暁の彼方〜お題 新婚さんに贈る七つのお題〜



 7 なにがあろうと離れません

 秋の朝は訪れが遅い。夜半とりよりは明け方に近い刻限になっても、まだ空は薄暗いままだ。とうに芯が燃え尽きた手燭を手にとって、ルーカスはち、と舌打った。よく見れば夜具や脱ぎ捨てられた衣服の端々に、点々と血の跡がこびりついている。大して深い傷ではなかったが、それでも傷口が開いて、多少、血が滲んでしまっていたらしい。こんなものを見つけた時には今、傍らで眠っている相手が大騒ぎ――というより怒りだしそうなので、目を覚ます前に片付けてしまおうと心に誓う。
「俺が何を言っても、ここにいる、か……」
 ルーカスの腕に身をもたれかけたまま、テラはまだ目を覚まさない。無理もないだろう、と思って、ルーカスは口の端をほんの少しだけ歪めた。俺はこれほどこの女に飢えていたのか。当の本人が呆れるほど、求めても求めてもなお飽き足らず、昨夜は慣れない身体に、随分と無理を強いてしまった。
 ぐったりと力なく投げ出された細い腕を取って、胸の上で指をからめてみる。
 失いたくない。壊したくない。どんな些細な傷さえつけたくない。けれど守ろうとすればするほどテラはかえってルーカスの想像を裏切って、危険な道に足を踏み出してしまう。今回はたまたま上手くいったからいいが、一年ほど前に起こった出来事を思い出すと、今でもルーカスの心臓は凍りつく。
 それを避ける道は一つしかない。ある程度はこちらから事情を告げて、彼女にも事実を理解してもらうことだ。実際、わけもわからぬままに危険に首を突っ込まれるより、その方がよほど安心なのだ。しかしそれは同時に、ルーカスの宰相である部分をテラにも背負わせることになる。
「……お前は本当に、それでいいのか」
 今更、誰に言われるまでもない。この手が血で塗れていることを、ルーカスは痛いくらいに実感している。そしてまた同じ岐路に立たされた時、迷うことなく、同じ道を選び取るのだろうことも。いつか、その重みに、テラが耐えられなくなる日がきっとくる。――わかっている。わかっているのに、ああ、もう駄目だ。何があっても、手離せない。
 人は貪欲な生き物だ。はじめはこの手にかかって死ぬつもりだった。それでいいと思っていた。それがいつしか生きていたい、に代わり、共に、と願うようになった。そしてまた、今、愚かにも願おうとしている。できることならずっと。今ここにある幸福が永遠に続いていってくれるように、と。
「う……ん」
 わずかに身じろいた瞬間、二人で包まっていた夜具が動いてそこから、はっとするくらいに白い肩がはみ出した。純粋に寒かったのだろう。途端、小さく身を竦ませて擦り寄ってくる。彼の胸に頬を寄せ、安心したように頬を緩めた表情は、幼女のように愛らしい。
 動いた所為で離れてしまった身体を抱えなおして、その額に口付けを一つ。柔らかな髪の中に顔を埋めて、小さく息を吐き出す。
 かつて全身全霊をかけて信じたものは、木っ端微塵に砕けて散った。破片を探してあがき続けた両手は、もう拭うことなどできないくらいに汚れてしまった。永遠など信じられない。けれど今もう少し、本当の夜明けが来る時まではこうして、幸せでいられる。それくらいは、信じられそうな気がした。



 誠心誠意、力をこめて整えた一室は、見る影もなく荒れ果てていた。いっぱいいっぱいに水分を吸い込んで、おかしな色に変色してしまった絨毯と、と明らかに血痕とわかるものが飛び散った壁を見て、エリザは途方にくれた。テーブルは片足が折れて、椅子はひっくり返っている。これをどうやって片付ければいいというのだろう。
 取りあえず危ないから食器の破片を集めようと屈みこんだ瞬間、背後で声がした。
「手伝います。――何をしたらいいか、言って下さい」
「ル、ルーカス様?!」
 思わずエリザが放り投げてしまった皮袋を、ルーカスは若者らしい俊敏さで受け止めた。途端、わずかに顔をゆがめたように見えたのは気のせいか。まずは、エリザの手に負えない大きなものを運び出すことにしたらしい。足の折れた椅子を抱えて、部屋の外に出ようとしている。
「ど、ど、どうしていらっしゃるんですか?」
「――いたら、いけないんですか」
「とっくに王城に戻られているものとばかり……」
 客人を招いていたはずの部屋が、たった一夜で、どうしてここまで荒れ果てることとなったのか。事情を問うたところで答えてくれるとは思えなかった。いや、そんなことよりも、この朝方――ほとんど早朝と呼べる時刻に、なんでこの若者がここにいるのだろう。
 椅子を二つ廊下に運びだして、ルーカスはすぐに部屋に戻ってきた。傾いたテーブルを持ち上げようとして、思い切り顔を歪めている。これは一人では無理だ、と呟いて、固まったままのエリザを振り返る。
「まったく」
「……」
「何だって、朝っぱらから自分の家にいて、そこまで驚かれなければならないんですか」
 さらりと聞き流してしまいそうな言葉の中に、重大な何かが含まれている気がした。さりげない、けれどとてつもなく意味の重い何かが。
 ――家。
 この邸は宰相の官邸で、だから宰相であるこの若者がこの場所を自分の家と呼んで、差し支えることは何もない。けれどエリザはこの邸で働きはじめて一年あまり、ルーカスがこの場所を「家」と呼ぶのを聞いたことがなかった。執務にかかりきりでほぼ王城で寝泊り、たまに帰ってくるかと思えば着替えてすぐに出ていくのだから、それも仕方ないのかもしれないが。
 エリザの戸惑いがわかったのだろう。立ち竦んだ老女を見て、若者はほんの少しバツの悪そうな顔をした後で、晴れやかに――まるで憑き物が落ちたような顔で笑って見せた。
「家でしょう。ここが俺の――いや、俺たちの」
 窓の外に見える空は晴れ渡っていた。風も雲もなく、ただ凍りつきそうなほどに青い。すべての葉を落として裸になった庭木の隅を、冬支度の栗鼠が通り過ぎていく。もう幾日かたてば、今度こそ本物の、春まで溶けることない雪が降る。
 厨房の方角でかたりと何かが動く音がして、何かを煮炊きする気配がした。どうやら、あの娘――否、この若者の妻が、朝餉の支度に取り掛かっているらしい。
 寄る辺のない若い男女が寄り添って、これから辿る道筋は、決して平坦なものではないだろう。それでも、凍えることだけはないはずだ。そこに帰る家があり、待っていてくれる人がいるならば。
 乱れた部屋はそのままに、朝餉の支度を手伝うため、エリザは宰相官邸の厨房へと急いだ。






暁の彼方番外編 お題「新婚さんに贈る7つのお題」完結

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