄砲を食らったような、どこか呆気に取られたような表情で、フィリエとラドルフをしげしげと眺めている。
 出港以来の晴天とあって、甲板にでてきた東西両大陸の人間達が、思い思いに談笑や昼食を楽しんでいる。その中の一人――五歳くらいの男の幼児が遊んでいた極色彩の鞠が、フィリエの足許に転がってきた。拾い上げて子供の目の高さまでしゃがみこんだフィリエの表情は、満面の笑みだ。
 そんな光景を見るとはなしに眺めていたラドルフに向かって、弁髪の男が軽く口の端を持ち上げた。さきほどフィリエに話しかけていた時の優男然とした風貌とはまるで違う、酷薄と言っても過言ではない表情だった。
「シルヴィアのフィリエか。……シルヴィア王国では最近、王女の病で輿入れを中止したと聞いたが」
「――!貴様!」
 咄嗟に腰の剣に伸ばしかけた男の腕を、しなやかな指が絡めて取った。親元に駆け戻る子供に手を振っていたフィリエが、栗色の尻尾をはためかせながら、ラドルフの顔を覗き込んでいる。
「ラドルフさん?どうかしました?」
「ああ、いや、何でもない」
 ざわめきかけた精神が、波が引くように静まって行く。そんなラドルフとフィリエの姿に、浩漢の顔から先刻の鋭さが消えた。並び立つ二人と、ラドルフの右腕に触れたままの白い手を見比べ、再び、鳩が豆鉄砲でもくらったかのような顔になる。
「あんたら、本当に本当の夫婦なのか」
「……貴様、さっきから何が言いたいんだ?」
「――どう見ても、誘拐犯と攫われた人質にしか見えないのだが……」
「やかましい!!」
 ラドルフの怒声と同時に、三人の頭上で、船縁から飛び立った海鳥が、あほう……と鳴いた。



 大陸横断船の二等船室は、鍵はかかるが密室ではない。
 三等船室は男女雑寝の大部屋で、二等船室はその大部屋を、敷居で区切って部屋にしてある。一応、寝台も壁も戸も設けてあるが、その壁の下と上は吹き抜けになっていて、床に横たわれば、隣室を歩く人間の足首が見えてくる、といった按配だ。
 イオニアの港を出港してからの夜をずっと、ラドルフは床に毛布を敷いただけの簡素な寝床で横になっていた。船が大揺れに揺れている間は、とても寝台でなど寝られなかったし、船が安定した今となっては、もっと寝台でなど眠れない。腰の高さ程度の寝台の上で、彼が攫ってきてしまった姫君が栗色の髪を梳っているからだ。
「最初に到着するのは、延国杞州にある賢栄という港だそうです。そこに三日間寄航した後、西大陸最大の国――景国に向かうそうですけど、どうします?」
「まあ、行った先で考えるさ」
 ごろりと寝床の上に仰向けに横たわって、組んだ手の上に頭を預ける。考えていたのは今後の行く先――ではなくて、今日の日中、甲板で出合った男のことだった。傭兵生活の長いラドルフは、相手の体格や身のこなしだけで、ある程度の力量を測ることができる。若干右肩が下がり気味の姿勢は、常に利き腕側に剣を下げる生活をしている為だろうし、肩や背の肉のつき具合は、かなりの使い手のそれだった。
 二度と戻って来ない覚悟を固めて手に入れた旅券、折角だからと雑魚寝の三等ではなく、二等船室の旅券を入手したのだが、一年程度、護衛の仕事をしたくらいの蓄えでは、一等船室の旅券など、とてもではないが手が届かなかった。かなりの使い手と見られる西大陸の男が、その一等船室の旅券を持っている。それも一生に一度の船旅に、思い切って張り込んだ――という感じではなかった。
「どうしたんですか?ラドルフさん?」
 黙りこんだラドルフを訝ったのだろう。フィリエが寝台から身を乗り出してくる。
 既に時刻は夜半過ぎ、寝巻きに着替えた彼女の白い首筋と、そこから続く布越しにも柔らかそうな膨らみがまともに目に飛び込んできて、ラドルフは慌てて視線をそらした。出港から3日間はまともに立ってもいられないほど揺れに、人生で初の船酔いとやらを体験してしまったラドルフではあるが、負ってしまった厄介な呪いを別にすれば、いたって健全な成人男子である。揺れが収まって数日たてば食欲も戻ったし、黙って横になっていても悪寒が這い上がって来るようなこともない。そして通常、健全な成人男子の心身は、若い異性と同室で寝起きして、心安らかに過ごせるようにはできていない。
 華奢な手首を掴んで取って、引きずり下ろしてやりたいと、思わないといえば嘘になる。さすがに、気配も声もだだもれのこの空間で、実際に行動に及ぶほど見境がないわけではないが。
「どうでもいいから、今日はとにかくもう寝ろ」
 肘を支えに身をもたげて、ごろりと、寝台とは反対方向に身体を向ける。
 ――まあ、いい。陸に着いたら、時間はいくらでもあるさ。
 このまま何事も起こらなければ、あと2日程で、船は西大陸の港に到着するはずだった。





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