暁の彼方〜お題 新婚さんに贈る七つのお題〜



5 誓約

 ――よくぞまあ、短時間でここまで整えたものだ。
 一応は我が家――賜って足掛け七年にもなる宰相官邸の一室で、ルーカスはしみじみと、そう感嘆した。何しろ部屋数だけは無駄にある邸だ。きちんと把握しているわけではないが、今、彼が夕餉の席についているこの部屋は昨日までは、ほとんど物置代わりに使われていたように思う。
 そんなことをつらつらと思いながら、目の前の硝子の杯に形だけ口をつける。例え自分が呑めなくとも、誰かと会食するには酒の類は必須であるし、となると招いた側がまるで口をつけずにいるわけにはいかない。これも礼儀作法の一種である。
「本日はお招きいただき、ありがとうございます」
 招かれた側――ユステリア王国王女カトリーナが、優雅な仕草で杯を持ち上げた。こちらはルーカスとは違い、かなりいけるクチらしい。不作法にならない程度に杯を傾けて、並々と注がれた琥珀色の液体を、飲み干している。
「ユステリアでも、グリジアの宰相閣下のお噂はうかがっていました。こうしてお近づきになれたこと、嬉しく思います」
 年の頃はルーカスよりやや上くらい、つまりは二十三、四くらいか。とりわけ美人ではないが、すっと切れ上がった眦に、はっとするほどの色香がある。サイファのような大国の王家に嫁いでいたというだけあって、身のこなしも言葉遣いも、完璧な貴婦人のそれだ。
 ――作法、か……。
 交わされる見え透いた世辞の押収の狭間で、心がふと、別なところに引き寄せられた。ルーカス自身、十四という中途半端な年齢で王宮に引き取られ、礼儀や作法については身につけるまでかなりの苦労を強いられた。正直、今だって苦手だ。取り澄ました人間達に手許を見られてものを食うくらいなら、厨房に忍び込んで残りものをあさった方がよほどましだとさえ思う。
 ――そう言ってやればよかったのだろうか。
 無理をしなくともいい。王家の森に捨て置かれ、半分浮浪児のようにして育った自分でも、時さえたてば付け焼刃がはがれない程度に身につく程度のものだし、そもそも、そんなもの、ないならないで全く構わないのだ、と。
「兄がつねづね言っておりました。グリジアの宰相閣下とは是非お近づきになりたい、と」
「――実は、貴女のご夫君にお会いしたことがあるんですよ」
 人間、筋書きがあればいくらでも芝居はできるが、予想外の出来事に直面すると、己の素で対応するしかなくなる。前触れのない唐突な台詞に、女の顔から一瞬、完璧な貴婦人の微笑が消えたことを、ルーカスは見逃さなかった。
「もう八年は昔の話になりますか。俺はまだ子供でしたが、御前試合で、当時の近衛隊副隊長をあっさり破った剣技、今も覚えていますよ」
 言った言葉に嘘はない。サイファ公国の公子がグリジアを訪れて、国王の前で剣の勝負をして見せたのは、ルーカスがまだ王宮に入って間もない頃のことだった。今でもはっきりと覚えている。ただしその公子はこの女の夫であった第七王子ではなく、そのすぐ上の兄王子であったが。
「あら、それは多分、他の人とお間違いになっていませんか?夫は、学問は得意でしたが、武芸の方はからしき……」
 くすり、と小さな微笑。対するルーカスは、ち、と小さく舌打った。大方、予想されたことではあったが。
 ――こんな程度の手には乗ってこないか。
 兄王からの月英王にあてた親書を手に、グリジア王国に入国したユステリアの王女。その素性に疑いを抱き始めたのは、親書盗難の事件があってからのことだった。ユステリア王からの文書は正式なものだったし、彼女が訪れる直前の勅使とのやりとりにも、おかしなところはまるでなかった。ユステリアの新王が月英との通商を望んでいるのは間違いないし、その為に妹王女を使者にたてたのも間違いないが――その王女が本物の王女であるという保証は、実のところどこにもない。
「宰相閣下?」
「失礼いたしました。ご夫君を亡くされたばかりの方に無神経なことを」
 カトリーナ姫の夫であったサイファ公子はごく最近、不慮の事故がもとで亡くなっている。ルーカスの疑いを気づいていないわけもないだろうが、女は純白の布地を取り出して、目許をそっと覆って見せた。
 ――さて、どこから切りかかるか。
 戦闘者のギルドが壊滅した今、グリジアの王宮はむやみに無頼の輩の侵入を許すほど荒れてはいない。いくら調べても親書の行方も、侵入者の痕跡もつかめないのなら、はじめからそんなものがなかったということだ。ルーカスの出した単純すぎる結論が、クラウスやその他の人間には理解し難かったらしい。機会があるなら一度きり、その一度で確実に化けの皮を剥がすと豪語したルーカスに、最後まで疑り気な視線を向けていた。
「ユステリアの冬はグリジアより随分、暖かいのでしょう。南端では麦が二回取れると聞き及びましたが」
「山国ですので、それでも朝晩はかなり冷えますのよ。炭の備蓄にまで手が回らない貧困層では、稀に凍死者が出ます」
 厳選された材料で作られた肉料理を切り分け、口許に微笑を浮かべて取りとめのない会話を交わしながら、互いの腹の底を探りあう。
 ――俺は結局、こういう生き方しかできない男だ。
 穏やかな暮らしがしたい、と願ったこともあった。けれど結局、同じ場所に舞い戻ってきた。側にいてさえくれれば人らしく生きられる気がして半ば無理やり手に入れたのに、それでも何も変わらなかったのは、――つまりはそういうことなのだろう。
 そうそう、と一際微笑を深くして、ルーカスは再び硝子の杯を手許に引き寄せた。実のところ、器の中身は酒ではない。水に色をつけただけの液体で喉を潤して、一気に言葉を紡ぎだす。
「――国境を越えようとした間諜はすべて捕らえましたよ」
 かたり、と女の手許で何かが滑った。肉料理を切り分けていたナイフが、テーブルの端を打ち、毛足の長い絨毯の中に吸い込まれて行った音だった。
 芯からの貴婦人は、食事の途中に何かが落ちたからと言って、自ら拾うような無作法はしない。といっても、ルーカスが人払いした宰相官邸の一室には、彼と彼女以外の人間は誰もいなかった。傍らに歩みよってそのナイフを拾ってやる。もっとも、それをそのまま返してやったりはしない。拾い上げた刃先を軽く下にむけ、挑むように、嘲るように王女――否、女を見る。
「――本物のカトリーナ姫はどうした?」
「……」
「護衛の兵士も侍女も拘束した。この邸全部が、近衛軍によって囲まれている。文書が消えたという理由で王宮に滞在し、王都に忍ばせた間諜と謀って何かを起こすつもりだったのだろうが、お前はもうここから出ることはできない。ただ――」
 紅色に塗られた唇が慄いた。椅子の背もたれに回した指先に、ぎゅっと力が篭る。
「本物の王女の居場所を教えるなら、罪には問わずにすませてやってもいい」
 だてに半年近くも執務室にまで出入りさせ、間近で観察し続けていたわけではなかった。完璧な王女を演じながら他国の王宮に滞在し、王都にいる間諜と密かに連絡を取り合うなど、並の女にできる言動ではない。とはいえ、まさかこの女一人ですべてを企んだわけではないだろう。確証こそつかめなかったが、裏に厄介な黒幕がいることは間違いなかった。
 ならばこの女は――、使える。
「間諜が捕らえられたことはすぐにサイファ公国――ミリウム2世にも伝わる。敵の真っ只中に取り残されたお前に、救いの手が差し伸べられることはない。――どうだ?」
「わたくしに、黒宰相に仕えろ、と……?」
「サイファのような大国と違って、こっちは万年人材難でね。使える人間は一人でも多く確保しておきたいんだ」
 権力に阿(おもね)るものは権力に翻り、金に跪くものは金で動く。情に崩れるものは情に流され、義を重んじるものは、義によってつまずく。人の思いの形は多々あれど、その人間を動かす根の部分はたった一つだ。
 それがこの七年で、ルーカスが得た持論だった。その根さえ掴んでしまえば、人を意のままに動かすことは存外、容易い。
 さあ、この女を動かしているものは、何だ。この人間は何によって突き動かされている?
 その瞬間、どん、と左の肩に衝撃が走った。微かに引き攣るような間隔と共に、生暖かいものが滴り落ちてくる。あらかじめ護衛や侍女から引き離し、武器の類を手にしていないことは確認していたし、ルーカスとてそれなりに剣を使える身だ。油断したつもりはまるでなかったのが、どこにそんなものを隠していたのか、女の手には小型の剣が握られている。
「救いの手が差し伸べらない?だったらお前を殺してわたしも死ぬまでよ。――<黒宰相>!」



 ざわり、と背後で何かがざわめいた。日暮れ前にエリザが点した暖炉の火が、室内の不穏な空気に煽られ左右に激しく揺らめき、灰白色の壁に火影が浮かぶ。左腕を押さえて半歩下がったルーカスは、咄嗟、窓の外の気配を仰ぎ見た。濃紫の空に浮かぶ三日月。ろくな手入れもなく、生えるに任せている庭木の合間に、近衛隊の兵士達を配置してある。
「ユステリアが月英に近づいたのは時代の流れだ。俺を殺したところで、止められるものか」
「――そんなことはどうでもいいのよ」
「どうでもいい、だと……?」
「エマルモンド伯の名を覚えていて?」
「……エマルモンド?」
 グリジア王国西方にある、一つの都市の名だった。現在は国王の直轄地となっているその地は、数年前まで、エマルモンドの名を持つ一家が収めていた。
「わたしの父親は七年前、お前に虫けらのように殺された先のエマルモンド辺境伯、わたしはその娘よ」
 ――ああ、そういうことか。
 す、と胸の奥で何かが腑に落ちた。先王シリウス2世と癒着し、過酷な施政で領民を苦しめていた先のエマルモンド伯。なるべく親類縁者に咎が及ばぬよう気を使ったが、それでもあの頃は随分と人を殺した。何とかして助けだそうと奔走した罪人の子供に、唾を吐きかけられたこともある。
 権力に阿(おもね)るものは権力に翻り、金に跪くものは金で動く。――ならば憎しみは?憎しみに突き動かされた人間は、何によって翻る?
「あいにくだが、俺が殺した相手は、お前の父親だけではないんでな。一人一人の名前までいちいち覚えていられるか」
 ルーカスの言葉に、唇から血が滲むほど、女は強く歯をかみ締めた。
「さすが下種の血を引く男は違う。――お前には人間の心がないのか?!」
 そうかもしれない、とルーカスは思った。目の前で憎しみを滾らせた目をした女と、かつて出会った一人の娘の姿が重なる。父親を亡くして、サイファの縁者にでも引き取られたか。そこで身につけたのが暗殺や間諜としての術だったのだとしたら、その境遇まであまりにもそっくりだ。
 するり、と冷たい感触がして、袖口から何かが滴った。先程斬りつけられた傷口から流れた血が絨毯の長い毛足の中に吸い込まれて行く。憑かれたようにその光景を見ていた女の紅を刷いた口が持ち上がる。刃を片手に挑みかかってきた女を、ルーカスは腰に刷いた剣を外して受け止めた。衝撃に耐えかね、相手が一瞬身を引いた隙に、すかさず抜刀する。
 食卓の上にあった水差しが割れ、硝子の破片辺り一面に飛び散った。
 騒ぎを聞きつけた兵士が駆け込むが早いか。女の刃がルーカスを裂くのが早いか。それともこの剣が、女の胸を貫くのが先か。
 道の行く先は三つに一つ、三つに一つの確率に、かけるつもりは毛頭なかった。たとえ境遇がそれほど似通っていても、この女の手にかかって死ぬ気はない。
 狂っているのはどちらだろう。この女か。――それとも自分の方なのか。
「悪いが、俺の命をくれてやる相手は、もう決まっているんでな……!」
 その瞬間、張り詰めた空間を閃光が走った。一直線に空間を切り裂き、正確に刃を――ルーカスの剣ではなく、女の手にある刃だった――弾いて、宙に翻る。同時に官邸をとり囲んでいたはずの兵士達が、雪崩れを打って駆け込んできた。
「宰相閣下!」
「――ああ、捕らえておけ。自害させるなよ」
 屈強な兵士達が王女を騙った女を取り囲み、その口にぼろきれが詰め込まれるのを見て、ルーカスはようやく肩の力を抜いた。視線はこの空間を引き裂いて、壁に突き刺さったままの短刀に向う。視線を滑らせた先では、白い布地が床に落ち、王宮の料理人が精魂こめて作り上げた料理が、辺り一面に散乱していた。エリザがどこかから探し出してわざわざ敷いてくれた絨毯は、酒やら汁やら血やらを吸ってびしょびしょだ。
 そろそろと視線を上向ける。その先には想像違わず、ここにあるはずのない一人の娘の姿があった。
「……テラ」
 二人の合間の空間は、わずか数歩の距離でしかない。その数歩の距離を動くことができずに、ルーカスはただ、彼女の存在だけに見入っていた。





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