×

[PR]この広告は3ヶ月以上更新がないため表示されています。
ホームページを更新後24時間以内に表示されなくなります。




すすき野原


 
――目を閉じれば今も鮮やかに、すすき野原で笑う彼(か)の人の姿が見える。


「何度お聞きになられても、答えは変わりません。――わたくしは絶対に、宮中には参りません」
 頑なな拒絶に、男は深く長い息を吐く。白い色が混じった顎鬚に手を伸ばし、微笑を浮かべたその表情は、幼子を宥める好々爺のそれであったが、生憎、彼が今相対しているのは、幼子ではなかった。
「多子(たし)、聞きなさい」
「いやです。もう聞きたくない」
「聞くのだ、多子。他の誰でもない、主上が、お前をお望みなのだぞ。考えてもみろ、入内し、もし皇子が授かればそなたは国母じゃ。この爺は帝の外祖父じゃ。これ以上の栄誉があろうか」
 滔々(とつとつ)と、語り聞かせる父親の言葉を振り払わんといわんばかりに、多子は激しく首を振った。深夜の男の訪れとはいえ、実父の訪問に、本来ならば垂れ下がっているべき御簾も今は上げられている。
 藤原多子は閑院流藤原家、藤原公能の息女である。八歳の年に摂関家の藤原頼長の養女として宮中に上がり、時の帝である近衛帝の后となった。近衛帝在位中に皇后の位を賜り、帝が十七歳の若さで亡くなった後には、太皇太后として、今なお、先帝の后として人々に遇されている。
 その自分をあろうことか、今生の帝――二条帝は近衛帝の甥にあたる――が望んでいるという。既に二条帝には正妃である中宮が存在したが、二后並立は珍しいことではない。しかし二代の帝に仕える后――二代后(にだいのきさき)は遠く中国に前例こそあれ、この日の本の国には例がない。
 頑なな多子の様子に、老父はしみじみと膝を折る。
「お前と近衛帝は仲むつまじかったからな。亡き帝に操を捧げたい気持ちはわからんでもない。しかし今生は気性の荒いお方。お前が拒んだと聞き及んだら、この父だけではないそなたの兄も姉妹も……どんな処罰を受けるか知れぬのだ、多子」
 気持ちはわかる。だが耐えてくれ。そう言わんばかりの父の様子に、多子は――高位の女人としてはあるまじきことに、声をあげて笑い出したくなった。
 ――わかっている?
 貴方にわたくしの気持ちがわかろうものか。わかるはずもない。お父様、貴方は何もわかってなどいない――



「――お前、何やってんだ?」
 童形の少年が、少女を見上げて問う。黄金色の穂が揺れる川辺で、一人、涙を拭いていた多子は、唐突に現れた少年のあまりにぶしつけなこの言葉に、悲しみを忘れて声を荒くした。
「あ、あんたこそ、こんなところで何をしてるのよ?!」
「そんなことはどうでもいい。今の都は、お前みたいな小娘が、供もつれずに一人で出歩いていい状況じゃないこともわからないのか。身包み剥がされて売り払われるぞ」
 そういう少年の年齢は、恐らく、今年八歳の多子より二つか三つは幼い。しかし多子が知るどの大人の男よりも、さめざめと醒めた目をしていた。
「……母様が亡くなったの」
 多子の生みの母は、父の正室ではない。もとは正室である北の方に仕える侍女であり、父の寵を受けて多子を産んだ。とはいえ、正室であった北の方は寛大だった。飼い犬に手を噛まれたといっても過言ではない状況で、多子と実子として扱い、その母共々、自らの懐に囲いこんだのだ。
 表向き、多子の母は北の方だ。多子も北の方を「母上」と呼んできた。しかし、だからと言って――
「入内するの」
 前後の脈略のない台詞に、少年がわずかに首を傾げて多子の隣に腰を下ろした。少年の目線の先、揺れる穂先の向こうを赤蜻蛉が飛んで行く。
「だから誰も教えてくれなかったの。北の方様も、義父上も、母様が亡くなったことを知っていたのに、わたくしには教えてくれなかった。義父上はおっしゃったわ。忠通様もご養女を帝に入内させようとなさっている、よりにもよって、こんな時に亡くならなくてもよかろうに、って」
 本来ならば、身内に不幸があった娘の入内は延期されるのが通常だ。まったく、何という時に死んでくれたのだろうね。しかし、心配するな。お前の母は北の方だ。お前の入内には今回のことは何ら係わりない――
 侍女達の噂話に実母の死を聞いて問い詰めた多子に、父と父の友人……多子の義父となる藤原頼長は笑いながらそう応えた。多子が自分の入内が延期されると、憂いていると思ったらしい。
 それが、実母を亡くした娘の前で言う言葉か。何不自由ない生活を保障し、手中の珠、未来の国母にと慈しんでくれた父親に、多子が失望した瞬間だった。
「――帝は、死ぬぞ」
「そりゃ、いつかは……」
「いつかじゃない。俺の師匠は大陸の医術に詳しい。こないだ、宮中で帝の顔を拝見して、死期が近いと見て取った。二十の年は越えられぬ。子を儲けられることもないとな」
「冗談じゃないわよ!嫌々入内させられて、行く末がそれなんて!!」
 帝に先立たれ、子のない妃の行く末はたった一つだ。出家して、死ぬまで、亡き夫の菩提を弔う。
 正直なところ、多子は何度か遠くから垣間見た、近衛帝という少年が好きではなかった。彼は顔色の悪い陰気な少年で、常に母親の裳の影に隠れているようなところがあったから。
 その帝に嫁ぐ為に、母の喪に服すことさえ許されないという。かなり反抗的な気分になった多子は、帝の母・美福門院邸を訪問するこの日、輿が館に着く直前に、密かに抜け出して、この川辺にまでやってきたのだった。
「お前、帝が嫌いか?」
「嫌いというほど、お会いしてないもの。でも、お会いして、お話が弾む方だとは思えないわね」
 それはそうだ、と少年は笑う。
「ならいっそ、俺の妻になるか?俺が帝になれば、お前の親も文句は言えまい」
 少年の言葉に、多子は吹きだした。
「あんたが?大体、あんたは一体――」
「多子様!多子様!まあ、こんなところにおられて」
 不意に、頭上から声が落ちた。弾かれたように顔をあげた少年が、やべ、とその時ばかりは年相応の反応を見せて立ち上がった。呆れるくらいの身のこなしの速さで、すすき野原を駆け抜ける。途中、振り返って、大きく手を振った。呆然とそれを見ていた多子も、手を振り返す。多子の傍らで、老婆が目を剥いた。
「多子様!皆、どれだけ心配したと思っているのですか。それをこんなところで、あのような子供と係わって!!」
 あのような子供。その言葉に違和感を覚えて老婆を見る。まさか身分のない地下人の子ではあるまい。貴族か皇族……少なくとも殿上人の息子であることは想像がついていた。
「婆や、あの子を知ってるのね?あの子は誰?誰の御子なの?」
 多子の問いに、老女は憂いを帯びた目を遠くの少年に向ける。
「――守仁王様でございますよ。雅仁親王さまのご長男の。母君がご誕生と同時にお亡くなりになられて、美福門院様の養子になられた」
 彼が院に不貞を疑われて疎まれた待賢門院の子、雅仁親王の第一王子であり、皇位継承の望みを断つ為寺に預けられることが決まった少年であることを知るのは、それからもう少したった後のことだった。



 ――わたくしが嫁けばあの人は、先の帝の妃を奪った男として、世の謗りを受けることになる。
 合間見えたのはただ一度。運命の流転で、今や今生の帝となったその人を、長らく想い続けていたなど、人に言えば笑われるのかもしれない。それ以上に、かつて出会ったことさえ忘れ、先帝の后を欲しいのだと口にする二条の帝が腹立たしかった。そう、彼は覚えてなどいないのだろう。あの日、すすき野原で多子と出会ったことも、帝に嫁ぎたくなければ、自分の妻になれと口にしたことも。
 父が帰宅し、身の回りのものすべてを下がらせた一室の中で、多子は父が残したものを見る。二条帝から自分にあてられた恋文。そんなもの、破り捨ててやろうかと思って取り上げて、文に罪はないと思い直す。
 包みを解いて中を見て――多子は言葉を失った。
「白紙……?」
 何も書かれていない紙は幾重にも折りたたまれ、中にあるものを覆い隠す。夢中になって、多子は紙の包みを解いた。やがてその中から現れたものは――
「これは……」
 黄金色の穂をしたすすきが一房、多子の掌で風に吹かれて、揺れた。



 太皇太后藤原多子の再入内が執り行われのは、それから間もなくのこと。帝の実父、後白河の院は強硬に反対したし、都の人々も帝の行動に眉をひそめ、権力流されるままに2人の夫を持つこととなった多子の行動に同情した。
 彼女の真の思いがどこにあったのかを、知る者はない。
 




トップページへ


Copyright(c) 2008 Huuka yokokawa.Allright reserved