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月の宝珠
第四章 雪と氷の神殿〜


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 窓枠に降り注ぐ陽光の色が、いつの間にか燃えるような朱色に変わっていた。斜めに傾いだ視界の隅に、燃えながら沈んで行く太陽が見える。ほんの少し前まで頭上の高いところにあったはずなのに、いつの間にこんなに時間がたったのだろう。
「――目が覚めたか?」
 頭の上近くに男の声が聞こえて、フィリエは目を瞬いた。
 フィリエが王城で嗅がされた薬香の正体は、ローデシアで生まれ育ったラドルフはもちろん、ラドルフより裏街道生活の長いカイジャンにさえもわからなかった。責任を感じた男二人が慌てふためいて探し出してきた呪術師の「まあ、死ぬことはないでしょう」という楽観的だか無責任だかわからない台詞にしたがって、三日間ほど宿屋で安静にしていたのだが、どうやらようやく、香の効果は抜けてくれたようだ。
「どうだ、気分は?」
「大丈夫です」
 寝台の上に起き上がってももう、頭も痛まなければふらつきも感じない。拳を握り締めて回復をアピールしたフィリエを見て、ラドルフも少しは気が楽になったらしい。表情の見えにくい顔にほんのわずか、よく見なければわからないほどささやかに、笑みにも似たものが浮く。
 相変わらず外に出るときは重装備で顔を隠しているが、そういえば最近、彼はフィリエの前で顔を隠すことがなくなった。それが、ラドルフが自分に気を許してくれている証のような気がして、少し、嬉しい。
「本当に大丈夫そうだな。……良かった」
 わずかに緩んでいた表情を引き締めたラドルフの目が、暗く翳った。皮膚の半分近くが無残に焼け爛れた顔から表情を読むことは難しい。だがその漆黒の眼差しは、意外と表情豊かだとフィリエは思う。
「明日、ローデシアの港からシルヴィアに玉を輸出する船が出る」
「……はい?」
「カイジャンの昔の傭兵仲間がその船の護衛に乗るそうだ。――お前はそれに乗って、国へ帰れ」
「ちょ、ちょっと待って下さい、何を言ってるんですか?ラドルフさん?!」
 マゼンダの街で姿を消したラドルフの後を追って、この国で再会した時、フィリエは彼が抱える問題を共に解決しようと心に誓った。ラドルフとて、フィリエのそんな意思を汲んでくれたからこそ、ローデシアの王城に向かうという重要な役割を任せてくれたのではないのか。
「俺は直接知らないが、それなりに腕の立つ男らしい。安心して頼っていい」
「護衛ならラドルフさんがいるじゃないですか!!何でそんなこと言うんですか?!皆で――わたしとラドルフさんとカイジャンさんとで、継承の指輪を探し出して、一緒にシルヴィアに戻るんじゃないんですか?!」
 どうして彼がいきなりそんなことを言い出したのか。真意が知りたくて顔を覗き込んだフィリエから、ラドルフはまともに顔を逸らした。ついさっき、表情豊かだと感じた漆黒の瞳が見えない所為で、ラドルフが何を思っているのか、推察することさえ出来ない。
 発する声音は、喉奥から無理やり絞り出されたかのように、低く掠れていた。
「……お前はシルヴィアの王女だろう」
「そうですよ。それがどうしたんですか?」
「ここでお前に何かあったら、シルヴィアとローデシアの国際問題になる。そう考えたことはないのか」
「――!」
 瞬間的に頭の奥が真っ赤になって、気がついた時、フィリエの掌は、ラドルフの頬を張っていた。決して、渾身の力を振り絞った一撃、というわけではない。ラドルフにとっては撫でられたようなものだろう。なのに弾かれたように、男はフィリエから身を引いた。
「どうして……どうして、そんなことを言うんですか……?」
「……」
 拳を握り締めて肩で息をして、どうしてこれほど悔しいのだろうとフィリエは思った。以前、他でもないラドルフに言われたように、彼女を姫君扱いする人間など、これまでの人生で吐いて捨てるくらいに出会ってきた。いや、フィリエのこれまでの人生において、そうではない人間の方が、数が少ないくらいだ。
 ――わたし、嫌なんです。姫様って呼ばれるの。何だか馬鹿にされているみたいで。
 ――ならばフィリエ。お前はこの状況をどう読み解く。
 こちらが親しくなったと思っても、フィリエの立場を思って、尻込みして後ずさりする人間を、これまで何度見てきたことだろう。ラドルフはフィリエが王女だと知っていても、これまで、それにこだわったことは一度もなかった。そうでなければ、戦いの場で、互いに互いの背を任せて剣を抜くことなどできはしない。
「ラドルフさんが言ったんじゃないですか……!」
 勢いに任せてラドルフの胸元の布地を掴んで、フィリエはそれをきつく握り締めた。握り締めた拳の中で、ラドルフの着ているシャツに皺が寄る。男が微かに息を呑む気配があったが、それでも、ラドルフは彼女を引き離そうとも、向き合おうともしてくれない。
「無理をして王女にならなくていいって。ラドルフさんの前では、姫にならなくてもいいって……」
 不覚にも涙が浮いてきそうになって、フィリエは握り締めた拳を持ち上げた。伝わらないし、通じない。こんなに近くにいるのに、目の前にいる男が、まりで別の世界の人間のようだ。
 どれくらいそうして二人で黙ったままでいただろう。不意に窓辺に垂れ下がった布がゆらりと揺れて、生ぬるい風が吹いてきた。その風に圧されたように、ラドルフははじめて、まともにフィリエを見た。
「俺は何も聞いていないからな」
「え……」
「お前はミドルバの奴におかしな香を嗅がされておかしくなっていただけだ。お前は何も言っていないし、俺は何も聞いていない」
「え?わたし、何か言いましたか?」
 フィリエの言葉に、ラドルフはまともに目をしばたたいた。
 ラドルフが言っているのは、恐らく、ローデシアの王城でフィリエが香を嗅がされて、この宿屋に戻ってくるまでの間のことだろう。見せられた幻は覚えているけれど、それ以外はまるで雲を踏んでいたかのようで、ほとんど記憶にない。
「覚えていないのか?……ならいい。そのままずっと忘れてろ」
「――フィリエちゃん、ラドルフ?もしかして、お邪魔かな?」
 割って入ってきたのは、これまでの状況をもとものしない、底抜けに明るい声色だった。開けたままにしてあった部屋の戸の向こうで、燃えるような赤毛の男がひらひらと掌を振っている。
「何だかすごい騒ぎだったから来てみたんだけどさ……、もしかしてお邪魔だった?」
 言われてはじめて、ラドルフと自分の身体の距離が、非常に近しいところにあったことに気がつく。驚いて飛び退ると、仏頂面のラドルフがカイジャンにやりこめられている光景に出会った。
「おいラドルフ、お前、何だって、病み上がりの女の子を苛めてるんだ。階下まで声が聞こえてたぞ?」
「俺は何も苛めてなんか……」
「フィリエちゃんもね。この偏屈で無愛想で唐辺木な馬鹿男に声を張り上げたりなんかしたら、君のその細い喉なんて潰れちゃうよ?言いたいことがあるなら、お兄さんが聞いてあげるから……」
「――おい、カイジャン。その手を離せ」
 フィリエの肩に手をかけたカイジャンを見て、ラドルフの声色が一段と低くなった。カイジャンのこの軽々しいふるまいがフィリエとラドルフの間に漂う暗雲を振り払らわんが為だとしたら、見事な洞察力と演技力だ。是非ともシルヴィアの王宮にスカウトしたい。きっとあっという間に、大臣にまで昇りつめることだろう。
「ところでフィリエちゃん、ローデシアの王城ってどんなだった?俺、結構ローデシアで働いてるんだけど、王城の中には入ったことないんだよね」
 今彼らが滞在している宿屋の一室は、決して狭くはないが、広くもない。傭兵である屈強な男が二人もいては、立っている隙間もないくらいだ。先ほどまで横になっていた寝台に腰掛けながら、フィリエは呟いた。
「虎がいました」
「虎?」
「ええ、白い虎です。サマンサって言って……」
 恐ろしいほど美しい銀色の獣だった。シルヴィアの王宮で献上された珍しい動物を何度か見たが、あれほど美しい生き物をフィリエは知らない。
「……白い虎だと?」
 これまでフィリエから目を逸らし続けていたラドルフが、そこではじめて眉を跳ね上げた。胸の前で組んでいた腕が解けて、日頃は刃物のように険しい黒曜石の瞳が、ほんの少しばかり見開かれる。
「何だ、ラドルフ、ローデシアに虎って珍しいのか?」
「ホワイトタイガーなら、針葉樹林帯に行けばいくらでもいるが……、しかし、何だってそんなもんが城の中にいるんだ?」
「ミドルバさんが飼っているみたいでしたよ。ラドルフさん、知らなかったんですか?」
「――知らん……っていうか、普通飼うか?城の中でそんなもの?!」
 どうやら本当に何も知らなかったらしい。珍しく動揺をあからさまにしたラドルフの肩に、カイジャンがぽん、と片手を置く。
「ラドルフお前ってさ、常識で測りきれない突発事態に、結構打たれ弱いよな」
「そんなもんに強くなってたまるか!」
 それはさておき……と、ラドルフの肩に置かれたカイジャンの手に、不意に力が篭った。そこまでのやりとりで油断していた所為もあって、ラドルフにはその手を振り払うことができないでいる。
「ここでフィリエちゃんを国に帰そうとするってことは……、お前、何か考えがあるんだろう?継承の指輪がどこにあるのか、実はかなり目処がついている。違うか?」
「……」
「お前がどう考えているかは知らんが、俺もフィリエちゃんも、もう後戻りできないところまで脚を踏み込んでしまってるんだ。今更、ここで何もなかったことにするのは卑怯だぜ」
 自分の肩に置かれたままのカイジャンの掌から、ラドルフは黙って身を引いた。黙ったままでカイジャンを見て、それからちらりとフィリエに目をやって、再び旧友に視線を戻る。
「……わかった。説明はする。ただ数日……そうだな、二日、時間をくれ」
「二日ってお前、二日で話せることなら、今話しても……って、ああ、そうか」
 急速に語尾を濁らせたカイジャンの言葉に、フィリエは思わず、太陽が燃えながら消えて行こうとしている空を見た。あと一刻もしないうちに日は沈み――そう、そのかわりに間もなく現れる月は満月だ。
 満月が訪れるたびに、負った時と同じ痛みと苦しみが再現される。苦痛に耐えかねて自ら命を絶つことさえできない。それは他人が想像するよりもずっと壮絶で悲痛な呪いだろう。生きている限り、彼はその過去から逃れることができない。忘れることも、赦しを請うことさえ許されない。
「二日だぞ。それ以上は待たないからな」
 声を張り上げるカイジャンの横脇をすり抜けて、ラドルフは背中越しにひらひらと片手を振った。太陽が沈んでから、呪いの発現までどれだけの猶予があるかはわからない。だが確実に――今夜、彼は眠れない。
 複雑な思いを抱えたまま、ラドルフが消えた戸の向こうを見つめていると、傍らの男がぽつりと呟いた。
「――狼男」
「カイジャンさん?」
「まったく、毎月毎月、律儀にどこに消えているんだか。満月の夜になると必ず姿が見えなくなるから、傭兵仲間の間で、ついたあだ名が狼男。結構、安易なネーミングだろ?」
 女から女を移り歩くから蜜蜂で、満月の夜に姿を消すから狼男――確かに安易すぎて、笑えてきそうな名づけのセンスだ。あまりにも、ふさわしすぎて。
「俺はあいつが呪いを受ける前からの知り合いで……あいつ自身が呪いと月の満ち欠けの関係に気づいていなかった頃から知ってるからな。偶然、何度か見ちまったけど」
「……」
「だから、最初に君の話を聞いたとき、俺は驚いたんだよね。あいつが満月の夜に他人と一緒にいたなんて」
 思わず見上げた視線の先には、フィリエ同様、ラドルフが去っていった方角を見やる、深く慈しむような眼差しがある。誰かが手を差し伸べたところで、呪いの発現を止めることも軽減することもできない。だが、本当に、ほんのわずかばかりの救いにもならないのだろうか。今どこかでたった一人で苦痛をかみ締めている男を思う人間が、ここにこうしていることが。
「あいつは余程、君が心配だったんだろうな」
 東の空の外れから、白く光り輝く満月が昇りはじめていた。




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