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月の宝珠
序章 新しい旅立ち〜


扉へ/とっぷ


 シルヴィア王国に大騒動を巻き起こした、王女の駆け落ち騒動から数日後。
 ラドルフとフィリエの二人の姿は、シルヴィア王国最大の港町イリウスにあった。
 何しろ、隣国に嫁ぐ寸前の王女を、国王と国の民の眼前からかっさらって来てしまったのである。これでとうとうシルヴィア王国でも犯罪者かと、しばし奇妙な感慨に胸を打たれたラドルフではあったが、想像に反して、今のところ、追手が迫ってくる気配はない。もっともそれも今だけのこと、この先はいつどこで、街を守る衛兵に、王女誘拐の犯人だと捕えられても文句は言えない。
「ラドルフさん、どこに行くんですか?」
 沈み始めの夕陽がタタール湾の水平線を茜色に染め上げ、夕暮れが迫り始めた頭上では、家路を急ぐ鴉が盛んに飛び交っている。港町の坂道をフィリエの手を引いて歩いて、ラドルフは一つ建物の前で足を止めた。
「――ここに、俺の知り合いがいるんだ」
 それは港町を見下ろす坂の上にある小さな教会だった。かつては白かったのだろう壁は飴色に変色し、半ば崩れた柵の向こうに墓地が広がっている。ラドルフが躊躇いもなく押し開けた門扉は、蝶番が壊れかけていた。目を瞠ったフィリエの眼前で、耳障りな音をたてながら、教会の扉が開かれてゆく。
「――おい、じいさん。いるんだろう!出て来い!!」
「なんや、誰かと思うたら、ラドルフはんやおまへんか。いつものことながら、突然やなあ」
 壁の変色具合といい、蝶番の軋み具合といい。かなりガタがきている教会の奥から、老いた山羊――ではなくて、白い僧衣に身を包んだ、老年の司祭が現れた。服も髪も長く伸ばした髭も真っ白な中で、何故か顔だけがほんのりと赤い。躊躇いもなく教会の中に足を踏み入れたラドルフは、老司祭の口許から漂ってきた酒の香に、露骨に顔をしかめて見せた。
「また昼間から呑んだくれてたのかよ。この生臭神父が」
「あんたはんの国で、どう言ってようと知ったことやおまへんが、神父やのうて司祭やと、何度言ったらわかる」
 現在東大陸で最も広く信仰されている一神教は、北部と南部で宗派が別れる。ラドルフの生まれ故郷であるローデシア選王国で信じられているのが旧教で、シルヴィア王国の教会は、大抵が新教だ。
 ちなみに新教にも旧教にも、聖職者の飲酒を禁じる法はない。とはいえ、いい年をした大人が、昼日中から、赤い顔をして息を匂わせていていいという道理はない。それは信仰うんぬん以前の問題だ。
 慣れたやり取りから推測すると、ラドルフと老司祭は、随分と以前からの知り合いなのだろう。ただひたすら目をしばたたくしかないフィリエに目を留めて、司祭はくたりと赤ら顔を弛緩させた。
「おやまあ、別嬪さんやおまへんか。しっかし、ラドルフはんがここに生きた人間を連れて来るのは、随分、久しぶりやなぁ」
「フィリエ。この生臭神父の言うことはまともに取り合うな。――俺たちみたいな傭兵をまともに弔ってくれる聖職者なんてのは、この爺さんくらいしかいないんでな。もっとも、こんな奴に弔われて、あいつらが喜んでいるとも思えんが」
 背を教会の壁にもたれ、ラドルフはげんなりと息を吐く。外から見れば随分と古びた教会も、恐らく、街の人間が交代で掃除に訪れているのだろう、建物の中は意外と清潔で居心地のよい空間だった。白く光り輝く聖母像の下方に、古びたパイプオルガンがどすんと鎮座している。
「その割に、よくこの教会にやってきては、墓に酒を供えて夜通し、なんやかんや語っているようだがのお。――しかし、ラドルフはんが連れて来るんや、このお嬢さんも、親御さんに思うお人との結婚を反対されたんかいな」
 老司祭の言葉に、フィリエはラドルフの顔を見上げた。顔の半分が焼け爛れた男は黙ってフィリエを見ている。人が生まれた時、死んだ時、婚姻する時、そしてその婚姻を取り消す時、人は聖職者の手を借りる。長い傭兵生活の合間で、親に反対されて駆け落ちしようとする令嬢や、夫の暴力に耐えかね逃げ出した人妻を、ラドルフは何人か、この教会に連れてきたことがあるという。
「お嬢さん!ここまで来ればもう安じゃ。このグレゴリー司祭が、あんたはんと想い人に婚姻の契りをかわして進ぜようぞ」
「は、はあ……」
 手もみしながら近づいて来る白山羊――ではなくて司祭の姿に、フィリエは咄嗟に後ずさった。もう二度と会えない覚悟をしていた想い人との再会から、数日、あまりにも色々なことがありすぎて、さすがのフィリエも展開についていけない。
 その時、教会脇の釣り鐘から時を告げる鐘が鳴った。低く長く響き渡る厳粛な響きは、人々に夜の訪れを告げる時の音だ。
「で?花婿はいずこに?」
 ひゅるるる……羽目板の壊れかけた屋根から風が吹いてきた、と思ったのは決して気分の所為だけではあるまい。王都を揺るがす駆け落ち騒動の二人が顔を見合わせるその先で、司祭は本気で訝しそうな顔をしている。ラドルフがもたれていた壁から背を離し、小さく一言、呟いた。
「悪かったな。……俺だ」
 その瞬間、年齢でいうならラドルフとフィリエの三倍近いだろう老司祭の表情が、まともに、ぴしりと固まった。いったい今この場で、どういった反応をすればいいのだろう。回らない頭で考えたあげく、フィリエはここは、遠慮なく噴出すことにした。





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