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月の宝珠
第四章 雪と氷の神殿〜


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「ラドルフさん、逆の理って知っています……?」
 剣の切っ先を首筋に押し当てたフィリエは、ラドルフがこれまで目にしたこともないような、艶やかな顔で微笑んでいた。
 一歩でも足を踏み出せば、その切っ先が彼女の喉を切り裂きそうで、動くことができない。目の前で自ら命を断たんとする女を見るのは、ラドルフの人生において、二度目のことだ。これが夢なら覚めてくれと切に願う。まったくもって冗談にもならない。決して地下人に微笑みかけることのない運命の神とやらよ。これ以上、何かを奪って行くというのなら、俺の命を持って行け。
「ミドルバさんに渡したあれ、わたしの懐剣なんです」
「――何だと?」
「何かの役に立つかと思って、宿の女将さんに頼んで、暖炉に火を入れて焼いてもらったんです」
 一体いつの間に、そんな策略をたてていたというのか。
 艶やかに微笑んだまま、フィリエは剣を握り締めた腕にほんの少し、力をこめた。氷水晶の先端がわずかに動いて、一筋、赤いものが滴り落ちる。フィリエの白い首筋に、それはまるで何かの装飾であるかのように、鮮やかに映えた。
「この懐剣で、満月の夜に、あなたを憎んだ女(ひと)があなたに呪いをかけた」
 歌うように、紡ぐように少女は言う。
 今度は先ほどよりもう少し力がこめられて、流れ落ちる血の筋が太くなる。凍りついたラドルフの身体は意思とは裏腹に、指先のわずかさえも動かない。
「ラドルフさんも知っているでしょう?今では呪いも神託も随分廃れてしまいましたけど…シルヴィア王家もかつては、呪い師の家柄だったんですよ」
 摩訶不思議な力を持つ一族が、その力を神から授かったと称して、他の人間を跪かせる。ほんの数百年前までは、本当によくあった話だ。
 ――だから。
「わたしにならできるかもしれない。今日は新月、この神域で、この神剣を使って、あなたを愛しているわたしになら――」
 これまで彼を苛み続けてきた月夜の呪いを解くことが、できるかもしれない。
 三度(みたび)、少女の腕に力がこめられる、その直前で、ラドルフの身体が、ようやく動いた。



「――馬鹿野郎!!」
 怒声が盛大に鳴り響いて、石の床に氷水晶の短剣が転がり落ちた。咄嗟に拾い上げようとしたフィリエの腕を掴み取って、ラドルフは再度、声を張り上げた。
「お前はシルヴィアの王女だろうが!俺なんかの為にこんな馬鹿なことをするな!!」
「わたしは王女である前に、ただの人です……!」
 誰が認めてくれなくとも、好きな人の幸せを願う、ただ一人の女だ。
 伸ばした掌は首筋から流れた血で赤く濡れていたが、呪いを解くには到底足りない。床に伸したフィリエの片腕を、ラドルフは容赦なく捻り挙げた。力ずくでフィリエの動きを封じておいて、足の爪先で躊躇いもなく、一国の宝物を蹴り付ける。磨き上げた床を金属が滑って、女神像の下の床下に、ヒュードリヒ家の神剣が音を立てて転がり落ちる。
「懐剣が……!」
「――もう、やめてくれ……!!」
 発する声音は頼りなく、どこか、庇護を求めてすがり付く幼子のような響きを帯びていた。
 出会った頃は随分と、呆れられたり怒られたりしたが、こんな風に彼の剥き出しの感情を見たのは、正真正銘、はじめてのことだった。フィリエの身体から力が抜けても、ラドルフの腕は緩まない。それどころか、まるでそれがこの世の果ての最後の砦でもあるかのように、痛いくらいにきつくしがみ付いてくる。
「頼むから……」
「……ラドルフさん?」
 いつしか身体は完全にラドルフの腕に捕らわれ、固くて大きな掌がフィリエの頭や頬や首や――そこに彼女が存在することを確かめるように、身体のあちこちをせわしなく動いていた。いつか隣国の王子に触れられた時のように、気持ち悪いとはまるで思わなかった。ただひたすら胸が苦しくて――声を張り上げて叫びだしたいくらい、切ない。
「……頼むから、もうこれ以上、俺から大切な人間を奪わないでくれ」
 返す言葉よりも先に、血の味がする唇が降って来きた。
 フィリエにとって人生で二度目の口付けは、甘くもなければ胸が高鳴りもしない、鉄の臭気と血の味を帯びたものだった。それでいてやめて欲しいとは思わない。このまま世界が終わってしまえばよいとさえ思う。
 合わされ離れた唇が濡れた音をたてて、再び吸い寄せられる。フィリエはラドルフの広い背中の布地を、きつく握り締めていた。





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