暁の彼方〜お題 新婚さんに贈る七つのお題〜



6 信頼よりも愛がある

「――脱いで」
 兵士達が罪人を連れて王城に戻った後、今は夫婦の部屋となっている宰相官邸の一室で、テラはルーカスにそう言った。我ながら突拍子もない台詞だと思ったが、言われた方も同じように感じたらしい。呆気に取られたような、妙に緊迫感のない顔で、テラを見る。
「は?」
「傷の手当をしないと。消毒も止血もまだなんでしょう?」
 もっと何か言うかと思ったが、案外と素直に、ルーカスは着ているものを脱ぎ捨てた。左肩の下の辺りの皮膚がわずかに裂け、肘から手首にまで一筋、血の跡がこびりついている。もっとも傷そのものはそう深くなく、傷口の血は固まりかけていた。消毒用の酒をかけてその塊を溶かすと、頭の上の辺りで、小さく呻くような声がする。
「おい、もう少し丁寧に……」
 本当に痛い時には、たとえそれが命に係わるような深い傷であっても平気な顔をしている癖に、軽症の時に限って騒ぎたくなるものらしい。もっとも、多少、扱いがぞんざいになったことは否めなかった。だって、この男はまた――そう、またやったのだ。テラに嘘をついて、大切なことは何も言わずに、また、自分の身一つを危険にさらそうとしていた。
 傷口を洗って清潔な布を当て、晒を裂いて縛り上げる。痩せてはいるが、それでいて鋼のように鍛えられた身体だった。衣服の上からでは想像もできないほど厚い胸板や、広い肩幅を直視する勇気がなくて視線を逸らすと、背から脇腹にかけて、今なお生々しい、引きつれた傷跡が目に入る。
「……どうして」
 思わず、そんな言葉が口を吐いてでる。
 いつだってそうだ。自分以外の周囲を守る為に、ルーカスはいつだって一番初めに、自分自身を切り捨ててしまう。切り捨てられた傷口が膿もうが血を流そうが頓着しないし、そんな彼の姿を見て、心痛める人間がいることなど、はなから眼中にもない。
「それはこちらの台詞だ」
 傷口を縛り終えた瞬間、強い力で二の腕を引き寄せられた。あの中断された新婚初夜の晩以来、これほど至近距離で向き合うのははじめてのことだった。おまけに場所は夫婦の寝室で、今二人がいるのは同じ寝台の上だった。けれどそこにあの夜のような甘やかさはない。ただ痛いくらいに鋭い眼差しと、腕を掴む指の力だけがある。
「テリーゼの館に行っていろ、と言ったろ」
「……」
「今日、ここで起こることをどうして知っていた」
「知ってなんかいないわよ」
 ユステリアの王女を官邸に招いて、そこで一体何があったのか。どうしてよりにもよって、他国の王女と宰相が剣を合わせるような羽目になったのか。
 問いたい言葉は多々あったが、そんなものはただ、ルーカスがまた、自分に嘘をついた、という事実の前に霧散していた。あたしは今、この人に心底腹を立てているのだ、とテラは思った。共に生きてくれ、と確かに彼はそう言った。けれどルーカスの側に先を生きる気がないのなら、テラ一人でこの後を、どうやって生きていけばいいという。
「なら、どうして来たんだ」
「……なんとなく」
 強(し)いて言うなら、あの瞬間、ほんの一時視線が交わった所為か。この男は真性の嘘つきだ。口から出る言葉など信じられない。けれどあの瞬間の眼差しだけは、確かなものが含まれている気がした。
「なんとなくって……大体、俺は近衛隊に、猫の子一匹通すなと命じていたはずだ」
「そうなの?二、三人眠らせて植え込みに隠しておいたから、まだ気づいてないなら助けに行った方がいいかもしれないけど――」
 ざわり、と音をたてて、揺れる官邸の庭木の樹影を見る。軽く当て身を食らわした程度だから、とっくに意識を回復していることとは思うが。
 まるで料理されてはいるけど正体の知れないものを口に入れてしまった、という顔でまじまじとテラの顔を見た後、ルーカスは気が抜けたように笑い出した。笑いと同時に二本の腕が、伸びて背中に絡みついてくる。抱き締められる、と身を固くした瞬間、男の掌はテラをかすめて、その背後の壁に突き当たった。
 まるで薄皮一枚隔てたような、抱擁と呼ぶには、あまりに拙い抱擁だった。くつくつ、と喉を震わす音は確かに笑い声なのに、小刻みに揺れる背中は、まるで泣いているかのようさえ見える。
「……ルーカス?」
「まったく、お前には敵(かな)わないな」
「敵うとか敵わないの問題じゃ――」
 ほんの少しだけ、腕の力が強まった。拘束の中で、何とか顔をあげて表情を見ようとしても、漆黒の髪の中に隠れて見ることができない。
「テラ」
「はい?」
「……敵わないついでに、一つ、聞いてもいいか?」
「……?」
「お前の目には今、俺が何に見える……?」
 百の言葉より、万の謝罪より、重たい一言だった。
 何があったかは知れない。けれど、彼が自分がしてきたことを悔いてないなんて、嘘だ。
 戦いの場において、仲間の多数を救う為、誰かを切り捨てなけれなならないことがある。犠牲を覚悟で、誤っているかもしれない道を、突き進まなければならないことも。
 選択を迷う指導者に、人は命を預けない。だから何があっても、迷う姿を他人に見せることはできない。犠牲となった人間は、ただその選択を強いた相手を恨めばいい。恨めば恨んだ分だけ、喪失の痛みはやわらぐ。
 迷わないと、迷えない、は違う。迷いを捨てるということと、迷うことを許されないことも。
「……ろくでなしよ」
 きっぱりと言い切ったテラの言葉に、ルーカスははじめて顔をあげた。その顔は、何とも表現がし難いほどに歪んでいた。そんな顔をしていると、年齢よりも――いや、年相応くらいに頑是(がんぜ)無い顔つきになるのだとわかって、不覚にもテラはほんの少し笑った。
「人の気持ちなんてまるで考えないし、約束は踏みにじるし、嘘ばかりついて、平気で人を騙すし」
「……最低だろ、それ」
 指を伸ばして、顔にかかった黒い髪をかき分けてみる。見た目よりずっと柔らかくて、まっすぐな髪だった。さらさらと指の合間から零れ落ちて行く。
「そうよ、最低だわ」
「……おい」
「だから、あたしは、あなたの言葉なんか信じない」
 剥き出しの背中に自分から腕を絡めて。深く刻まれた鎖骨の窪みに額を押し当てた瞬間、固く強張っていた何かが解けた気がした。その感覚はまるで、あるべき場所に帰ってきたかのような深い安堵をともなっていた。
「あなたが何と言ったって離れない。ずっと、ここにいる……」





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