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月の宝珠
〜序章 酒場にて〜


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「昔々……というほど昔じゃない。そうだね。王様が二代代替わりするくらい昔の話さ」
 と、女は言った。
 場末という程寂れてはいない、だが栄えているとはお世辞にも言えない界隈の小さな酒場で、昼は食事を夜は酒を出している。夜も更け、他の客が誰もいなくなった店の片隅で、一人、琥珀色の液体が満ちた硝子杯を傾けていた男は、唐突に始められた昔話に、垂れていた首を上げた。
「何の話だ?一体?」
「たまには悪くないだろ。年嵩の人間の言葉に耳を傾けるってのも」
 年の頃なら四十半ばのこの店の女主人である。年相応に白いものが混じった栗毛を首の後ろで一つにまとめ、昼食時のかきいれ時など、傭兵団の団長もかくやというほどの大声を出す。
 昔は艶やかであったろう手の甲にはいくつも染みが浮き、頬や目尻には隠しきれない皺が刻まれている。それらすべてが決して醜く見えないのは、彼女がそこに至るまで歩んできた年月がそれなりに充足したものであったからだろう。
「何で俺がそんな話を聞かねばならん」
「まあ、そう言いなさんな」
 洗って乾かした硝子杯を磨きながら、女主が笑う。彼が時折この店を訪れるのは、彼女の店が値段の割りには美味い酒を出すからだった。この辺りは名高い葡萄の産地なので、良い酒が出来る。彼女の店の酒は、遠方の大陸ならば宮廷料理に並ぶものと遜色ないように、男には思えた。
「その国の王様には、姫がいた。格段、美しくも賢くもない……だけどまあ、それなりに可愛くて、心根は善良な姫君だった」
「だからどうして俺にそんな話をする」
「ここに一人の剣士がいる」
 男の手の下で店の卓がかたりと鳴いた。視線が外して壁にたてかけた鞘のままの剣に移る。男は旅の傭兵だった。数カ国がひしめき合い、小競り合いを繰り返しているこの地方ではそう珍しい職業ではない。
「剣の腕は超一流、戦で兵の指揮をさせれば、一国の将軍だって務まるほどの器の男さ。だけどその剣士には、傷があった。誰もが一目でそうとわかるほどの」
 戦で火災に巻き込まれ、顔も含めた左半身が醜く焼け爛れていたという。
 その傷故に彼は一所に留まることが出来ず、争いを繰り返す国々を渡り歩いて、やがて、姫の国へと辿りついた。
「姫は剣士を愛した。そして剣士も姫を愛してしまった。だけどそれは到底許される恋じゃない」
 硝子杯の内側で琥珀色の液体が揺れる。
「ある日、互いにとうとう我慢ができなくなったんだろうね。二人は手に手を取って、国を抜け出して……」
「それで、どうなった?」
「さあ、この二人、あんたはその後どうなったと思う?」
 見上げた女主人の鳶色の瞳に悪戯じみた光が混じる。まったくもって悪趣味な……杯の中身を空にして、男は口の端を持ち上げた。
「大方、剣士は根っからの大悪党で、姫の持ってきた金やら宝石を奪い取って、彼女を置き去って逃げた。そんなところだろう」
「ほう……あんたはそう思うかい」
「くだらん話だ。代金はいくらだ。俺は帰る」
 持ってきたのは壁にたてかけた剣と財布のみ。それらを持った男が立ち上がると同時、ちりん……と澄んだ音がした。酒場でさえもざわめきを忘れた深夜、とうに閉店時刻を過ぎたはずの店の戸が開いた音だった。




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