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月の宝珠
朝の気配〜


扉へ/とっぷ



「来ないですねぇ」
 と、フィリエが言った。
「――来ないよねぇ」
 フィリエに応えたカイジャンは、長い腕を胸の前で組んでいる。
 向かい合った二人の間のテーブルでは、朝の珈琲が、香しい匂いと湯気を盛大に立ち昇らせている。



 共和制になる前のエリトリアで、王宮に仕えていた腕利きの呪術師が、この町に隠遁している。
 カイジャンがそんな噂を聞き込んできたのは、件の指輪探しの騒動から数日、ようやくローデシア選王国の国境を抜け、エリトリア共和国に領内に入った時のことだった。
 今なお、呪い師が相応の地位を持つエリトリアで、かつて王宮に仕えていたともなれば、その呪術師が、かなりの力を持っていることは間違いない。もしかしたらそれほどの力を持つ呪術師になら、ラドルフにかけられた呪いを解くことができるかも。あまり、期待はしていないと言いながら、それでもその呪術師の元を訪ねたラドルフは、夜も更けた頃になって、酷く酔って帰ってきた。
 エリトリアで共和制が廃止されたのは、おおよそ五十年前――生きていたとしてもかなりの高齢であるはずの呪術師が、すでにその能力を失っていたのかもしれない。噂自体が、ただのガセネタだった可能性もある。もしかすると、それらの想像よりもさらにもっと悪い何かであったのかも。
 想像するしかできないのは、心配して起きて待っていたフィリエに「夕飯はいらない」と言い残したまま、部屋に篭ったラドルフが、こうして朝食の時間になっても、部屋から出て来ない所為だ。これまで旅の過程で、フィリエは一人部屋を、ラドルフとカイジャンは相部屋を選ぶことが多かったが、たまたま今回は二人部屋が満室で、ラドルフとカイジャンも別部屋を使っている。宿屋の一階にある食堂から、部屋へと向かう階段を見上げて、フィリエは息を吐き出した。
「ラドルフさん……大丈夫でしょうか」
「まあ、あいつだって、一応、人間だからさ。たまにはふて寝したくなる時だってあるだろうさ。放っておいて、俺たちは先に飯を食おうぜ」
 カイジャンが、珈琲の入ったカップを持ち上げる。砂糖もミルクも淹れないまま、美味そうに飲み干して、柔らかい視線でフィリエを見る。
「そう心配することもないさ。きっと昼くらいになれば、腹が空いて起きだして来るから」
 穏やかに笑う年長の男を、太陽のようだ、と思うことがフィリエにはある。そんなことをラドルフに言った日には、それがあいつの手段なんだ、と眦を吊り上げて怒り出しそうなので、口に出して言ったことはないが、時々、カイジャンの眼差しに、故郷の父や兄を思い出す。それは多分、カイジャンがラドルフに対して、フィリエの兄がフィリエを慈しむ時のような――歳の離れた兄が、弟を思うのにも似た感情を抱いているからなのだと思う。
「だけど、ラドルフさん、昨日の夕ご飯も食べてないんですよ?2食も抜いたら、身体に良くないですよ!」
「いや、例の件を除けば、健康そのものなんだから、別にあいつが一食や二食くらい食わなくたって、倒れたりしないと思うが」
 フィリエの発言に気圧されたカイジャンが、微苦笑を浮かべてカップをテーブルに置く。ラドルフが酔って帰ってきても、朝になって起きだしてこなくとも、カイジャンはまったく意外そうな顔をしていなかった。2人で揃って席について、2階を見上げた時、苦笑を浮かべながら、彼は小さく呟いた。音にはならないほどの小さな囁き、だが唇は確かに呟いていた。――またか、と。
 はじめてではないのだ。多分、こんなことは。
 ――無駄だ、今まで、誰にもこの呪いは解けなかった。
 月が満ちる毎に自分を苛む苦痛が、呪いの発現だと知って後、恐らくラドルフはその呪いを解く方法を探し求めたことだろう。少しでも腕のいい呪術師がいると聞けば、わずかの望みを抱いて訪ねて歩き――その度にラドルフが感じたであろう失望を思うと、フィリエの胸はどうしようもなく痛む。
 昨日の夜、部屋の窓から見上げた月はもうかなり丸かった。満月の夜はすぐそこだ。
「やっぱり、わたし、行ってきます!」
「いや、今日に限って、それは止めておいた方がいいんじゃないかと……」
「どうしてですか?!」
「どうしてって。いや、そこは、ヤローの事情っていうか……」
 止める間もあればこそ。椅子を蹴って立ち上がったフィリエの細い背が、宿屋の二階を目指して突進して行く。
「おい、マジかよ」
 彼女の猪突猛進ぶりは今にはじまったことではないが、いやはや、思いたってから動き出すまで、ものの3秒とかかっていない。持ち上げた珈琲茶碗を目の前に掲げ、カイジャンはしばし、唖然とする。
 一体何があったかは知れないが――探し訪ねた呪術師に、こんな呪いは見たことも解いたこともないと言われ、己の過去の過ちと罪を思い出したあげくに、それらを受け入れられずに足掻く自分自身が嫌になって、逃げ出したくなった――大方、そんなところだろう。まあ、生きていれば誰だって、居た堪れなくて逃げ出したくなる事象の一つや二つは持っている。かつて自分自身に剣を突き立てようとするのを止めたり、隠し持っていた劇薬をどぶに捨てたこともあるカイジャンとしては、酒の逃げるくらいならまだ大丈夫だと、安堵することもできる。
 だが、そんな日の翌朝に――ましてや起き抜けに、好きな女に突撃されて、それでも手を出せない――いや、別に出せなくはないのだろうが、多分絶対に出せはしない――のだとしたら。
「……俺は止めたんだからな。後は知らんぞ」
 呟きはひきたての朝の珈琲の香に混ざって、溶けた。



 とん、とん、とん。さほど厚いとは言えない扉の前に立って、3回扉を叩いても、中からはうんともすんとも返事がなかった。
 それなりに長くなってしまったこの旅の最中、フィリエが寝過ごしたラドルフを起こしにきたのは、これが初めてのことではない。起こしに――と言っても、人の気配に敏いラドルフは廊下をフィリエが歩く音だけで目が覚めるらしく、大抵は扉の前にたどり着くまでに、きっちり衣服を着込んで自分から起きだしてくる。もっとも接近した時でさえ、扉の前に立つと同時に、部屋の中から、今行く、と声がかかったものだ。
「ラドルフさん……まだ、寝てます?」
 恐る恐る押し開けた扉に、鍵はかかっていなかった。窓辺に垂れ下がったままのカーテン、脱ぎ捨てられて椅子の背にかけられた衣服、そんなものの向こうの寝台で、布の塊が人の形に盛り上がっている。フィリエがそろそろと部屋に足を踏み入れても、塊はぴくりとも動かない。
 ――どうやら本当に、眠っているらしい。それもかなり深く。
 清潔な羽枕に頭を埋め、剣士の男はきつく瞼を閉ざしていた。どうやら、熟睡すると寝息さえほとんどたてない性質らしく、ぱっと見ただけでは、生きているのか死んでいるのか判別し難い。ここまで深く眠っているラドルフさんって珍しい……今更ながら心の中で呟いて、寝台の傍らの窓の前に立つ。カーテンをめくって窓をあけると、そこには曇天が広がっていた。近いうちに一雨くるのかもしれない。手を伸ばせば届きそうなほど低い位置に、重苦しい灰色の雲がみっしりと垂れ込めている。
「ラドルフさん、早く起きないと朝ごはんなくなっちゃいますよ!」
 呪いの解呪が辛い過去と直結している以上、ラドルフにとって、もっとも触れられたくない箇所であることくらい、フィリエにも想像がつく。よし、と心の中で気合をひとつ、思い切り明るい声を作って、盛り上がった布の塊に腕を伸ばした、その直後。
「――ひゃっ!!」
 布の塊がめくれ上がり、視界が180度反転した。
 気づいた時、フィリエの身体は先程までラドルフが横たわっていた寝台の上に仰向けになり、その上に身体の半分が焼け爛れた男が馬乗りになっていた。開け放たれた窓の向こうは曇天、灯火のない薄暗い室内でラドルフが抜き放った剣の切っ先が鈍く光る。
 ほんの1秒前まで眠っていたはずの男が、それでもまだわずかに霞がかった眼差しで、フィリエの喉首に抜き身の剣を押し付けている。
「……なんだ、お前か。驚かすな」
 それはこっちの台詞です!!と声を大にして叫びたがったが、胴体と頭が切り離される三秒手前の状態で、人はそうそう叫べるものではない。意味もなく口をぱくぱく動かしているフィリエの眼前で、ラドルフは抜き身の切っ先を鞘に収めた。さすがは百選練磨の剣士というべきか、この状況で剣を突きつけておいて、首の皮一枚切られていない。
 ぎしり、と音がして全身を覆っていた圧迫感が消えてなくなる。重苦しい曇天をそれでも眩しそうに眺めて、落ちてきた前髪を鬱陶しげにかきあげている。
「ああ、もう朝か。――寝過ごしたらしいな」
「け、け、け――」
「毛?」
「剣をお布団の中に入れて寝ないで下さい!!」
 戦争中や野宿の最中ならまだしも、ここは平和な町場の宿屋の中だ。声を張り上げたフィリエに向かい、ラドルフは片眉を上げて見せた。
「だったら、代わりに何を抱いて寝ろと?」
「何って……毛布とか、枕とかいっぱいあるじゃないですか」
「却下だな。そんな手応えのないものを掴んでいて眠れるか」
 果たして、世の一般男性は、抱いて寝るものに手応えを求めるものなのだろうか。普段フィリエの周りにいる耳年間の侍女達も、そんなことは教えてくれなかった。しかしだとしたら、隣国の王子に固いと吐き捨てられる自分は、彼が掴んで眠るにはちょうどいい固さ加減だろうか。
 寝台の端に座って、そんな取り止めのないことをつらつら考えていたフィリエの頭に、固くて大きな掌が落ちてきた。撫でたというほど優しくはない、叩いたというほど力強くもない、ただそこにあったから、手を置いた――そんな感じの仕草だ。
「メニューは」
「はい?」
「今日の朝飯だ」
「産みたて卵のハムエッグと、焼きたてのライ麦パンです。レタスサラダもついていて、珈琲は無料で飲み放題です」
 律儀に朝食のメニューを案内するフィリエに、ほんのわずか眼差しを緩め、ラドルフは出口の方角に顎をしゃくった。椅子の背もたれにかけてあった服の端を取り上げて、フィリエの頭から手を退かす。
「着替えたら、行くから。俺の分も頼んで置いておいてくれ」
「はい!」
 満面の笑顔が、満面の笑みのまま遠ざかって行く。言葉に違わず、着替えて階下に下りて行ったラドルフが、意外そうな顔をしたカイジャンに「早かったな」などとからかわれて渋い顔をするのは、それから十数分後のことだった。




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