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月の宝珠
〜最終章 再び酒場にて


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「――それから先は、本当に世界中を回ったよ。一時期、海を渡って西大陸に行っていた時期もある。そうこうしているうちに、旅を続けられない事情ができて――え、どんな事情かって?野暮なことを聞きなさんな。好き合った男と女が四六時中一緒にいるんだ、わかるだろ?そうして、一つの街に落ち着いた。
 風の噂に父王が死んだと聞いても、後を継いだ兄王子が国を乱しても、姫様は国には戻らなかった。だけど、寂しくなんかなかったよ。彼女の側にはずっと、剣士が一緒にいたからね」
 長い長い物語に、女主人の喉はほんの少し、かすれていた。
 磨いて干してあった硝子に汲み置きの水を注いで、一気に飲み干した時、先刻店にやってきて、隅の席で杯を傾けていた男が、ゆっくりと近づいてきた。
「……話は終わったのか」
「ああ、お帰りなさい。――あんた」
 この辺りの界隈で、用心棒や傭兵のまとめ役をしている壮年の男だった。すっかり白いものが多くなった頭髪を首の後ろで括って、老いてなお逞しい身体には無数の傷跡がある。若い頃は名の知れた剣士だったらしく、今でも並の若い者には打ち負けない男の存在を、無論、彼も知ってはいた。しかしこの二人、夫婦だったのか。近づいてきた男に水を渡す女の仕草は自然で、そこに何の言葉もなくとも、彼らが同じ行動を何年も繰り返してきたのだということが、見て取れた。
「仕事は終わったの?」
「ああ」
 その時、不意に、水の入った器を受け取った男の手の皮膚が、通常とは違う色に変色していることに気がついた。
 長年傭兵稼業を続けた男の皮膚は、無数の傷に覆われており、加齢による染みや皺もあって、薄暗い酒場の中で一見して、そうとは分からなかった。身体の左側――顔も首も恐らくは、かなり古いものであろうが、焼け爛れた火傷の痕だ。
 ――火傷の痕……?
 まさか、あんたらは。あまりに驚いた所為で、その言葉の続きが見つからない。
「そうそう」
 帰宅した夫に暖かい食事を振舞おうとしていたのだろう。鍋の中身をかき混ぜていた女主人が、振り返って微笑んだ。
「この国の姫様、明日、隣国に輿入れするんだってね」
 その時になってようやく、彼女が自分に向かって長々と昔語りを――剣士と逃げ出した姫君の話を続けたわけを悟った。
 周囲を大国に挟まれた小国家の姫君が、明日、隣国に嫁入りする。隣国はほんの数ヶ月前まで戦争状態にあった大国で、昔語りの姫君よりも、さらに条件の悪い婚姻だ。
「それがどうした。俺には関係ない。――釣りはいらん。帰る」
 財布の中身を乱暴にぶちまけて、店を後にした男の背後に香ばしい匂いが漂っていた。あれはこの辺りの街の家や店で好まれる、魚の香草焼きの匂いだ。彼女の店は酒だけでなく食事もなかなかのものなので、傭兵仲間の間でも人気が高い。
「馬鹿げている……」
 そう、まったくもって馬鹿げている。きっとあれはすべて、彼女の作り話なのだろう。たまに店に来る若い客をからかって、今頃は夫と二人で笑いあっているに違いない。一国の王女に、酒場の女将が――傭兵の女房が勤まるものか。
 外套の襟をたてて、足早に酒場街の灯りを通り抜けようとして、男はふと立ち止まった。
 ――だけど、寂しくなんてなかったよ。彼女の側にはずっと、剣士が一緒にいたからね。
 耳の奥で声がする。かつては一国の王女であったかもしれない女が語った、それ相応に満ち足りた彼女の人生が。
 拳を握り締めて、ゆっくりと歩み始めた男の頭上に浮かんだ月は、満月までにはまだ少し間のある、わずかに歪んだ形をしていた。





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